久留間鮫造『価値形態論と交換過程論』の批判的検討  田中一弘(文化知普及協会会員)

 

1.はじめに――問題提起

 久留間鮫造の古典的名著『価値形態論と交換過程論』(岩波書店、1957年)以来、価値形態論と交換過程論との関係をめぐっては、学会において膨大な論争が繰り広げられてきた。この論争の中心点は、価値形態論における貨幣形態生成の論理と、交換過程論における貨幣の生成の論理とを、どのような関連において理解するのか、というものだった。

 この論争は主として現行版『資本論』に依拠してなされてきた。周知のように、現行版『資本論』の価値形態論は、初版附録の価値形態論にもとづいて、初版本文のものを大幅に書き換えたものである。最大の相違は、貨幣形態の取り扱いにある。初版付録および現行版では価値形態の最終形態は貨幣形態であるが、初版本文では一般的価値形態(形態Ⅲ)から貨幣形態へ移行せずに、すべての商品が第Ⅱ形態を展開するものとしての形態Ⅳが掲げられている。この第Ⅳ形態こそが、価値形態論と交換過程論との関連を考察する上で、決定的な意義をもっている、と筆者は考えている。初版本文第Ⅳ形態の意味するところは、商品を主体とする商品世界では一般的等価物は特定の商品に「骨化」せず、貨幣は成立しないということである。そして、貨幣の成立は商品所有者が主体として登場する交換過程論で説かれることになる。

 本稿は、以上のような価値形態論および交換過程論理解にもとづいて、『価値形態論と交換過程論』を批判的に検討するものである。この著作は、戦後の『資本論』研究に多大な影響を与えた古典的な名著であり、特に商品論を研究する際に、その検討を避けて通ることはできない。まず、次節では価値形態論と交換過程論に関する筆者の見解を簡単にまとめる。第3節では、そのような筆者の見解から見て、久留間説にはどのような問題点が存在するのかを明らかにしたい。

2.価値形態論と交換過程論の論理的接続関係

 最初に、価値形態論と交換過程論はどのような論理的関係にあるか、簡単に展開しておきたい。

 資本制的社会とは全面的な商品生産社会であり、商品生産は特殊な社会的分業の存在を前提としている。社会的分業が存在しているということは、自らの欲望を充足するための生産物が他人によって生産されている、ということだ。したがって、各生産者は、自らの欲望充足のために、他人の生産物を獲得する必要がある。そして、商品生産社会においては、各生産が互いに独立して営まれているため、生産における直接的な人間関係が――古代共同体や農耕民家族とは違って――存在していない。したがって、生産物の交換という形態で労働生産物の社会的配分がなされる。それゆえ生産物は商品形態をとるのである。この事態を社会的関係という視点からとらえ返すと次のようになる。

 

 「私的生産者たちは彼らの私的生産物たる諸事物(der Sachen)[1]に媒介されてはじめて社会的に接触する。それだから、彼らの労働の社会的な諸関係は、人々の労働における人々の直接的に社会的な諸関係として存在し且つ現われるのではなくて、人々の事物的な諸関係または諸事物の社会的諸関係として存在し且つ現われるのである。ところが、事物が最初に且つもっとも一般的に一つの社会的な物(Ding)として表出するということ(Darstellung)は、労働生産物の商品への転化なのである。」(同上、85頁)

 商品生産社会においては、人々の直接的な社会的生産関係は存在せず、存在するのはただ事物的な諸関係だけなのだ。つまり、事物的諸関係こそが商品生産社会における生産者の社会的関係である。

 ここで言われている諸事物間の関係が商品の交換関係であり、したがって商品の交換関係を解明することによってはじめて、商品生産者間の関係が明らかとなるのである。価値形態論がその解明であることは論を俟たない。なぜならば、商品は使用価値と価値との二重物であるが、使用価値は人間の欲求と商品の自然的属性との関係を表現するだけであって、他の商品との関係を構成するものではないからである。価値のみが商品同士を関係させるものなのだ[2]。したがって、商品所有者間の関係が問題となる交換過程論は、商品の関係が問題となる価値形態論で解明された事柄を前提としているのであり、それゆえ、価値形態論につづいて論述されるべきものなのである。

 さらにいえば、商品の価値関係としての交換関係では、関係する商品の使用価値の差異は前提となっている。使用価値が異なっていなければ、交換される必要がないからだ。従ってそれはさしあたり説明されるべき事柄ではない。使用価値の差異が交換関係においてどのような意味をもつのかは、商品所有者が登場する交換過程に属する問題なのである。

次に第Ⅳ形態と交換過程論との関係について述べておこう。価値形態論は全面的な商品交換がなされている事態を前提として[3]、そのような交換関係の基礎的な要素としてリンネル=上着という価値等式を取り上げることで、論理の展開が出発している。したがって、リンネルは任意に取り出された一例であって、それはどの商品でもよかったのである。つまり、すべての商品がリンネルと同じ過程を経ることが可能なのである。諸商品がおりなす商品世界では、どの商品も価値表現の主体となりうるし、ならなければ商品世界は構成できない――この点は、すべての商品がリンネルという一商品で価値を表現する第Ⅲ形態が示している――。したがって、すべての商品が第Ⅱ形態をとることができる。それが第Ⅳ形態が示している事態である。

 ここで注意しなければならないのは、第Ⅳ形態はあくまでも第Ⅲ形態が成立したことを前提としている、ということである。すなわち、第Ⅲ形態が成立することを論理的に解明したうえで、さらにすべての商品がリンネルと同様の過程を歩むことができる、とマルクスは展開している。したがって、形態Ⅳは、単にすべての商品が第Ⅱ形態を展開したものではなく、すべての商品が自らを一般的等価物であると主張しているものとして、理解しなければならない。そのような意味で、それぞれの商品にとっては「結局は一般的な等価物の独自に相対的な価値形態に一変する」(同上、77頁)ものとして、マルクスは第Ⅳ形態を規定するのである。すべての商品が自らを一般的等価物として主張することによって、すべての商品は一般的等価物たりえなくなる。諸商品の主観としては、第Ⅳ形態は一般的等価物としての自己にとっての「独自に相対的な価値形態」であるが、客観的に見ると、それは単なる第二形態の寄せ集めでしかない。これは一つの矛盾であり、この矛盾は商品のみが主体として登場しているかぎりでは解決できない。そこで、商品所有者が登場するのであり、交換過程論における貨幣生成論へと繋がっていくことになる。交換過程論では、この第Ⅳ形態を受けた全面的交換の矛盾が展開される。

 

 「どの商品所有者にとっても、他人の商品はどれでも自分の商品の特殊的な等価物とみなされ、したがってまた自分の商品はすべての他の商品の一般的等価物とみなされる。ところが、すべての商品所有者が同じことをするのだから、どの商品も一般的な等価物ではなくて、したがってまた諸商品は、それらが互いに価値として等置され価値の大きさとして比較されるための一般的な相対的価値形態をももってはいない。したがってまた、諸商品は、けっして諸商品と相対するのではなくて、ただ諸生産物また諸使用価値として相対するだけである。」(初版、99頁)

 

 この矛盾は、商品所有者の本能的共同行為が貨幣を生成することによって、解決される。商品所有者は、商品と異なって、交換が実現されなければ、自己の生活を維持することができないために、全面的交換の矛盾を解決する必然性をもっている。また、商品所有者は、商品に自己の意志を「宿す」(現行版、144頁)ことによって、商品に意志を支配されている。つまり、商品所有者は「商品の代表者」(同前)であり、商品という事物の「人格化」(同前)なのだ。

 「はじめに業ありき。だから、彼らは、考えるまえに、すでに行なっていたのである。商品の本性の諸法則は、商品所有者たちの自然本能において自分を実証しているのである。彼らが自分たちの商品を互いに価値として関係させ、したがってまた諸商品として関係させることができるのは、ただ、彼らが自分たちの商品を、一般的な等価物としてのなんらかの別の商品に対立的に関係させる、ということによってのみである。このことは、商品の分析によって明らかにされた。」(同前、強調は引用者。)

 

 ここで「商品の分析によって明らかにされた。」というのは、価値形態論における第Ⅲ形態の成立を意味している。商品に意志を支配された商品所有者は、「商品の本性」を本能的に読み取って、つまり、自分の頭でそれが何であるかを理解しているわけではないが、商品によって強制される形で、価値形態論で明らかにされた「諸法則」を実現するのである。また、これは単に歴史上の出来事なのではない。商品所有者は自己の商品に値段をつけるという行為によって、日々貨幣を再生産しているのである。貨幣の成立は単なる歴史的事実ではなく、日々くりかえされている事態なのだ[4]

 以上で見てきたように、「価値形態論と交換過程論の関連を問題にするのなら、何よりも初版本文の価値形態論をとりあげなければならない」[5]。つまり、「交換過程論との関連では芸術的な一体性があるのは初版本文の価値形態論の方で、現行版のそれは、分かりやすくするための教科書風の叙述によって一体性が犠牲にされたものであることが判明」[6]する。

 

3.久留間説の批判的検討

 まず、久留間がどのように第Ⅳ形態を理解しているかを見ておこう。久留間は、第Ⅳ形態を「あたかも、一般的等価物の成立の不可能を論じているもののように解される」が、それは「明らかに誤解にもとづくのである。」(前掲『価値形態論と交換過程論』、30頁)としている。形態Ⅳが意味しているのは、一般的等価物の成立が不可能である[7]というのではなくて、マルクスはそこで「それまでに展開してきた価値形態論の結果を反省しているのであり、それによってその観点の抽象性にもとづく認識の限界を明らかにし、より具体的な観点に立つ交換過程論との間の境界を暗示しているのである。」(同前、強調は引用者。)つまり、価値形態論における認識には限界があり、その限界が形態Ⅳに表れている、とみている。しかし、これは誤読である。上述したように、第Ⅳ形態においていわれているのは、単に商品の行動だけでは一般的等価物は成立しえない、ということであり、それは「認識の限界」ではなく、主体としての商品の行動の限界なのである。つまり、認識の抽象性ではなくて、商品の行動の抽象性が形態Ⅳを招来せしめるのである。すなわち、商品にとっては価値のみが自分の実現すべき属性であると認知しているがゆえに、このような事態を招来するのである。この抽象性は、前節で見たように、交換過程論における商品所有者の登場によって解消される。商品所有者にとっては使用価値の側面も自己の生存のために考慮されるからである。交換過程は商品主体が捨象する使用価値側面を考慮するから、抽象性を克服した現実的過程として現れるのである。そこで諸商品は商品所有者にサイン〈社会的象形文字)を送り商品所有者の意志を支配することによって(事物の人格化、人格の事物化)、商品所有者の共同行為としての貨幣成立を交換過程論で説くのである。久留間にあっては、形態Ⅳは単なる認識の問題とされてしまうから、このような価値形態論から交換過程論への論理的な接続関係は、まったく見落とされてしまう。その結果、交換過程論における貨幣の生成論は歴史的な過程として理解されることになってしまう。次にこの点を明らかにしたい。

 久留間は第二版で形態Ⅳが姿を消し、同時にいわゆる「移行規定」[8]も削除された点について、以下のように述べている。すなわち、第二版では貨幣形態が社会的慣習によって導入されることによって、「以前に考えられていた価値形態論の限界を越えられることになり、価値形態論の抽象性に関する以前の反省も妥当しないことになる、と考えられたためとおもわれるのである。」(同上、32~33頁)確かに貨幣形態を価値形態論に導入すれば、形態Ⅳは必要ないであろうし、貨幣形態の生成が社会的慣習によって説明されれば、価値関係のみの視点からの展開とはいえなくなるから、「移行規定」も妥当性を欠くことになろう。しかし、問題は価値形態論の「限界」――久留間にとっては認識の、筆者にとっては商品の行動の――がこれによって乗り越えられているのか、ということである。貨幣形態はここではなんら論理的に展開されて導入されたわけではない。また、初版では相対的価値形態中心の論述であるのに対して、第二版では等価形態を重視する論述となっている、という違いはあるが、商品を主体とする価値関係として価値形態を叙述している点では同一である。久留間が指摘する抽象性は第二版でも同様なのである。したがって、交換過程論における貨幣生成論は、第二版でも必要なのだ。だから、交換過程論は第二版において、ほとんど変更されていない。第二版で、マルクスは、価値形態論に社会的慣習を持ち込んで貨幣形態の成立を説く、すなわち交換過程で扱われるべきことを価値形態論に先取りして導入し、貨幣の生成を説いたのである。マルクスは論理的一貫性をある程度犠牲にしてでも、読者にとってのわかりやすさを重視したのだろう[9]。しかし、このような叙述は、論理的な一貫性を損なうことになっており、価値形態論と交換過程論との論理的関連が見えづらくなってしまっている。久留間は、貨幣形態が「価値形態の完成した姿なのである。だからこれを論じることは、価値形態論の当然の任務でなければならない。」(同上、37頁)と述べている。つまり、久留間にとって貨幣形態が価値形態論で説かれることには、何の疑問も持たれていないのである。これでは価値形態論と交換過程論との論理的接続は見失われ、両者の区別だけが強調されるのも当然であろう。

 久留間は第二版における一般的等価形態と貨幣形態との区別は、形態の問題ではなく「一般的等価形態の事実上の帰属に関するもの」(同上、33頁)であるとし、それが「一般的等価形態を特定の商品に帰属させる現実的な過程を前提として」(同上、33~34頁)いると述べている。つまり、貨幣形態の成立は交換過程によるものだということを暗に認めているのである。その一方で、金への癒着を事実として前提したうえで、貨幣形態を形態の面から問題にできる、と述べている。しかし、これはマルクスの叙述の正確な理解とはいえない。なぜならば、貨幣形態は第Ⅲ形態としての一般的価値形態との本質的な形態的区別はなく、ただリンネルが金へと変化しているだけだ、と述べているからである。形態的には同質的だとマルクスは認識しているのだ。

 第二版で貨幣形態を論じるなかで、マルクスは「社会的慣習」について説明しているが、そこでは金が貨幣と癒着する歴史的過程について説明している。これはある意味当然のことで、いったん貨幣形態が第Ⅲ形態からの何らの形態的な変化なしに成立するとされれば、形態の展開を論理的に説明する必要はなく、後に残るのは歴史的過程のみだからである。しかし、このような叙述の展開は、交換過程論の理解を混乱させることとなる。確かに価値形態論で貨幣形態まで説けば、簡単な価値形態が貨幣形態の萌芽であることがはっきりする。この点を現行版価値形態論の最後でマルクスは強調している[10]。しかし、それは交換過程論における貨幣生成の意味を見失わせることにつながった、と筆者は考える。なぜならば、価値形態論で社会的慣習による貨幣形態の成立を説くことは、交換過程論における商品所有者の共同行為を歴史的な生成行為として理解させるようになるからだ。貨幣が社会的慣習によって成立するとされたのだから、商品所有者の共同行為も社会的慣習に含まれることになってしまうだろう。さらに、貨幣生成の過程が歴史的過程として把握されることによって、貨幣の生成はある一時点のものだとされることになる[11]。久留間はそのように明言してはいないが、以下の叙述はそれを示唆している。

 

 「一般的等価形態への金への癒着がひとたび完成して、『商品世界の内部で一般的等価物の役割を演じることが』金の『独自的・社会的な機能となり、したがってその社会的な独占となる』と、一般的な相対的価値形態を特徴づけていた左辺の諸商品の隊伍は分解して、最初の簡単な価値形態と同じ姿の価格形態になるのである。そしてこれこそは、現にわれわれの前にあたえられている商品価値の現実の形態であり、価値形態の完成した姿なのである。」(久留間、前掲書、37頁。強調は引用者による。)

 

 久留間にとってひとたび金に癒着すれば貨幣の形成過程は完了し、それは「現にわれわれの前に与えられている‥‥価値形態の完成した姿」なのである。日々の値付けによる貨幣の再生成という観点はこの叙述からはうかがえない。

 以上で久留間の第Ⅳ形態理解の誤りは論証されたと考えるが、久留間がどのように交換過程論を理解しているかをさらに検討してみたい。

 久留間は「移行規定」から価値形態論と交換過程論との視角の違いについて触れ、交換過程論においては使用価値の側面が問題とされることを指摘する。つまり、交換過程を使用価値の実現と価値の実現との双方が問題となる現実的交換の過程として把握する。そして、前節で見た交換過程における矛盾をもっぱら使用価値実現と価値実現との相互前提的な関係として理解している[12]。しかし、この矛盾は結局のところは交換の問題であり、価値関係の問題へと収斂する。というのは、マルクスは使用価値の実証が価値の実現に先行すべきことを指摘したうえで、なおかつ使用価値の実証とは交換によってなされると指摘しているからだ[13]。そのうえで、さらに、一般的等価と特殊的等価との対立・矛盾(全面的交換の矛盾)を第Ⅳ形態の交換過程における表現ととらえたのである。つまり、交換過程においても価値形態が問題とされている点を明らかにした。ここで久留間との対比にために、あえて貨幣の機能と関連させていえば、まずもって問題となるのは価値尺度としての貨幣なのである[14]

交換過程における矛盾を、使用価値及び価値の実現問題としてのみ理解する久留間にとって、その矛盾を解決する貨幣は流通手段としての貨幣である。言い換えると、価値形態との関連で理解していないのである。

 「商品生産が一般化するためには、この矛盾が媒介されねばならぬのであるが、それは何によって媒介されるかというと、いうまでもなく貨幣によってである。すなわち貨幣ができると、交換は販売および購買の二つの過程をとおして遂行されることになるが、そうなると商品所有者は、彼の商品を一挙に任意の他商品と交換しようとはしないで、まず貨幣に対して交換する。」(同上、19頁)

 

 この観点は古典派的な観点への後退であり、マルクス解釈としては完全に誤ったものである。価値形態としての貨幣生成論ではなくなっているからだ。ただし、久留間自身が混乱しており、別の箇所では、価値形態論が先行して展開されているがゆえに、交換過程の矛盾の媒介は、「すでに価値形態論で明らかにされている、といって答えることができる」(同上、21頁)としている。ここでは交換過程の矛盾の媒介が、価値形態の問題であることが、したがって、価値尺度機能の観点から貨幣の生成が説かれていることになる。この観点の移動は、矛盾のとらえ方の変化にも現れている。久留間がここでいう交換過程の矛盾とは、「商品所有者たちが彼らの商品をいきなり価値として妥当させようとするかぎり、どの商品も価値として妥当しえず、それらのあいだの商品としての連関も不可能になる」(同上、23頁)であり、これは全面的交換の矛盾にあたるものである。結局久留間は使用価値及び価値の実現問題とこの矛盾との関連を明らかにできなかったがために、このような混乱――二重の叙述という――に陥ったのである。

 この久留間の理解の問題点は、商品所有者の本能的共同行為についての無理解へとつながる。久留間は共同行為をマルクスが好んだ「文学的な表現の仕方」、すなわち表現技法として理解したうえで、次にように述べている。

 「マルクスの言っていることをも少し続けて注意して読めばわかるように、彼はけっして、理論的に解決不可能な問題を実践が解決するなどとはいっていない。ちょうどその反対に、商品所有者は理論が明らかにするとおりのことを実践したといっているのである。・・・・彼らはまた、理論がかくすればかくなると教えるとおりに行動して、その媒介のために不可欠な貨幣をつくり出すことになるのである。」(同上、24頁)

 

 商品所有者は理論が教えるとおりに行動した、というのは、もはやマルクスの展開ではない。マルクスは、商品所有者は価値が何であるか理解していないが、商品を価値として関係させることを強制されていると述べているからだ[15]。さらに、その強制は強制として意識されておらず、「彼らの頭脳の自然発生的な、したがってまた無意識的、本能的な作用」(初版、83頁)であるとマルクスは把握する。すなわち、貨幣の生成は、商品所有者の無意識的・本能的な共同行為によるものであり、商品所有者は理論が教えるから行動するのではなく、商品に意志を支配されることにより、本能的に商品の本性に従って行動するのである。久留間も自分とマルクスのずれを多少は意識しているようだ。「はじめに業ありき」という部分を無視するわけにはいかないからだ。その点について、貨幣は反省の産物ではなく、つまり発明されたものではないということを、「いささかしゃれたいい方でいっているのにすぎない。」(同上、24~25頁)ここから理解されるのは、マルクスが本能的共同行為について述べていることを、久留間がほとんど理解していないということである。

 久留間の『価値形態論と交換過程論」は宇野弘蔵との論争を契機に書かれた古典的な名著で、戦後の『資本論』研究に大きな影響を与えた書物である。その歴史的価値は正当に評価されるべきであろう。しかし、今日、その理論的内容はさまざまな批判[16]にさらされている。筆者もその一端を担うわけであるが、久留間理論の限界性はもはやはっきりしているのではないかと思われる。これまで多大な影響を与え、今日においてもなお与え続けていることを考えると、久留間理論の批判的検討は、資本論研究にとって必要不可欠なものになっている、と筆者は考えている。

 注

[1] Sacheを岡崎訳では一貫して「物」として訳しており、Dingと区別されていない。ここでは訳文を変更させていただいた。

[2] 商品の使用価値は他人のための使用価値という社会的規定性をもっている。「しかし、その有用な諸属性がそれをどんな諸欲望に関係させるかということにはかかわりなく、それはこのような諸属性によってはつねにただ人間の諸欲望に関係させられた対象となるだけであって、他の諸商品にとっての商品にはならないのである。ただ、単なる諸使用対象を諸商品に転化させるものだけでが、それらの使用対象を諸商品として互いに関係させることができるのであり、したがってまた社会的な関係のなかにおくことができるのである。ところが、これこそが諸使用対象の価値なのである。」(初版、66頁)

[3] マルクスは冒頭商品を資本制的社会における「富の基本的形態』として把握している。したがって、それは資本制における商品である。資本制とは全面的な商品生産社会であるから、各商品は他の商品との全面的な交換関係にある。この点にかんする論証は、紙幅の都合で本稿では行えない。なお、冒頭商品をどのように理解するかについては、これまで厖大な論争が繰り広げられてきた。中川弘「冒頭〈商品〉の性格規定をめぐる論争」、種瀬茂・富塚良三・浜野俊一郎編『資本論体系第2巻 商品・貨幣』、有斐閣、1984年、所収、を参照。

[4]「諸商品は貨幣によって通約可能になるのではない。逆である。すべての商品が価値としては対象化された人間労働であり、したがってそれら自体として通約可能だからこそ、諸商品はみななんらかの第三の一商品に自分たちを図ることができるのであり、また、そうすることによって、この第三の一商品を自分たちの共同の価値尺度に、すなわち貨幣に。転化させることができるのである。」(初版、112~113頁)

[5] 榎原均、『価値形態・物象化・物神性』、資本論研究会、1990年、95~96頁。

[6] 同上、96頁。

[7] これは名指しこそしていないが、中野正の見解(『価値形態論』、日本評論新社、1958年。)を暗に批判しているものと思われる。しかし、筆者の見地からすれば、両者とも理論的な問題と解している点で共通の地盤に立っているとせざるをえない。

[8] 「移行規定」とは、初版本文価値形態論と交換過程論との間に存在する次の叙述のことを意味する。「商品は、使用価値と交換価値との、したがって二つの対立物の、直接的な統一体である。それゆえ、商品は一つの直接的な矛盾である。この矛盾は、商品がこれまでのように分析的に、あるときは使用価値の観点のもとで、あるときは交換価値の観点のもとで、考察されるのではなくて、一つの全体として現実に他の諸商品と関係させられるやいなや、発展せざるをえない。そして、諸商品の相互の現実の関係は、諸商品の交換過程なのである。」(初版、94頁)

[9] この点については、第二版「あと書き」にその経緯が述べられている。マルクスの友人であるクーゲルマンが、初版の校正刷りを見て、「大多数の読者にとっては価値形態の補足的なもっと教師風の説明が必要だと言って、私を納得させたのである。」(現行版、15頁)その結果、初版付録が書かれ、第二版では付録をもとに、本文を大幅に書き換えたのである。

[10] 『資本論』現行版、120~121頁、参照。

[11] 慣習とは日々くりかえされる行為のことだと、理解すれば、社会的慣習による貨幣の成立も、日々行われているとも考えられうる。しかし、慣習は一度成立した事柄を単に受け入れることだと理解すれば、貨幣の成立は単なる歴史的事実として考えられてしまう。

[12] 久留間、前掲書、10~17頁、参照。

[13]「諸商品は、それらが価値として実現されうる前に、使用価値として実証されなければならない。・・・・その労働の生産物が他の人々の欲望を満足させるかどうかは、ただ諸商品の交換だけが証明することができるのである。」(初版、98頁)

[14] 前節での私見の積極的展開において、この点に触れなかったのは、貨幣の生成が問題となっている段階では、貨幣が生成してはじめて論ずることのできる貨幣の諸機能に触れるべきではない、という論理的な理由による。もっともマルクスも、交換過程論のなかで、これまでの段階では価値尺度機能のみを論じていることを示唆している。「これまでのところでは、われわれはただ貨幣の一つの機能を知っているだけである。すなわち、商品価値の現象形態として、または諸商品の価値の大きさが社会的に表現されているための材料として、役立つという機能がそれである。」(初版、105頁)これは確かに価値尺度機能である。ただ、その次にいわれているように、ここでの貨幣は抽象的人間労働の「物質化」(同前)であり、貨幣としての商品だということを考えると、単に観念的な定在である価値尺度しての貨幣だけが問題となっているとは言い切れない。物質化であり商品である以上、それは実在的なものであり、流通手段としての機能も貨幣としての貨幣の機能も含みこんだものとして、考えられうるからである。もちろん、価値形態論および交換過程論で第一に問題となるのは、価値尺度としての貨幣であることは否定されない。この点については、白須五男、『マルクス価値論の地平と原理』、広樹社、1991年、224頁、参照。武田信照は、価値形態論を価値尺度成立論として、交換過程論を流通手段成立論として解釈しているが、これは余りにも機械的な区別であって、誤った見解である。武田信照、『価値形態と貨幣』、梓出版社、1982年、157頁、292~300頁、参照。白須はこの武田説を詳細に批判している。白須、前掲書、223~224頁、参照。

[15] 「この価値の額には、それがなんであるか、は書かれていないのである。人間は、彼らの諸生産物を相互に諸商品として関係させるためには、彼らのいろいろに違った労働を抽象的な人間労働に等置することを強制されているのである。彼らはそれを知ってはいない。しかし、彼らは物質的な物を抽象物たる価値に還元することによって、それを行なうのである。これこそは彼らの頭脳の自然発生的な、したがってまた無意識的、本能的な作用なのであって、この作用は、彼らの物質的生産の特殊な様式と、この生産が彼らをそのなかに置くところの諸関係とから、必然的に生え出てくるのである。」(初版、83頁)

[16] たとえば、武田信照、前掲書、付論をあげることができる。

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