一般社団法人 文化知普及協会
The association for diffusing cultural wisdom,a general corporation aggregate
ラトゥール『近代の<物神事実>崇拝について』の解読
気候変動に対応できる新しい政治の形成過程
2020年8月 境 毅
第1章 <物神事実>とは何か
1.はじめに
今年になってから、ラトゥールの著書を読み始めたのですが、一群の訳書は、まるで底なし沼のような感じです。この世界そのものが実は底なし沼であり、近代人は主体と客体というように現実を切り縮めて、なんとなく分かったつもりになっていたのでしょう。この二分法を拒否したラトゥールの世界は、現実世界同様に底なし沼になっているのでしょうか。
人類にとって、コロナ禍の渦中での課題は気候変動に対応することですが、そのためにはまずは世界が底なし沼であることに気付くことが肝心なのかもしれません。そう考えると、 ラトゥールの『近代の<物神事実>崇拝について』(以文社)の解読も、読者のみなさまの、底なし沼への招待として位置づけられます。私は、この書でのラトゥールの展開を、何とか分かるようにしようと考えて、今までさんざん苦労してきたのですが、それはやめて、検討のための素材を提供することにします。
とはいえ、簡単なあらすじを述べておいたほうがいいでしょう。ラトゥールはこの書で、事実が物神として現れることは何故か、という問いを立て、そして、現実そのものが、事実と物神とを兼ね備えたものであるという意味で<物神事実>(これは事実:ファクト、と物神:フェティッシュ、とから合成した、ファクティシュの訳語)という言葉を新たに作りだし、この言葉で底なし沼の解読を試みています。この<物神事実>とは、1991年に出版された『虚構の「近代」』(新評論)では、主体と客体との間にある、「ハイブリッド」と呼ばれていたものについての新たな規定です。つまりこのハイブリッド(人間と自然とが混ぜ合わされた現実、科学技術や、地球環境問題などで、これがなければ近代は成り立たないのに、近代人にはこれに対する認識が欠落しているという事実を指摘した用語)が物神性を持っているということに気付いて、1995年にこの書の第一部に収録されている論文を書いたのでした。
私が一番注目するのは、ハイブリッドが<物神事実>であるという認識を得たことで、ラトゥールの政治思想が変わっていったことで、この点については会報295号「ラトゥールの『地球に降り立つ』の勧め」で指摘しましたが、この政治観の転換は、この書の第二部の論文の中に、新たに2002年に書かれた論文から組み込まれたものでした。それで、若干混乱するのですが、その組み込まれた元の論文は、2002年の展覧会のパンフレットですが、それ自体この書の後半部分に収録されているのです。その上に、1999年に出版された『科学論の実在』(産業図書)の第9章には<物神事実>の考察があり、そこで新たな政治の原理が述べられているのです。何かこれ自体が泥沼的ですが、政治観の転換は、この書の第一部に収録された1995年の論文にはなくて、1999年の『科学論の実在』第9章で新たな政治の原理的考察があり、そしてそれにもとづいて、2002年のパンフレット(この書の第二部に差し込まれた)で定式化され、そしてそれが『地球に降り立つ』(新評論)で気候変動に対応できる新たな政治についての具体的な提案として実を結んだと思われます。
というわけで、この書第一部の、1995年に書かれた部分の紹介から始め、ついで、ラトゥールの新たな政治の形成過程を、1999年の『科学論の実在』第9章と、2002年に書かれた、この書第二部を検討することで跡付けることにします。それでは、『近代の<物神事実>崇拝について』という底なしの沼に招待しましょう。
2.ド・ブロスのフェティシズム論
ラトゥールのこの本は不思議な本です。物神崇拝の批判が試みられているのですが、マルクスやルカーチの議論とは全く異なるのです。反物神崇拝について書かれているので、ついこれらの伝統的な発想から理解しようとするのですが、そのような読み方ではてんで理解不能なのです。そういうわけでまずは、ラトゥールの本の出だしの部分の要約をしてみます。
この部分のテーマは、「いかにして近代人は新たに接触する集団のもとに物神をつくるのか」という小見出しにあるように、ヨーロッパ人とアフリカ人との関係です。そしてその関係も、偶像崇拝をめぐって引き起こされている意識の上での動きにもとづき、対話を創作しているのです。その際にラトゥールがモデルとしているのは、1760年に出版されたド・ブロス『フェティシュ諸神の崇拝、ないしエジプトの古代宗教とニグリシアの現在の宗教との比較』(『フェティシュ諸神の崇拝』法政大学出版局、2008年)です。せっかく翻訳されていますので、ラトゥールの要約に役立つ限りで引用しておきましょう。
「アフリカの西海岸の黒人やエジプトの隣国であるヌビアにいたる内陸の黒人たちは、ヨーロッパ人が『フェティシュ』と呼ぶある特定の崇拝物を礼拝の対象としている。・・・これら神的なフェティシュは、各民族や各個人がそれぞれ選び、神官たちに儀式で聖別してもらう任意の物的対象に他ならない。・・・そのどれもが黒人にとってことごとく神であり、聖なるものであり、また護符である。」(『フェティシュ諸神の崇拝』、11頁)
フェティシュはふつう物神とか呪物と訳されますが、これはド・ブロスによれば、セネガルと貿易するヨーロッパ商人が作り出した用語です。このフェティシュは、具体的には一片の材木であったり、小石や貝殻、花、動物など様々ですが、黒人にとってはこれらが神であり、ラトゥールは、これらの偶像と呼んでいます。そして、ラトゥールは、ド・ブロスのこの書に依拠して、ギニア人とポルトガル人との間の対話を創作しているのですが、その元ネタは、ド・ブロスがその書の12頁から31頁にわたって述べている事柄です。しかも、話のオチまですでにド・ブロスが述べているのです。それは次のような内容です。
「ところで、先に進む前に今一つ注意しておかねばならないことがある。それは、特定の自然の産物に対するこの崇拝(フェティシズム)が俗に偶像崇拝(イドラトリ)と呼ばれる、人工物に対する崇拝とは本質的に違うということである。このような人工物は、崇敬の念が本当に向けられる別の対象(神)を表象しているにすぎない。それに対して、フェティシズムは、生きた動物や植物そのものに直接に向けられているからである。」(同書、31頁)
キリスト教の考えからすれば、崇拝(ラトリア)とは、神のみに捧げられる礼拝で、崇敬(ドゥリア)とは、聖人や聖像に捧げられる礼拝のことです。ここでド・ブロスが、特定の自然物を神として崇拝する黒人の崇拝をフェティシズムと見做し、それを偶像崇拝と区別していることに注目しましょう。ド・ブロスは黒人の信仰を、宗教以前のものととらえ、人工物である聖像を神の像と見做して崇拝と崇敬とを区別するキリスト教の立場から、黒人の信仰を批判しているのです。
3.新たに創作されたギニア人とポルトガル人との対話
さて、ラトゥールが創作した対話に移りましょう。ポルトガル人は、ギニア人が偶像を神と見做していることに我慢がならず、偶像を自分たちで作っておきながら、それが神だという考え方は矛盾していると感じています。他方で、ギニア人は、偶像は確かに自分たちが製作したものであり、それが本当の神であってどこがおかしいのかと反論します。このある意味では歴史的な論争を踏まえて、ラトゥールは、もしギニア人が反論したら、と考えます。
というのも、ポルトガル人も聖母マリアのお守りを持っているからです。そのお守りは作られたものでしょう、と聞き返せばそうだという答えが返ってくるし、それは神聖なものでしょうと問い返せば、そうだというでしょう。何も違いはないではないか、と。ところがこの違いを認識しようとすれば、神学の助けが必要になるとみて、ラトゥールは、次のように結論付けています。
「(ギニア人たちは)打ち倒された物神とそれに代わって建てられた聖像との違いがよく分からない。・・・『崇拝』と『崇敬』の違いさえも認識せず、・・・彼らは、人間による人工物の構築を、決して誰も構築していないものの決定的な実在性から分かつ深淵を、把握することを拒否する。内在性と超越性の違いさえも彼らには見逃されているようだ・・・。どうすれば彼らを未開人と見做さず、物神崇拝を未開宗教と見做さないことができようか。」(『近代の<物神事実>崇拝について』、26頁)
これは偶像自体が神であるとみなす物神崇拝を打倒して、偶像を神の聖像へととらえなおしたキリスト教の歴史を踏まえたものなのでしょうが、キリスト教徒ではない私には、ギニア人同様皆目わかりません。ラトゥールは、この心境をヨーロッパ人の共通感覚と捉えてこれに「反物神崇拝者」と名付けます。そして、これについて次のように述べています。
「信徒たちは、完全に自立しているのでも完全に構築されているのでもない何かを示している。それに対して信仰という概念は、この繊細な操作を、物神と事実の間に掛けられた脆弱な橋を、二つに切断する。そしてこの概念は、近代人たちが他のすべての人間集団を素朴な信者たちや、裏で操る巧みな人々や、自らを欺く冷笑的な人々と見做すことを可能にしている。」(同書、30頁)
ここからわかることは、ラトゥールが「反物神崇拝者」としてヨーロッパ人をとらえる場合に、ヨーロッパ人の何が問題にされているのかと問うと、それが「信仰」であることがわかります。ヨーロッパ人は、ギニア人が偶像を信仰している、という信仰を持っているとみているのです。そして、ヨーロッパ人は、ギニア人が自ら作り出した偶像を神と見做していることに対して、自身が作り出したマリアの聖像の場合、その聖像自身とそれが果たしている神としての社会的役割を切断することによって、ギニア人に対抗していると考えるのです。ここから、ラトゥールは、一般論として、人間が作った物(事実=内在性)と、それが持つ社会的性格(物神=超越性)とのつながりを「信仰」という概念が切断するという見地を導き出します。このような考え方はキリスト教徒以外には理解できませんが、このポイントを押さえたうえで要約を終え、ラトゥールの以降の展開を見ていきましょう。
4.いかにして近代人は自分たちのもとで物神を構築するに至るのか
冒頭の創作対話は「いかにして近代人は新たに接触する集団のもとに物神をつくるのか」ということがテーマでした。この対話から「信仰」ということの概念が問題だとみなしたラトゥールは、今度は、ヨーロッパ人自体がどのようにして物神を構築しているか、という新たなテーマを作ります。そして、黒人を物神崇拝者だと批判した白人を反物神崇拝者と名付けて、その非難の仕方自体の中に、白人自身もまた物神を構築していることを証明しようとしているのです。つまり、白人たちは、黒人たちが物神を信仰しているというように信仰しているが、黒人自身は白人たちを理解するために信仰を問題にしたりはしない、と見て、この黒人の立場を白人自身に用いてみようというのです。それは次のようになされています。
まず、黒人に対する非難の内容が次のようにまとめられます。
「その糾弾によれば、物神崇拝者は力の源泉について思い違いをしているという。物神崇拝者は、自分自身の人間的な作業、自分自身の人間的な諸幻想、自分自身の人間的な諸力と通じて、自らの手で偶像を作った。しかし彼は、その作業、その諸幻想、そしてその諸力を、自分が作った対象それ自体に帰する。」(同書、32頁)
このように糾弾することによって、白人たちは、偶像が力を持たないことを黒人に説明しようとするのですが、ラトゥールは、そうすることで白人たちは矛盾に陥るとみて次のように続けます。
「物神など何でもないと主張するまさにその時に、物神は作用し始め、全てを移動させ始める。物神は、とりわけ力の起源を反転させることができる。それどころか、反物神崇拝者たちによれば物神の効果はその製作者が物神の起源を知らない場合にのみ効力を持つので、物神は自らの政策を完全に隠蔽することができるはずである。物神のおかげで、魔法の杖のたった一振りで、その制作者は、冷笑的に裏で操る人物から、騙されてしまった誠実な人物へと変身することができる。このようにして物神は、そこから人間が作り出すもの以外の何物でもないのにも拘らず、しかしながら、ちょっとした何かを付け加える。つまり物神は、行為の起源を反転させ、裏で操る人間的な作業を隠蔽し、創作者を被造物へと変化させる。これほど多くの驚嘆すべきことを為すことにできる対象の効力を、いかにして否定できようか。
しかし物神は、さらにそれ以上のことをしている。物神は人間の行為と作業の性質自体を変えるのだ。」(同書、33~4頁)
これはどういう意味でしょうか。物神が持つ超越的力が、ギニア人が信じている偶像にはない、と批判するときに、反物神崇拝者であるヨーロッパ人も偶像以外の超越的なものの存在を否定していないことがわかります。そしてその超越的なものは、偶像とは別に存在しているのですが、しかし、その存在は人間が作り出す偶像に何かを付け加えるわけであり、ヨーロッパ人も物神を作っているというのです。そして次のように問題設定をしています。
「物神のない世界は、物神の世界と同じくらい多くの外来者で溢れている。転倒の転倒は、物神への錯覚的な信仰によって転倒したとされる世界と同じくらい不安定な世界へ到達させる。反物神崇拝者は、誰が行動し誰が行為の起源を見誤っているのか、誰が支配者で誰が疎外されたり取り憑かれたりしているのかということについて、『物神崇拝者』と同じくらい知らない。したがって物神は、みずからの効力を喪失するどころか、近代人のもとにおいてさえ、信仰の起源を、そして支配が可能であるという確信自体を、ずらし、霞ませ、転倒し、乱すべく、たえず作用しているように見える。物神から取り去ろうとする力を、物神は直ちに取り戻すのだ。最終的には、誰も信じてはいない。黒人たちが物神崇拝者でないのと同じくらい、白人たちも反物神崇拝者ではない。ただ白人たちは、他の人々のもとでは至る所で偶像を立ち上げ、直ちにそれらを破砕し、そして自分たちのもとでは、行為の起源をまき散らす操作者をいたるところで増殖させているのだ。そう、物神崇拝者も反物神崇拝者も偶像に対してかなり奇妙な崇拝をしているのであり、我々はこれからそれを解明しなければならない。」(同書、36~7頁)
ここで「行為の起源」と名付けられている事柄が重要でしょう。これはまさしく人間と非・人間とのネットワークであり、主体と客体との中間にあり、人々の認識からは取り残された領域で、これが近代社会の創造者なのですが、近代人はそれをそういうものとしては認識できないのですね。ラトゥールは、この書では、この認識できない原因を物神崇拝者や反物神崇拝者に共通の、人々が製作するという行為と製作されたものとの間の、近代に特有の神秘的関係が成立する根拠を探ろうとしているのです。
5.いかにして近代人は事実と物神を区別しようと努め、しかしそれに成功しないのか
行為の起源が隠されているとしても、近代人は理性的存在ですから、理性の力でそれを解明しようとします。しかし、ラトゥールは近代的理性(近代知)を持つ白人自体もそれが非難する黒人の物神崇拝と「信仰」においては変わらないとみて次のように述べています。
「他の人々のもとに素朴な信仰があると信じたり、もしくは自分たちのもとに信仰でない知識があると信じたりするために、なぜ近代人は複雑な諸形式に頼らなければならないのか。なぜ彼らは、あたかも他の人々が物神を信じており、その一方で自分たちは最も厳格な反物神崇拝を実践しているかのように、振舞わなければならないのか。なぜ物神崇拝者も反物神崇拝者も存在しないとまったく率直に認め、我々の生活に密接に係っているあの奇妙な効力、あの『行為の移動者』の効力を認めようとしないのか。それは、近代人が事実と物神の間のある本質的な差異に固執しているからである。信仰は、物神崇拝者の精神状態や反物神崇拝者の素朴さを説明することを目的としていない。信仰は全く別のことに起因している。すなわち知識と錯覚の区別に起因しており、あるいはむしろ、以下に続く諸節で確認するように、この区別を行わない実践的な生活形式とこの区別を維持する理論的な生活形式との間の分離に起因している。」(同書、37~8頁)
ここでラトゥールは、近代人が、物が物神として、不思議な力をもった物として立ち現れることを決して認めようとせず、それを認める人々には物神崇拝者という批判を投げつける反物神崇拝者であること自体が問題解決を見失わせるものだと指摘しています。そして、人間が作った物が神秘的な力を持つということを認めることから出発することを提案しています。そして、近代知の特徴について次のように描いています。
「彼らはただ一つの操作者を使う代わりに、二つの操作者を使うのである。物神に対する行為者たちの素朴な信仰を告発するとき、近代人たちは、主体を中心に据えた自由な人間的行為を論拠とする。しかし、行為者たちの主体的な自由に対する行為者自身の素朴な信仰を告発するとき、批判思想家たちは、彼らが築き上げて完全に信用している客観的科学によって認知されるような客体を論拠とする。したって彼らは、普通の素朴な人々へ逆に辿って二度到達するための起点として、<魔力を持つ対象>と<事実としての対象>を交互に用いるのだ。」(同書、40頁)
「二つの告発形式は見間違えるほどよく似ている。諸原因への信仰をもつ批判的思想家が、偶像への信仰をもつ素朴な人と同じ位置を占めているのだ。・・・信仰という概念が、物神と事実という二重の語彙によって近代人が自分たちなりに行為の起源を理解することを、可能にしているのだ。」(同書、41~3頁)
ラトゥールはこの後、図式まで作ってこの類似を説明していますが、この信仰という点において、決して白人ではなくて、むしろギニア人に類似している私たちにとっては立ち入る必要はないでしょう。次の「いかにして事実と物神は近代人のもとでさえその効力と混ぜ合わせるのか」でパストゥールの実験を例にして説明されている部分のほうが理解しやすいのでそちらに移りましょう。
ラトゥールの科学論の出発点は『細菌と戦うパストゥール』(原書1985年、偕成社文庫)にまとめられているパストゥールの酵母の発見とワクチンの開発についての研究でした。ラトゥールは、あるところでは、パストゥールに発見されるまでは酵母菌は存在していなかったと言ってみたりするので誤解されがちです。酵母菌を利用して発酵乳を作ることは昔からあるからです。しかし、それを実験室で再現して、発酵の原因が酵母菌にあることを突き止めたことの意味をラトゥールは、問うているのです。
科学論の分野では構築主義と実在論の対立がありました、構築主義の立場とは全ては人間によって構築されたものだ、と見るもので、人間の外部にある実在を否定します。ところが、パストゥールの実験ノートには、彼が酵母菌を実験室で構築したのだが、同時にそれは実在している、という記述があるのです。
「パストゥールは矛盾したことを言っただろうか。批判的思想の観点から見れば、言った。パストゥール自身から見れば、したがって我々から見ても、言っていない。パストゥールにとっては、構成主義と実在論は同義語である。『事実は作られている』ということを、我々はパシュラール以来知っている。しかし批判的思想は、この曖昧な語源の中に対象への物神崇拝を見るように我々を調教していた。われわれの研究室の中で、我々の同業者たちと共に、我々の道具と我々の手を使って、我々が諸事実を作っているのに、それらの事実は、魔術的な逆転効果によって、決して誰も作ったのではないもの、政治的見解のあらゆる変化や感情のあらゆる苦しみを乗り越えるもの、誰かが乱暴にこぶしで机をたたいて『これが動かしようのない事実だ』と叫んでも動じないもの、そのようなものになると言うのだ。反物神崇拝者たちの主張によれば、構築作業の後に事実は『自立性を獲得する』。」(『近代の<物神事実>崇拝』、49頁)
ここの記述は、商品を念頭に置くとわかりやすいでしょう。商品は紛れもなく生産者がいて、作製されたものですが、それが市場で交換されるときには価格を持ちます。この価格は、その物の具体的な制作過程からは自立したものです。だから、商品は生産された後は自立性を獲得します。この視点を持つ人たちが反物神崇拝者であるとか批判的思想として一括されているのでしょう。パストゥールの主張が矛盾しているという二つの理論的立場を共に退けて、ラトゥールは、次のように、パストゥールの実践に従うことを勧めています。
「我々には別の回答が提案されている。しかしこの回答は、批判的思想を放棄し、信仰、魔術、自己欺瞞、自立などの概念を忘却し、我々を誇り高き近代人にしていた眩いばかりの支配性を喪失することを前提としている。
反物神崇拝を我々の知的生活の本質的な資源とすることをやめ、近代人についての人類学の研究対象とすることでそれを回避するや否や、新たな目録が現れる。第一の目録は『フェ(fait)』という語の二つの意味の間で選択することを強いる。構築されたのか、それとも実在するのか。第二の目録は、『その通り、確かに私はそれを研究室で構築した』、『それゆえ自立的な酵母が公正な観察者たちの目に単独のものとして現れる』という二つの文をパストゥールが同義語と見做すとき、彼につき従う。」(同書、50~1頁)
キリスト教の文化を欠いた日本では、ここまでの紹介は、一層の底なし沼だったようですが、ようやっと、ラトゥールが、<物神事実>について説明するところにまでたどり着きました。
6.いかにして「物神事実」の技量は理論から逃れるのか
ラトゥールは、批判的思想に与していない「普通の行為者は、この上なく自明であることを、すなわち自分で構築したものに自分が少しばかり超えられているということを、一気に断言する。」(同書、56頁)と述べたうえで、次のように「物神事実」という用語の由来を説明しています。
「『事実』という語は外部の実在を、『物神』という語は主体の常軌を逸した信仰を指し示しているように見える。両者ともに、それらのラテン語語源の深みの中に、事実についての真実と精神についての真実を可能にしている強烈な構築作業を隠蔽している。我々が抽出しなければならないのはその真実なのであり、夢想に満ちた心理学的主体が生み出した駄作や、天から降ってくるかのように研究室に降ってきた冷淡で非歴史的な対象の外在的存在などを信じてはならない。我々は、構築と収集、内在と超越の間の差異を決して信じずに実践を行動に移すことを可能にするこの揺るぎない確信のことを、二つの語源的起源に結び付けて、『物神事実』を呼ぶことにする。」(同書、57頁)
このように、近代人が事実と物神とを区別しようとしても成功していない、という現実を解消するための補助線として引いたものが<物神事実>という新用語でした。はたしてこの補助線は役立つのでしょうか。
7.<物神事実>論の新展開とその限界
『科学論の実在』第9章は、『近代の<物神事実>崇拝について』第一部が書かれたのちに作成されたもので、それまでの探求の限界について触れています。もちろん『科学論の実在』の冒頭に置かれている謝辞で「私は、読者に対して、本書は新たな事実に関する書物でもなければ、厳密には哲学書でもないことを警告しておくべきだろう。私は、本書において、きわめて基本的な道具のみを用いて、主体と客体の二分法によって取り残された空っぽな空間の中に、人間と非・人間のペアのための概念的舞台背景画を提示しようと試みているだけである。」(『科学論の実在』、ⅱ頁)と述べているように<物神事実>という把握以外の方法での解明もあれこれとなされているのですが、<物神事実>という把握に立ち返った第9章では、この書でのそれまでの試みを振り返って次のように述べています。
「なんということだろう! どうやら私は、われわれを支配していた古い決着法を解体するという課題を達成してしまったようだ。誘惑犯の隠れ家は明らかにされ、非・人間は自由になった。すなわち、『客体』というさえない外見の制服をまとって、民衆に対する政治的戦争に兵隊を供給し続ける卑しい運命から自由になったのだ。・・・けれども、私はまだ何も達成していないようでもある。これまでの章で私は、理性の真っすぐな道をたどらない諸運動の数を増やしてきた。・・・しかし、決定的な局面において、一回の跳躍で構築物と真理を飛び越えられるような用語を探した時にはいつでも、言葉は私の手から滑り落ちてしまった。」(同書、347頁)
主体と客体の中間にある人間と非・人間のペア、これの実在についていろいろと試みてきたラトゥールにとっての困難は、いったん固定したと思われた「概念的舞台背景画」が、できたと思われたとたんに破棄されてしまっている、という問題でした。それはどうしてでしょうか。ラトゥールはその理由について次のように述べています。
「人間と非・人間の関連は、ひとたび明らかにされ、修正され、整理整頓されたならば、常に全く異なったもの、――主体と客体の戦争で対立する二陣営――へと変貌を遂げてしまうのはなぜなのだろうか?
何かが欠けているのだ。いずれの章でも、何かがわれわれから逃れてしまっている。それは、客体と主体の間の平和的な往来を交渉する方法、これ以上火に油を注ぐことなくこの闘いを終わらせる方法である。われわれは、この行き詰まりを完全に回避する手段を必要としている。すなわち、『それは実在か、それとも構築されたものか?とっとと選べ!』という脅迫的な選択によって、実践の精密な言語を構築する代わりに、それとは異なった動き、異なった実践の記録法となる伝達手段や発話形式が必要なのだ。確かなことが一つある。ひとたび理論が分析の刃を向け、骨の折れる音が聞こえたならば、どのようにして<善き生活>を知り、作り上げ、生きるかを説明することがもはや不可能であるということだ。われわれには、主体と客体、言葉と世界、社会と自然、精神と物質など――これらの破片は、いかなる和解も不可能なものにしてしまうために作られた――を寄せ集め、つなぎ合わせることしか残されていない。どうしたら往来の自由を回復できるのだろうか?」(同書、348頁)
ここでラトゥールは面白いことを言っています。それは理論的分析の破壊力です。ベーコンによれば、実験とは自然を拷問して自白させる試みだそうですが、ラトゥールも思考による分析が、分析対象を壊してしまうことに気付いたのです。しかし、思考にとっては分析的抽象を行うことなしには対象の概念に到達できません。ではどうすればいいのでしょうか。
「どこに解決策があるのだろうか? 破壊の瞬間そのものである。この章で試みたいのは、実践を粉々に打ち砕く行為自体に意識的になることである。・・・理論と実践の差異は、文脈と内容の差異や自然と社会の差異と同様に、所与のものではないのである。それは作られた分断なのだ。より正確には、それは、強力なハンマーの一撃で砕かれた一つの統一体なのだ。」(同書、349頁)
さしあたって、ラトゥールが提案するのは分析の一歩手前で立ち止まることです。私の場合は、ここでラトゥールが問題にしているのは関係の把握であり、関係それ自体は感覚的に認識できず、認識できるのはその関係の両極ですから、両極が関係においてお互いに抽象しあっているという事態抽象の働きを把握することを提案します。つまり思考による分析的抽象は、感覚に現れている対象をいったん破壊し、そしてそれを総合することで組み立てるのですが、関係一般は感覚では把握できないので、このような思考の方法によっては捉えられないのです。世界が底なし沼であることも、世界が関係に満ち溢れていて、思考による分析によっては捉えきれないことによると言えるかもしれません。
横道にそれましたが、では立ち止まり、打ち砕く行為自体を意識せよというラトゥールはどのような解を提案するのでしょうか。そこでラトゥールは、『近代の<物神事実>崇拝について』でケースステディとして取り上げた、ジャガンナートの例に立ち返っています。この話は、インドのカースト制度の最下級である不可触民の人々が石(聖なるサリグラム)を崇拝しているのですが、この物神崇拝をやめさせようと、ジャガンナートが、石は聖なるものではなく、ただに石ころだから触ってみるように人々に強要するというお話です。結局この試みは成功せず、ジャガンナートは、こういうやり方では、物神崇拝を止めさせられないばかりか、人間的な関係を破壊してしまうことに気付きます。ラトゥールはこの話にもとづいて、次のように結論づけます。
「勇敢な偶像破壊者は何を破壊したのだろうか?私は、破壊されたのは物神ではなく、かつて議論や行為を可能にしていた、議論し、行為する方法なのだと主張したい。」(同書、353頁)
このように述べた後、ラトゥールは<物神事実>という補助線の果たす役割について次のように述べています。
「事実には実験室におけるその制作過程をつけ加え、フェティッシュにはその制作者による明白で再帰的な製作過程を付け加えるならば、批判のための二つの主要なリソース――ハンマーと金床――は消失する。そのかわりに出現するのは、偶像破壊者によって壊されはしたが、常にそこに存在し続けたものである。それは、常に新たに刻み直されなくてはならないもの、行為し、議論するのに不可欠なものである。私はこれをファクティシュと呼ぶことにする。ファクティシュは、事実とフェティッシュの両方の制作者の行為を明示的に回復すれば、両者の大虐殺から回収することが可能である。二つの破壊されたシンボルの対称性が元通りになる。もしも偶像破壊者が、石に精霊を宿させるくらい素朴な信仰者が存在するなどと素朴にも信じることができたのだとすれば、それは、偶像破壊者もまた、偶像を破壊するために彼が用いる事実そのものが、いかなる人間の働きの助けなしに存在しうると素朴に信じているからである。」(同書、358頁)
このようにラトゥールは、<物神事実>という補助線によって分析(ハンマー)の一撃を消去してしまえると主張しています。
「ファクティシュという解決策は、多くのポストモダンのように、次のように述べて、実在か構築化という選択を無視することではない。『もちろんそうだとも。構築と実在は同じものなのだ。すべてはまさしく幻想であり、物語であり、みせかけなのだ。今時、誰がこんな些細なことで争うだろうか。』これに対しファクティシュは全く異なったことを提案する。あるものが非常に実在的で、自律的で、われわれ自身の手から独立したものであるのは、それが構築されているが故である、と考えるのである。」(同書、359頁)
このような補助線の役割について一旦承認してみましょう。でもこれに続いて次のような事柄が述べられているのを見ると疑問がわいてきます。
「偶像破壊者のハンマーによる打撃が常に的を外していたと気づくことは、なんと奇妙なことだろうか。・・・商品崇拝の幻想を非難したマルクス、常に見失われているものの恐るべき発見を封印するための停止装置にフェティッシュを変換させたフロイト、ハンマーを手にしてあらゆる偶像を破壊した哲学者、あるいはより正確には、偶像がいかに虚ろな響きをあげるかを聞くために軽く叩いた哲学者であるニーチェの相続人ではないのだろうか?この逆を信じることや、この系図、この高名な系譜を手放すことは、古代的、反動的、さらには異教的になることだという深刻な非難を受け入れることになるだろう。どうしたら、このようなばかげた立場が、政治の別のモデルにつながりうるのだろうか?」(同書、378~9頁)
ラトゥールが『資本論』をちゃんと読んでいないのは仕方ないとしても、マルクスが商品の物神性を解明したことを、反物神崇拝者によるハンマーの一撃と見做す見解にはついていけません。マルクスは商品の物神的性格について、その秘密を暴きましたが、しかしそれがなされたのちにも物神性は消えることはないと述べているのであって、決して物神性をハンマーの一撃でなくせると主張したわけではありません。もちろんフランスのマルクス主義者たちが物神性を一撃で破壊しようとしていたのかもしれませんが。
では、お返しにマルクスの立場から、ラトゥールの補助線について批評してみましょう。ラトゥールの「あるものが非常に実在的で、自律的で、われわれ自身の手から独立したものであるのは、それが構築されているが故である」という理解を商品に適用してみましょう。商品は単なる自然物ではなくて、使用価値(物そのものの用途)と交換価値(他の商品との交換比率)とを持つ二重物です。使用価値としての物の構築は製造工程であって、感覚的に理解されるものですが、製造された物がいくらの交換価値を持つかは、社会的な関係によって決定されます。この社会的な関係による決定は、人々の手から独立したものですから、商品を自律的で独立したものへと転化します。そしてこの自立したものという外観が物神性なのですが、ここでは人間の社会的関係がモノとモノとの関係であるかのように現象しているのです。これはある使用価値が商品になる場合に起きることで、自家消費される場合には決して我々の手から独立したものにはならないでしょう。ラトゥールの言うように構築されたものだから必ず自律化する、ということはないし<物神事実>という補助線も、このような理解だと有効性はあまりないと判断せざるを得ません。
ラトゥールには実験室の研究はありますが、実社会の商品生産の研究は見当たりません。それではマルクスに対する反発も、見当はずれになってしまいます。私は、会報279号でマルクスの貨幣生成論を発掘し、295号にはこの見地からラトゥールの見解へのコメントの必要性を提起しましたが、その作業が急がれます。
第2章 新しい政治の探求
1.はじめに
底なし沼のような<物神事実>論を経由して、本題の新しい政治の形成過程に移ります。ラトゥールの政治的発言は、1991年の『虚構の「近代」』でのモノの議会の提案でした。現実の政治の原理は憲法で定められていますが、その憲法は人間社会の統治の原理であり、人工物としての国家の形成は社会契約によるというものでした。ラトゥールはこの憲法が、人間だけを対象としたもので、この社会で限りなく増殖しているハイブリッドについては視野に入れられてはいないことを批判し、ハイブリッドを視野に入れた政治としてモノの議会を提案したのでした。気候変動に対応できる政治とは、地球も含めたモノの状態を把握しそれに対して適切な対応をすることが問われているのです。ラトゥールがこの時点では、ホッブズとボイルの論争を取り上げて、人間社会と自然とに世界を二分割し、双方が干渉できないような政治理論の問題点を指摘したのでした。これについては会報298号で報告しています。
以降、ラトゥールは、1995年の論文で<物神事実>論を展開し、1999年の『科学論の実在』でこれを補強しつつ、2002年の展覧会のための文書で、新たな政治の原理的考察を進めました。このような経過があって『地球に降り立つ』での「新しい政治」の提案にいたったのです。今回はこの経過を追って、ラトゥールが解明した新しい政治の原理について整理します。
2.政治の原理の考察
経済のことについては素人同然のラトゥールですが、政治に対する感性はいつも感心させられています。日本人に決定的に欠けている資質です。
『科学論の実在』では、第7章 サイエンス・ウォーズの発明、第8章 科学から解放された政治、の二つの章で、政治の原理についての考察がなされ、第9章と結論でも補足的説明がなされています。でもこれらの章で展開されている内容を逐一拾い上げることは非常に困難です。ポイントだけを取り出しておきましょう。
まず、ラトゥールは、第7章と第8章ではプラトン『ゴルギアス』(ソクラテスとカリクレスの対話)を素材に、それを通常の解釈とは逆の立場から解読しようとしています。プラトンの真意は、健全な政治体を作り出すための諸道具の提案でしたが、ラトゥールは、正義がなければ力が取って代わるという、プラトンの作品の主人公ソクラテスのように、理性を求めて叫ぶことは理にかなっているか、という問題意識で次のように述べています。
「私は、科学を政治からもう一度区別し、<政治体>が不可能で、無力的で正当性を欠いた、生まれながらの厄介者となるような仕方で発明されてしまった理由を説明できるようにするために、その歴史を調べてみたいと思う。」(同書、277頁)
実は、ラトゥールは、この古典的な政治論である、正義のないところには力がはびこる、という議論が成立することで、政治が生まれながらの厄介者となったとみて、その解読をしていきます。そして、ソクラテスとカリクレスという対話者二人ともが、群衆に敵対していることを示していきます。
「ソクラテスとカリクレスは二人とも群衆に敵対し、各々、衆愚を支配し、この世からあの世の分不相応な勝利の栄冠を勝ち取ろうとしているのである。」(同書、303頁)
理性や正義を打ち立てる専門知の必要性をソクラテスはのべて、カリクレスを負かすのですが、しかし、二人の対話はともに衆愚を支配しようという意志を持っていることを見抜いて、問題点を次のように指摘します。
「力と理性の劇的な対立の代わりに、三種類の力(あるいは三種類の理性――ただし、今後はいずれも何ら重大なニュアンスを伴わない言葉として)について考えなくてはならない。ソクラテスの力、カリクレスの力、そして民衆の力である。われわれが扱わなければならないのは、二者間の対話(ダイアローグ)ではなく、三者間の三角対話(トリローグ)なのだ。」(同書、303~4頁)
このような構えを示した後で、二人の対話を、衆愚(第三階級)を排除したものと見做して、その特徴を次のように述べています。
「全員に対する二人の闘い。それは、われわれに、彼らがいなければ万人に対する万人の闘争が生じるだろうと信じ込ませようとする二人組の奇妙な闘いなのだ。」(同書、304頁)
このように評価したあと、続く第8章で、新しい政治の原理を作り出すための方法について次のように述べています。
「原初の<政治体>の仮想的イメージを再構築するには、プラトンの否定的な注釈のリストをすべて肯定的に受け取るだけでよい。もともとは集団全体に分配された集団全体に関する知識であったものが少数者の専門知に転換されるとき、何が失われるのかを逆さまにして示せばよいのである。」(同書、306頁)
この作業の具体化が、最後に置かれている「結論」でなされています。まずそれまでの探求の結果が次のようにまとめられています。
「自然、社会、道徳、そして<政治体>の定義は、あらゆる権力の中で最も強力で、最も逆説に満ちたもの――政治を消滅させる政治、非人間へ堕落することから人間を守る非人間的な自然法則――を創造するために、すべて一緒に生み出されたのだから。」(同書、383頁)
このような判断のもとに、なすべきことは、政治を消滅させるための政治に典型的に示されている政治体の原理に代わる原理を打ち立てることだと、ラトゥールは、見ています。
「文化と対峙する客観的な自然とは、人間と非人間の分節化とは完全に異なるものである。もし、非・人間が一つの集合体にまとめられるならば、それは、科学によって非・人間と同じ運命を分かち合うようになった人間と同一の制度のなかの同一の集合体であるだろう。二極の力の源泉――自然と社会――の代わりに、われわれはただ一つの源泉、はっきりと特定可能な人間と非・人間のための政治の源泉、集合体の中へと社会化された新しい存在のための源泉があるだろう。
『集合体』という言葉はついにその意味を見出す。それは、イザベル・スタンジュールが描くコスモポリティクスにわれわれすべてを集めるものなのだ。隠れた確実な力(自然)と疑わしくさげすまれた力(政治)という二つの力の代わりに、われわれは同じ集合体の中で二つの異なった課題を有するだろう。第一の課題は、『どれだけ多くの人間と非・人間が考慮されているか』という問題に答えることであり、第二の課題は、ありとあらゆる問題の中で最も難しい問題、『犠牲となるものの対価を払ったうえで、あなたは善き人生を一緒に歩む準備ができているか』に答えることである。この最も高度に政治的かつ道徳的な問題が、何世紀にもわたって、多種の聡明な人々によって、人間をつくりあげている非・人間を抜きにして人間だけのために提起されてきたことは、アメリカの建国の父たちが奴隷や女性の参政権を否定したことと同じくらい常軌を逸していると間もなく見なされるようになることを私は疑っていない。」(同書、389頁)
人間だけでなく、非・人間のことも考慮する新しい政治、コスモポリティックスの実現を掲げた時の問題は、最終的に支配をどうとらえるかに関係しています。
「第四の、より困難な今後の課題の特徴は、支配に関係している。・・・われわれはまだ、支配者を全く持たないということを試みたことはない。無神論は、もしこの言葉で支配に関する全般的な疑いを意味するのだとしたら、将来にわたっても大いに栄えるだろう。アナーキズムに関しても同様である。『神も支配者もなく』というアナーキズムの麗しいスローガンが、実は常に一人の支配者、すなわち人間というものを想定しているがゆえに不正直なものであったにしても。」(同書、389頁)
支配者を全く持たない、ということについては、2002年に作成され『近代の<物神事実>崇拝』第二部に収録された論文がより具体的に展開しています。最後にそれを見ておきましょう。
3.政治の転換
ラトゥールの政治的主張の変遷についてはすでに会報296号で指摘しました。それは、「絶対的な自由が一つの神話であるという理由で、疎外されたものを致死的な束縛から解き放つことを拒む人だろうか。」(『近代の<物神事実>崇拝について』、127~8頁)を支持していた立場の放棄であり、「解放」という概念自体が嗜好性薬物であって、ここからどのようにして自らを解放するか、ということへの転換でした。
それにとどまらず、『科学論の実在』の結論部分を受けて、支配者を全く持たないという、自由についての問いの再提起が、2002年作製の論文でなされています。
「実際、『支配者なしで生きる』という同一の標語は、物神事実の傍らで生きるのか、客体と主体の間で悩まされながら生きるのかによって、全く異なる二つの計画を示すのである。自由とは、支配者なしで生きることだろうか、それとも支配性なしで生きることだろうか。この二つの計画は、することとされることが似ていないのと同じくらい似ていない。第一の計画は、ある支配者から別の支配者への移行を、結合から離脱への移行と混同することに帰着する。『神も支配者も不要だ』という解放の願望の背後で、悪い支配者をよい支配者に置き換える願望が表現されている。・・・ここでは自由はなおも、ある支配性を別の支配性に切り替えることに存している。しかし、いつになれば我々は、支配性という理想自体を手放すことができるのだろうか。いつになれば我々は、自由の果実を遂に味わい始めるのだろうか。つまり支配者なしで、とくに君主としての私なしで、生き始めるのだろうか。これが第二の計画であり、それは同じ標語に全く異なる意味を与える。別の指揮官の代わりに指揮権を行使することとしての自由と、全く指揮権を持たない生活としての自由が、混同されていた。解放と離脱という理想が袋小路にしてしまった道を、物神事実の力を借りて、自由の表現が再び歩むのだ。つまり自由とは今や、存在を可能にする諸々の繋がりが剥奪されないという権利である。そしてそれらの繫がりからは、決定についての一切の理想や、無からの創造に関する一切の神学が取り除かれている。・・・少なくともこれが新たな解放の計画であり、それはかつての計画を同じくらい力強く、かつての計画よりはるかに信頼できる。なぜならこの計画は、支配性なしに生きることと結びつきなしで生きることを二度と混同しないように強いるのである。」(『近代の<物神事実>崇拝』、130~2頁)
ここでは、支配者を全く持たないという概念が、支配者なして生きるということと支配性なしで生きるという二つの概念に整理しなおされ、支配性なしで生きることが目標とされています。
「物神ないし物神崇拝という概念は、まさに、必然性や自由という言葉を用いる人々と、自分たちを存在させている多くの存在によって自分たちが掌握されていることを知っている人々との間の、衝突に由来する。」(同書、133頁)
商品生産が社会の全体を支配するようになり、労働が賃労働に変化していく中で人々は自分たちは自由な人格だと認識するようになり、物神崇拝している人々への批判がなされているのですが、しかし、物神崇拝者だと批判されている側の人々は、人間は自由ではなくてあらゆるつながりの中で生きていることを知っています。ラトゥールは、コスモポリティックスを考えれば、現在の自由の観念を捨てる必要があると主張しています。
「もし一つの共通の世界の段階的な形成のことを政治と呼ぶのであれば、その世界の一員となることを切望するすべての人々に対して、彼らを存在させている諸々の帰属や結び付きを外部ないし舞台裏に置いておくことを最初に要求するような、そんな共通の世界というものを想像することがかなり困難であるということは難なく理解されるだろう。」(同書、135頁)
これが、現在の自由論に対するラトゥールの批判です。
「しかし、政治の対象であり、イザベル・ステンゲルスが『世界政治』(コスモポリティック)と呼ぶものの対象である共通の世界が、グローバル化に類似したものであることを示すものは何もない。すべてのことが示しているのは、逆に、<自然>による因果決定と<至上者>による恣意的裁定という二つの蓄積者では、共通の世界の段階的な形成に関する闘争を終わらせるためには、もはや充分ではないということである。もはや疎外からの解放へと進むのではなく錯綜からさらに錯綜した状態へ進む世界、もはや前近代から近代へ進むのではなく近代から非近代へ進む世界、そのような世界においては、諸決定と諸解放についての伝統的な分配は、『グローバル化』を定義するのにはもはや何の役にも立たない。『グローバル化』の困難に対しては、いまのところ、政治的悟性では太刀打ちできないのである。マファルダの父親の機械的な反応にも拘らず、もはや偶像を粉々にして隷属状態から自由へと急激に移行することが重要なのではなく、もろもろの結び付きそれ自体の中に救うものと殺すものとを引き込むことが重要なのである。」(同書、136頁)
このような政治観のもとに、2017年に『地球に降り立つ』が書かれました。そこでの新しい政治の提案がどのような思索のもとで形成されたのか、それを追ってみましたが、改めて、商品を主体として分析するという、ラトゥールに欠けている課題についての研究が問われていると実感しています。
(注)イザベル・ステンゲルスの『世界政治』(コスモポリティクス)について
コスモポリティクスとは、「人間だけでなくさまざまな非人間(動植物、テクノロジーなどなど)を巻き込んだ新たな政治を考えるための 概念である。」(森田敦郎&イェンセン著:ネット情報)
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