1.聞き取り調査報告書 一般社団法人文化知普及協会

 

 取材に協力していただいた方々

 大澤博さん(NPO法人結の会理事) 

大学職員として就職し、職場で労働運動に関わる。71年より共産主義者同盟(RG派)に参加し、76年に逮捕される。出獄後、印刷会社に就職するとともに、共同作業所「結の会」結成。以後さまざまな社会運動に参加している。 

 

 堀利和さん(NPO法人共同連代表)

1950年静岡県清水市に生まれる。小学校就学直前に難病で失明、盲学校に入学。

大学卒業後、保父や養護学校スクールバス添乗員などを務めたのち、参議院議員を通算二期務める。現在、特定非営利法人共同連代表、『季刊福祉労働』(現代書館)編集長。

 柏井宏之さん(NPO法人共生型経済推進フォーラム理事)​ 

1940年韓国京畿道で生まれる。安保・三池闘争に参加し、青年運動に関わる。その後「はじけ鳳仙花」運動などのさまざまな文化運動を展開する。1983年に生活クラブ生協・東京に就職するとともに、社会的経済・社会的企業の研究をおこなうとともに、障害者運動に参加しNPO法人共同連運営委員を務めている。

 平松民平さん(T&C社) 

1946年生まれ、中学時代はSF,真空管ラジオ作りに熱中する。父親の影響で『貧乏物語』などを読む。大学卒業後、エンジニアとしてソニーに就職する。第二組合改革の運動に参加する。ソニー退職後、仲間と共にT&C技術と文化社を設立。また、いくつかの研究会やフォーラムへ参加。

地域コミュニティーへの参加として自治会長や自治会連合組織の副会長を歴任。

 

 田中正治さん(ネットワーク農縁) 

1942年京都で農家の6男として生まれる。中高時代は卓球にあけくれるが、高3で哲学に目覚める。1960年大学入学後、共産主義者同盟に参加。卒業後私鉄労連関西地連に書記として就職する。1971年にRG派結成、参加し、76年に逮捕される。釈放後同盟を脱退。1990年代より農民運動に参加。2004年に千葉県鴨川に移住し、コミュニティーネットワーク創成に係わる。

 

 藤木千草さん(ワーカーズ・コレクティブ及び非営利・協同支援センター) 

1956年大阪生まれ。その後、府中市・国分寺市で過ごす。大学卒業後、出版社に勤務。長女の出産をきっかけに生活クラブ生協に加入。そこで「仕事づくりワークショップ」に参加し、市民参加のコーディネートや編集などが仕事になることを発見。1992年よりワーカーズ・コレクティブを立ち上げ、2010年にぷろぼの工房設立。2015年にワーカーズ・コレクティブ及び非営利・協同支援センター設立する。 

 2.質問項目と皆さまのご意見 

(1)「文化知創造ネットワークの呼びかけ」および「文化知の提案」を読まれてのご感想

  大澤博さん

 文化知が実際の運動にどうつながるかというイメージがわかない。もう少しわかりやすい言葉で語ってほしい。勉強会をやったりすると、平易な言葉に翻訳するのが大事だけど、なかなか難しい。でも、それが出来ないとだめだと思う。実際の活動にとって文化知は必要だと思うけど、その有効性はその人その人によって違うだろうから、一般化して有効かどうかということはできない。具体性を持たないといけないと思う。

 

  堀利和さん

 文化、働き方の現状を超えた理念を構築していく、現状に縛られない、資本主義に縛られない実践論を伴う運動だと思う。実践論があることが重要。生活の場から社会を変えるというのは、私から言えば労働力の商品化、搾取があれば働けないので、それを乗り越え、止揚すること。いまの会社で労働者を雇うとき、健常者と比較して社会的労働量を実現する一定能力があればそこに雇用されるが、それ以下であれば障害者は福祉の対象となってしまう。それはおかしいのであって、能力のあるなしに拘わらず働くというのが基本理念となる。

 能力の低い者も対等に働くことができることが必要。能力に応じて働く、生活に合わせて分配するというのは、自分なりの能力で働いても分配金を等しく受け取ることだが、現実の資本主義社会ではそれがあり得ない、不可能なことをやっている。今の世の中では広がらないのも仕方がないかもしれない。

  柏井宏之さん

 文化知普及協会には大変関心をもった。しかし、私自身は文化の独自性に学生自体からふれてきたので、今回の提起は哲学的な概念のところでの論理展開にとどまっていて、文化のもつ独自性についての知というのは何かということは、よくわからなかった。

 おもしろいなと思ったのは、主体―客体図式は役立たなくて、媒体としてのネットワークについては重要との指摘だ。結局主体と客体というのが切り離されて、両方を相互浸透させるところに媒体が存在して主体が形成されていくわけで、その時の媒体の構造や内容がどうであるかということが大事だということに力点を置く考え方には、共感した。

 文化そのもののもつ独自性、構造性、世界性、普遍性というものの価値をもう一度再認識する文化知というタイトルをつけてアソシエーションを出発させるならば、その点をもっと論及する役割がいるのかな、その一端を僕も担わなければならないと思った。

 

  平松民平さん

 科学知の限界を破るというのはわかるが、文化知とは何を指すのかがいま一つはっきりとは分からない。文化知、基礎理論としての抽象的一般論のほかに、具体的な実例に沿ってわかりやすく示してほしい。文化知のご利益を実感させてほしい。科学の方法を刷新するものとして、例えば吉田民人の「設計科学」があるが、それとはどのような関係にあるのだろうか。

 自然科学は価値中立的で「ものはどうあるか」の探求だが、「設計科学」では科学は価値「ものはどうあるべきか」についても論じるべきだと主張する。文化知もこのような考えと交差するものか。前衛党は新しい社会を構想・設計すると思うので、それはまさに設計科学の領域と思う。これまでの社会主義党にはそういう発想がない。文化知も科学を排斥するものではないと言っているので、設計科学を受け容れることもできるのではないかと思う。

 

  田中正治さん

 第一に、もう少しわかりやすいものにしてほしい。この文章を読んでも、実践・行動のイメージが湧かない。何をやるのだろうかを読み手が深く考えなさい、と言っている文章になっている。

 第二に、シュタイナーの人智学協会の手法と似ているな、と感じた。シュタイナーは人智学協会をベースに、教育、有機農業、建築、芸術、医療、銀行などのプロジェクトを作り、全世界的なネットワークを築いた。

 第三に、カウンターカルチャーの資本主義批判版という感じがした。これまでのカウンターカルチャーには文化的な批判はあるが、資本主義批判はなく、なし崩し的に資本主義を変えようというもの。いつの間にかカウンターの側が力をもっている、というような方法なのかな、と感じた。

 僕なりに考えれば、自然と人間との関係を考えると、労働を媒介とした物質循環があって、文化知の方法で言えば、そこに循環しているエネルギー、労働が実体になるのかなと思う。つまり農業のあり方が人間および自然を規定する。例えば農薬を使えば田んぼの微生物がころされ、物質循環が損なわれる。それに対して有機農業では物質循環が成立する。だから有機農業の方が優れている。このような結論が価値形態論の方法を応用すれば言える、そこまで落とし込んでイメージできないと、僕には理解できない。

 

  藤木千草さん

 まず何をやりたいのか、いま一つよく理解できなかった。世界での連携というのはすごく大事なことだと思うが、ただ、あの文章を読んで、「わかりました。一緒にやりましょう」という人は少ないのではないか、というのが正直な感想。ただ、こういう組織を作ってやっていこうというのは、面白いなとは思った。だから具体的な活動項目を箇条書きしたり、学習会を開いたりすればいいのではないか。

 

(2)文化という場合、どのようなものを思い浮かべられますか。広い意味での生活様式として文化を把握するという観点について、どのように考えられますか。 

  堀利和さん

 これは大変に難しい問題だと思う。文化とは何かについて、私は生活文化と文化生活と言う言葉を考えている。文化生活といえば、それは電化製品が揃って、一定の生活水準で物質的な豊かさの享受ということが思い浮かぶ。他方、生活文化というのは、一つの生活様式であって物質的豊かさだけに価値があるわけではなく、生活という人間相互の営みで、消費部面での物質のみに価値があるのではない。そのとき労働というのは、生活文化とは一人ひとりが人間として市民として差別なく関係を持てる生活様式であり、共働なのだ。その意味で働き方、生活の仕方において、価値観の多様な、寛容性のある関係の一つの象徴が文化だと考えている。

 実践レベルで言うと、自分たちは少数派の働き方、生き方―能力に応じて働き、生活に応じて分配する―であるが、だがこれは未来社会の一つの小さなモデルと見ている。いまの過労死や過労自殺を生む社会に対して、人間的な豊かさは、その対極にある。運動は小さくてもそうした理念を創出し、価値の創造という面で過労自殺のあるような働き方、企業文化、競争主義に対抗して、私たちの働き方にまで広げて普遍化していくべきだと考えている。この点で、私たちの共同連の存在価値があると考えている。これが広い意味での文化運動だと考える。

 

  柏井宏之さん

 僕としては60年代の学生運動の最初の時から、政治活動と文化活動を僕の中で分けながら運動を進めてきた。

労働運動とは別個に総合サークル運動、あるいは労働者≒勤労者文化運動の必要性を感じて、働く者の演劇集団・音楽集団・絵画集団・詩作集団・写真家集団・批評家集団を独自につなぎ合ったネットワークを創っていた。それらの活動が、政治に結びついているのは結果であって、社会的な文化運動だったと思う。十分に脱政治で、党派からはサークル主義、日和見主義としてたたかれた。

 60年代以降は、無党派あるいはもっと第三世界の民衆そのものとして連帯していく文化的社会運動という性格が非常に強い。たとえば「はじけ!鳳仙花」運動は、政治運動とはちょっと違った形で、あるいはアムネスティの活動家やもっと底を拡げた運動であった。そういう意味で文化運動はある特定の範囲でのみ影響するというよりも、枠を超えて大きく飛び火するように運動が広がっていく。文化知普及協会というのがスタートするのであれば、もっと地域の主体に引き寄せて、文化運動というのはどうだったのかを考えたい。

 

  平松民平さん

 僕のイメージでは、文化といえばやはり上部構造であって、生産力基盤との接点が薄いのではないかと思う。他の人の未来論やアソシエーション論をみても生産力を具体的に分析した視点は薄い。生産力は生産関係や文化の材料だと思う。この材料を使ってどのような社会をつくるかという問題で、そういう意味でやはり生産力は基底的で根本的だと思う。生産力の高低に応じて生産関係や文化が決まると思っている。

 

  藤木千草さん

 生活者ネットワークのスローガンは、生活を変える、私たちは生活の道具です、というものだ。だから生活の根本は政治だと捉えている。あなたの生活は政治によって左右されますよ、といいたい。

 

(3)科学・技術の現状について、どのようにお考えでしょうか。

  大澤博さん

 印刷屋の経験からいうと、技術の進歩は必ずしも良いとはいえない部分がある。たとえば、昔は機械の修理を自分でできたけど、今は人を呼んで基盤を変えないといけない。だから仕事が止まってしまう。食べものに関しては、自分の経験や子供がアレルギー体質なので、いろいろ勉強した。そういう意味では生活に科学は必要だと思う。

 

  堀利和さん

 科学を応用して、技術的発展するのは否定できないが、それを誰が支配しているのか、所有しているのか。核兵器や原発を必要とする支配者が、それらを科学としている。それらを誰が支配・所有しているかが問題。科学者が政治と離れて、科学としての客観的な立場というものは、それはありえない。

 

  平松民平さん

 進歩や欲望は人間の本質だからそれを抑えることはできない。それらに蓋をしないで済む科学をもとめたい。物質代謝に関しては、生存に必須だが地球の容量に限界があるから、最低限に抑える必要がある。他の欲望は環境との物質エネルギー代謝を最小限にできる非物質的財で吸収させるべきで、文化・芸術の分野で欲望を充足すべく消費していくべきだと思う。

 

  田中正治さん

 資本主義というのは、科学知を中心に進んできたと思う。特に20世紀は圧倒的に科学の時代だった。応用科学によって産業・経済を創出してきた。そのようにして100年間進んできた文明が行き詰っているような現象がたくさん起こってきている。科学は自らの実証を実験室でやり、それを社会的に応用している。その方法の弊害や限界が噴出している。実験室で実証したものを、複雑な社会に応用できるのか、という問題がある。また、科学は自然を絶対的に認識できるのかという問題がある。科学知が専門家に独占され、民衆の生活からかけ離れていっている。もともと技術は普段の生活から生まれてきたにもかかわらず、もはや民衆の理解できる世界ではない。

 生活と科学知との関係で言えば、シューマッハーが「身の丈に合った技術」といっている。生活過程のなかに科学知を埋め込むということが必要だと思う。

現在の科学の根本には原爆の問題があると思う。第二次大戦が終わったときに、原爆開発に従事した科学者が失業した。彼らが別の分野に移動した。原子力工学、遺伝子工学、情報工学、金融工学などへ優秀な研究者が流れた。その結果、諸科学が変質した。

 

  藤木千草さん

 行き過ぎの部分があると思う。たとえば、遺伝子組み換えやゲノム編集の問題。特にゲノム編集は遺伝子をちょっといじれば自然に変わっていくというもので、安くできるから中小企業もやっていて、非常に危険だと思う。それは一見いいことのように、つまりみんなが飢えないように食料を大量生産できるからだ、とモンサントなんかはいう。確かにおなかは一杯になるかもしれませんが、どういう影響が体にあるかわからない。それは行き過ぎではないか。そういう意味では科学の発展の横に哲学があるべきではないかと思う。

 

(4)あなたが参加されている運動において、現在どのような問題・課題・困難があるでしょうか。

 大澤博さん

 僕の運動の方法論としてはコミュニケーションを重視している。つまり、その人の問題意識とこちらの問題意識をつき合わせて、分かり合えることがあったら、一緒にやろうよと。しかし、知的障がい者や異文化の人とのコミュニケーションは非常に難しい問題がある。

たとえば、知的障碍者とのコミュニケーション、自分のところに引き付ければ、これは結構大変。で、その知的障碍者とのコミュニケーションというのは、相手が何を要求したいのか、何を考えているのか、これを想像するしかない。知的障碍者は自分の意思を持っている。ただ持っていてもそれが適切かどうかの判断を自分が出来ないから、また違っちゃうとパニックになっちゃうから、パニックも自己表現なんだけど、それが社会的に受け入れられないと落ち込んでしまう。

 あと、多文化共生というのはすごく難しいと思う。習慣を一緒にしようというのはなかなか難しい。在日朝鮮人とかアイヌとかいろいろ知っているけど、彼らと心から友達になれるかと言うと難しい。若い人は別かもしれないが、戦前を引きずっている人や、二世とか親の苦労を見てきた人は、心の底で日本に反感をもっているから、仲良くなっても、腹を割って本当に信頼して話せるかは疑問。

 以上のような問題を考えるのが文化知ではないだろうか。

 

  堀利和さん

 いま、厄介なことは生活困窮者自立支援法が制定されて、これは単なる就労準備訓練の制度化にすぎなかった。それに対して共同連は、経済的な困窮者について社会的事業所の制度化によって困難な人が安心して生活できる制度を目指してきた。しかし、これは挫折した。

70年代の「きょうされん」、そこでは支援員が障害者の仲間を支援している、制度通りの、障害者が働く権利を保障すること。私はそれを否定しないし、権利保障の政策は否定しないが、私たちは、人間関係のあり方を問うているのだ。支援、被支援ではなく、同僚であり、労働者としてなのだ。そこでは、国が委託した職員によって働く権利を保障することだったり、店をもって指導してやったりするのが目的ではない。そこがなかなか理解されない。

 上から作るのではなく、政治革命ではなくてボトムアップで社会変革することが必要で、時間はかかるかもしれないが、今はそうするしかない。社会の内部からの変革を進めれば、それがある程度充実してくると、権力や政治に手をつけられる。いまはまだそこまで社会は変革されていない。市民社会の充実のないまま、国家権力を手にすると、問題は大きい。だから、市民社会をどうやって変えるかと同時に、自分も変わることを考えないとならない。

 支持する政権がやってくれると考えてしまったら変わらない。それでは駄目だ。主体的な運動で、新しい人間観を創りあげていく、そうした人間関係を作ることが大事。それには時間も、手間暇もかかるので、資本主義の歴史と同じで100年200年かかるかもしれない。あきらめているわけではないが現実はそうだろう。左翼の力が小さいし、国民の7割が保守系であるから。彼らがあっちが良いと言ってもらえるように、明るくそれを示すことが大事で、楽しく喜びあう関係性を創るように、ネットワークを発信して、それを目指す。

 

  柏井宏之さん

 僕は大学時代に「黄金の眼」を大学の懸賞小説に応募、選者・野間宏によって受賞した。この小説の中で、60年安保以降の次の時代は、樺美智子のような左翼ではなく創価学会・オウム真理教・幸福の科学などの若者を主体とした新宗教が広がることを予感させることを私は無意識に描いた。若者の関心事は社会から心の癒しの問題に移っていくがそれらは大変個人的で閉鎖的だ。つまり、共生は社会に向かわず同質者間のものだけ。

 それは21世紀前夜に起こったヨーロッパの社会的に排除される孤独で打ちのめされた個人の一人ひとりを包摂する運動のような「社会性」を持ったものとしては広がらなかった。このことが日本の保守化と停滞につながる。たとえば、イタリアの社会的共同組合では、心の癒しに向かうのではなく地域社会を「分権自治・共生共同・参加型」で組み替え、縦型でなく異質なものがネットワークし、コンソーシアムをつくりだして地域社会の市民自治の根幹に据えていく流れを社会実践していた。日本の場合、左翼の社会団体も右翼の社会団体も新宗教も同質の金太郎飴で、基本的に官僚体質だ。それを突き破るにはやわらかで鋭い文化的感性を必要としている。

 

  平松民平さん

 地域コミュニティーへの参加として自治会で活動しているが、市民運動と自治会などとの交流は少なく、ある面では反目し合っていることもある。市レベルの行政との関係は市民の要求を通すときはぶつかり、一方で行政も含めて市民自治の内と見れば互いに仕事を分担して協力することも多い。どちらも両者をつなげる役割を担いたい。民主主義アップの場として学校、企業、地域コミュニティがあるけれど、地域コミュニティ(特に自治会)での活動が手薄と感じている。

 

  田中正治さん

 運動が抱えている困難ということで言えば、モンドラゴンが直面している問題と一緒だ。第一世代から世代を重ねるごとに理念が薄らいでいく。有機農業の運動でいうと、今の消費者は旨いか不味いか、安いか高いかという視点しかない。そういう問題に直面している。

 有機農業運動や産消提携運動をやってきた人は、何十年も文化知運動をやってきたと僕は思う。産消提携運動というは、消費者が農作業を手伝いにきたり、米などの価格を生産者と消費者が協議して決めるとか、あるいは災害に備えて基金を作るなどする。また、生活上の諸問題を共有して考え方をすり合わせていく。だけど、それが伸びて行かない。困難にずうっと直面してきている。

 若い人は別の方法で解決しているかもしれない。討論するとか理屈で納得させるとかいうことをやらない。僕らは認識させようとするが、若い人は知らない間に刷り込むという方法ではないか。論理的説明ではなく、感覚的な刷り込み。それが一番行動に結びついて持続していく。しかし、若い人が作るものは大したものではないので、伸びてはいかない。彼らには資本主義や市場に対する批判があまり見られない。お金に対する考え方が基本的に僕らと違う。上手く利用すればよい、という考え方だ。

 

  藤木千草さん

 いろいろあるが、まず若い人が関わってこない。運動が継続していけるのかという問題がある。

今の若い人たちと話をすると、彼らは情報をSNSから得ているみたいだ。だからそういう場で情報発信しなければと思うが、やっているメンバーが中高年なので、みんなそういうことが不得意だ。

 いろいろなコミュニティーの重なり合い・繋がりの全体が社会だと思う。それは結局人間同士のつながりだから、もう少し繋がれるようなものにしていくべきだなと思っている。ところが価値観の違いというものがあるから、そこを突破できないかなと思う。

 ワーカーズコレクティブは先端をつねにいっているので、制度は後からついてくるという感じだ。社会的事業所の取り組みもそう。だから社会運動を事業としてやっていくということは苦しい。だから互いに連携してモチベーションをあげながら何とか継続して、社会の仕組みを変えてやりやすいものに変えていく流れを作り出せればいいなと思う。                                                                                                                                                                                                                 

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