新左翼運動から障がい者運動へ――大澤博氏への聞き取り報告

 

取材日時、場所:2017年12月17日、西八王子駅北口、 カフェ アルカディアにて 

聞き手:田中一弘

    大澤博さん プロフィール

 

1966~76 大学職員に就職 職場の同僚の解雇撤回闘争に関わる。 職場闘争委員

会、全国通信制大学共闘会議、反軍闘争委員会を結成。 チョッパリの会に参加。     

71~76 12・18ブントからRGに結集 活動中逮捕される。   

82~ 出獄 印刷会社に就職 障がい者の運動に関わる。 印刷会社の代表になる。 共同作業所「結の会」の結成に関わり代表となる。   

93~ 地域のイベント「みんなちがってみんないい」の実行委員となる。 知的障がい者の「ピープルファースト」運動のアドバイザー会員となる。  

2001~  知的障がい者、精神障がい者のガイドヘルパー事業を開始。  立ち退き、病気のため印刷会社を廃業。現在、「結の会」では理事を務めている。

                                                                      

 

――本日は文化知普及協会の取材に応じていただいて、どうもありがとうございます。初めに大澤さんの方から、これまでの活動経験についてお伺いしたいと思います。

 

1. 大学職員闘争委員会結成

 

大澤:僕は66年に東京に来て、大学受けたけど、父が病気になって会社をやめちゃって大学にいけなくなった。親父の兄貴が法政の先生をやっていて、相談したら、学生課の長期アルバイトを募集しているから、夜間の職員になれば昼間に大学に行けるというから就職した。あのころ学生課では集会に潜入して人数を確認するなど、学生運動へのスパイをやっていて、いやでいやでたまらなかったからやめた。次の年に図書館の職員になった。

学生課にいたときに長期アルバイトの女子職員が理由がよくわからず首になって困っていた。組合に相談したんだけど、共産党系の組合で対応が遅かった。アルバイトの連中に相談したら、これじゃだめだということで法政大学職員闘争委員会を作ってビラまきなどをやりだした。叔父は何も言わなかったけどね。これが運動のはじまり。だから僕は学生運動はやっていない。大学職員として始めた。

 

法政には通信科があって、夏休みにスクーリングに学生が来る。地方にかえれば労働者だから、これを組織しようと思った。そのころ武蔵野美術大学の通信制の学生が運動をやっていて、法政でビラまきをしていた。他の大学(立教・慶応・明治・日本女子)の学生もビラまきをしていた。アジトがないから僕らの部屋を提供した。学生は金がないから給料をもらうと彼らに飯を食わせたりもした。そこから通教生運動のリーダーの人と二人で全国通信教育学生共闘会議を結成して全国展開しようと考えた。法政の通信科の学生に、反戦自衛官の小西がいた。新潟の隊内でビラ巻いて逮捕されて、新潟のメンバーからこちらに連絡がきた。自衛隊員がそんなことするわけないだろ、嘘だろ、と思ったけど、新潟の人間が来て弁護士を紹介してくれと言ってきた。それでこれは本当だと、弁護士を紹介した。

僕らは小西を応援していたけど、党派が彼の争奪争いをしていた。僕らが会議をしていると後に中核派全学連の議長なったようなやつが来た。中核派は裁判闘争をやろうとした。僕らは小西は革命軍の将校だと思っていたから、それには大反対で、何が裁判闘争だと批判した。でも結局中核派にオルグされてがっかりしましたね。

 

――裁判闘争はなぜだめなんですか。

 

大澤:革命の軍隊を作ろうと言っている時に、裁判なんて意味がないでしょ。中核派はあのころ武装闘争が必要だと言っていたけど、しょせん急進民主主義闘争だった。僕らは「急進民主主義よ、さようなら」という立場で、暴力革命だと言っているのが、何が裁判闘争かと言うわけで、反軍闘争委員会を作った。そのころチョッパリの会に参加した。

2.チョッパリの会

――チョッパリってなんですか?

 

大澤:朝鮮語で日本人に対する蔑称。チョッパリとは朝鮮語で家畜のひずめという意味で、ひずめの先が割れているでしょ。で、日本人は下駄をはくからそういういい方になったらしい、日本人をバカにした言葉ですね。金嬉老という人知っている?温泉旅館にライフル持って立てこもった男なんだけど。

 

――寸又峡の温泉旅館の事件ですね。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E5%AC%89%E8%80%81%E4%BA%8B%E4%BB%B6

 

大澤:そう。彼のお母さんを支援する「オモニを助ける会」というのが早稲田の学生を中心としてあって、それが発展して在日朝鮮人を支援する主旨で始まったのが、チョッパリの会らしい。自分たちを差別者として位置付けて。これはその後地区共闘会議みたいになった。僕らは入管闘争の集会で彼らと知り合って、事務所に遊びに行っていた。あのころ在日朝鮮人の状況は厳しくて、国士舘の学生に襲われていたりした。それを救うために武装組織を作ろうとしていた。でも襲われている人がどうやって連絡できる?すぐ行けないでしょ(笑)。でもあの頃は大衆運動のレベルでも武装闘争の組織が必要だと痛感されていた。

 

3.新左翼運動への参加~12・18ブントからRGへ http://www.geocities.jp/liberationsya/rg.html

 

70年になったときにチョッパリの会で子供が生まれるやつがいて、僕にも子供が出来て、足立区の千住大橋の近くにアパートを借りて引っ越してきて、子どもを育てながら運動やろうということになった。ところがそこで路線論争が始まって、12・18ブントに結集しようという僕らのグループと、武装闘争はやらないというグループ、インターに行くというグループへと四分五裂しちゃう。引っ越す前にやればよかったんだけど(笑)。

 

で、僕は、子どもが7月に生まれたんだけど、かみさんには生活保護(母子家庭)で暮らしてくれといって、11月に地下に潜った。非合法党の建設が始まるので地下に潜らなければならなかった。

 

――何が分裂あるいは党派闘争の原因だったんですか?

 

大澤:それは軍事組織をつくるかどうか、これがメルクマールだよね。理論的には資本主義批判の内容ですね。赤軍派が登場していた。軍隊も政治組織も地下に潜らせるかどうか焦点になっていた。76年に逮捕後に獄中で活動の総括をした。

 

――獄中だから自分一人でやったんですか?

 

大澤:総括作業は全組織でやったのです。

 

――政治革命先行説の否定は獄中のなかで、総括として形成されたということですか?

 

大澤:そうだね。結局、武装闘争を継続できなかったわけで、それをどう総括するか論争になった。政治局ではいろいろ論争があったらしいけど、僕らには伝わってこなかった。総括で清算派つまり武装闘争をやったのは間違いだったという人もいたらしい。論争の結果彼らは除名されて、議長が榎原さんにかわった。

 

榎原さんの総括後の路線には批判的な人達もいて、理論的な核を作ることには反対しないけど、それがどう現実の運動に結びつくのか、その部分が弱いのではないか、という人もいる。確かにそういう問題はあると思う。

 

4.障がい者運動への参加(1)~「結の会」結成

 

――大澤さん自身の運動に話を戻すと、「結の会」( http://npoyui.com/ )というのはどういう経緯で結成されたんですか?

 

大澤:僕の娘が知的障がいなんですよ。それで妻が障がい者と健常者の子供達を一緒に教育すべきだと主張する市民運動の団体に入っていた。その会は小学校教師や保育士などの市民が中心で構成されていた。実際の活動は就学時健診での知能テストに反対したり、就学時相談などの運動をしてた。知能テストは知的障がい者の排除だと批判して、学校の前でビラをくばっていた。市民運動はあまりよく知らなかったから勉強しなきゃと思って、出獄後手伝いにいった。運動自体には慣れていたからね(笑)

 

娘が中学校に入る時に、養護学校に行けと言われた。八王子の養護学校の組合の多数派は別学反対・養護学校粉砕とか言っていた。その人たちと運動しているとだんだん面白くなってきた。それで、知的障がい者の子どもが卒業した後どうするのか、という問題があった。障がい者の親たちは子供の将来が心配だから、親だけが集まって共同作業所を作るのが一般的だった。教員や市民たちで親が中心ではない作業所を作ろうということになった。

 

八王子の教職員組合事務所の前に、教員の親が経営していた喫茶店があって、もう年だからやめるというので、金を集めて居ぬきで400万で買った。そこを人・情報の交流場所と資金を稼ぐ場所にしようと始めた。僕ら運動をやっている人達がボランティアで当番制にして店をやっていた。

 

結局儲からなくて金はたまらなかったけど、「面白い店が出来た」ということで人とのつながりがいろいろできた。それがよかった。そのなかの一人が今の結の会の場所の地主で、子どもが重度の知的障がい者の人がいた。その親が「作業所をつくるんですか?」と聞いてきた。その人の土地を見に行ったら広くてよかったので、「ここで作りませんか?」と提案したら、「ぜひそうして欲しい」と言われて、作業所を作ることになった。場所が広くて畑もできる。養護学校で組合運動やっていた人などが退職して一緒にやることになった。

 

あのころは金がなくて、山梨の工事現場にあったプレハブを解体してトラックを借りて持ってきたりして、元八王子に立てた。「結の会」でやりたかったのは、親では無く知的障がい者が中心となる作業所だった。畑仕事が好きな人がいて、農作業等ををやっていた。僕は印刷の仕事をしていたから、丁合というんだけど、ちらし入れの仕事を持ってきた。八王子に生活共同組合があったのでそこに行って仕事をくれと言ってもらってきた。生協の注文書にチラシを挟む仕事をとってきた。リースで丁合機を借りてきてやった。これは結構稼いだ。年に1000万円くらいになった。会の職員の給料はこれで全部賄えた。

 

障がい者は月に大体5万円ぐらい手当が出ていた。あと5万円あれば10万円になって生活保護と同じくらいになる。年金と合わせると12、3万円になる。これで障がい者も1人で生活できる。障がい者が自立して生活するというのが僕らの夢だった。そういうことで始めた。助成金も出たからそれを運営費に回した。でも、会社の方が忙しくなって代表をやめた。

 

5.障がい者運動への参加(2)~「ピープルファースト」への参加

 

あと、そのころ「ピープルファースト」( https://www.pf-j.jp/)運動というのがあって、これは世界的に有名な運動で、知的障がい者が自立することを目ざす、スウェーデンから始まリ、アメリカの障がい者の「障がい者である前に人間だ」という叫びから広まった。今は全世界的に展開している。うちの娘がピープルファースト東京の代表をやっていたことがあり、その団体の支援者をやってくれないか、という話があって、支援者をやっている。

 

――そこは知的障がい者の問題だけを扱っているんですか?

 

大澤:知的障がいというのは身体障がいなんだよ。脳も身体だから。知的障がいは身体障がいの一部で、知的障がいであると同時に身体障がいの人もいる。また精神がい害も含まれていて、全部障がい者たちが自主的に運営している。そこに支援者もいる。今僕はピープルファースト八王子の支援者をやっている。八王子には障がい者の作業所が100以上ある。八王子は東京都の姥捨て山なんです。

 

――八王子は行政が積極的に支援しているから、それほどの数が出来たんですか。

 

大澤:積極的ではないね。障がい者自立支援法ができた。この法律ができるまでいろいろ運動ををやった。その法律の中で障がい者の区分があったり、自立支援なんだから働くようにしろと、就労支援は就労計画を作って何年たったら就労するかというのを出せと言う。役人が考えるのはこんなことなんだよ。できっこないんだよだいたい会社が雇わない。めんどくさいし。俺たちは障がいの程度で作業所のなかを分けたくないから、そういうのを無視して、就労支援A型でもB型でもない何でもありの生活介護の形態にしている。重度の知的障がい者も含めて、来るものは拒まず、という方針でやっているけど、なかなか難しい問題もある。暴力ふるったり、作業所の物を盗んだりする人がいたりとかね。生活介護にすると重度の人ばかりが来たがる。

 

6.フェス 「みんなちがってみんないい」

 

――「結の会」以外の活動として、フェスティバルをやっているということですが、どのようなものなんですか。

 

大澤:「みんなちがってみんないい」( http://minachiga.adliv.jp/ )というもので、市民運動や福祉関係の仕事、環境問題の運動をやっている人達が中心で運営している。これは結構面白い。不便を楽しもうというのがスローガンになっている。そもそものきっかけは上々颱風というバンドのコンサートをやって、結構儲かって、この利益をもとでに始めた。

 

――結構大きな規模でやっているんですね。

 

大澤:ステージが3つある。25年続いていて、最初は全共闘世代だから学園祭のノリだった。半年前から準備して直前はまる3日潰れる。河川敷に店のブース用としてテントを張るんだけど、金がないから作業所とか養老院とか公共施設などいろいろなところから借りてくる。運動会で使うようなテントで、これが結構重たい。トラックに積んで運ぶんだけど、これがきつい肉体労働(笑)。テーブルや椅子は八王子のボランティアセンターから借りてくる。テーブルも重い。前の日に会場の運んできて、当日の朝早くに行って設営する。

 

――出店する店の人たちも来てやるんですか。

 

大澤:最初は来てたけど、今は来ないね。店の売上の一部をもらっている。前は売り上げの何割かをもらっていた。日本人は正直に売り上げを申告して払うけど、外国人は絶対に本当のことを言わない。売上額をごまかす。俺はカウンター持ってチェックしたことがある。その結果と店側の金額とが合わなくて喧々諤々になる。これは文化の違いで、外国人が国際標準かもしれない(笑)。だから、最近は一律いくらの金額を決めてやっている。最近来場者がへってきているから、来年からはフリーマーケットをやろうという話になっている。でもフリーマーケットをやるとそこがゴミ捨て場になっちゃうみたいだから、古本とCD限定にする。そういうことを半年前から議論している。

 

ボランティアも少なくなってきている。今問題なのは、若い人がいないんだね。今の大学生は部活の先輩のやっていることを引き継がないんだね。卒業すると終わり。八王子も大学が多くてクラブに話をしに行く。それで来年も来るだろうと思うとパタッと来ない。何だろうかと思って理由を聞くと「先輩から聞いていません。」と言われる。

 

7.印刷会社を経営する

 

大澤:個人的な話をすると、印刷会社で経営者になって、社員たちに「自分の給料は自分で決めろ」と言った。資本主義的経営はしたくないと思って、みんなで共同作業しているわけだから利益をみんなで分配しようとした。ところがこれが決められないんだよね。あれは何なんだろうね。

 

―日本人て遠慮みたいなものがあるじゃないですか。そういうのに慣れてないからじゃないですか。

 

大澤:そう。俺もどうしていいかわからなくて。俺が決めるから文句言うなと。組合がなかったからね。組合が経営していたから(笑)。結局これも失敗だった。この問題はNPO法人で解決した。結の会では職員が理事になっている。結局組織と意識の問題だったわけです。

 

2001年に病気になった。会社もモノレールのために立ち退きを要求されていて、頑張って反対しようと思ったけど、病気になったから会社を辞めることにした。スズメの涙の立退料しか出なかったけど、借金と社員の退職金、給料をそれで払って清算して、それで会社をやめた。

 

それからヘルパ―の資格を取って、車で障がい者の移動支援をやっていたけど、体を壊しできなくなったので、今は知的障がい者の生活支援をしている。支援をやると金が何ぼか出るから、今はそれで細々と生活している。

 

8.文化知に関する感想

 

――活動経歴を詳しくご紹介いただきまして、ありがとうございます。これからはそのような活動をしてきた大澤さんの観点から、我々が提唱している文化知についてどう思われるか、という点について聞いていきたいと思います。

まず最初に、「文化知創造ネットワークの呼びかけ」および「文化知の提案」を読まれた感想をお聞かせください。

 

大澤:感想はこんなもので運動できるのか、というのが第一、正直言ってね。いや、運動に繋げるんだろうけど、イメージが湧かないよね。

 

――具体的にどうするかという点ですか。

 

大澤:そうそう。ネットワークか?メルッチ読んだ?これメルッチの方法論なんだね。ネットで見たら、イタリアの心理学者、社会運動家。こういう本(『現代に生きる遊牧民』https://www.iwanami.co.jp/book/b262329.html)があって、その解説を榎原さんが書いていて読んだけど、よくわからない。要するに方法論的には、意識の深層を、つまり八百屋のおっさんとか、普段着の言葉の人の意識の深層のなかには、漠然と社会に対するオルターナティブがあり、それを掘り起こして繋げていくのが、社会運動のやり方である、と書いてある。それはイメージはわかるけど、どうやって掘り起こして繋げるのか、というのが問題の要だと思う。この言葉だけではよくわからない。

 

文化知創造というのがまずもってイメージが湧かない。ある程度は勘でわかるけど。大体、榎原さんの言っていることはすぐには理解できない。俺はね直感でその時「あっ、これいけるな」と思ったら、あとでゆっくり考えるけど、なかなかよくわからない。

 

――社会的な関係を捉えるための方法としての文化知というイメージなんですけど、結局それを価値形態論の方法から引っ張り出してくるということなんだけど。

 

大澤:そうそう。「人々がネットワークを通じ、お互いに運動に動員し合うこの場が主体としてのアイデンティティを形成している。」とメルッチはいうんだけど、これがぴんと来ない。

 

9.運動の方法としてのコミュニケーション

 

――実際、例えば大澤さんが運動していて、そのなんというか、意識に訴えるというのは、オルグなんかそういう活動じゃないですか、そういう時の方法論とかは?

 

大澤:それはその人の問題意識とこちらの問題意識をつき合わせて、という話ではないですか。大体感覚的に思っていることを僕の方で違う言葉にして、話し合うと分かり合えることがあったら、一緒にやろうよと。

 

昔は行動があるから大体、でこれはどういう行動かということになるでしょ。行動提起になるでしょ。だから行動提起のないオルグというのは、やったことがないし、それは学習会みたいになっちゃうでしょ。僕は学習会というのはあまり好きじゃなくて、意識だけ深めるお勉強会になっちゃう。具体的な行動と結びつかない勉強会には、あまり意義が見出せないんですよ。私はいわゆる肉体派なもんですから。身体を動かさないと、大体意識が深まらないみたい。メルッチも身体がどうのこうのと言っているんだけど、いわゆる身体論ではないといっているんだけど、よくわからないね。

 

たとえば、知的障がい者とのコミュニケーション、自分のところに引き付ければ、これは結構大変なのよ。で、その知的障がい者とのコミュニケーションというのは、相手が何を要求したいのか、何を考えているのか、これを想像するしかない。

 

自立の運動を支援している人たちのなかでは、自分の頭は貸すけど、価値観は押しつけるなという人がいる。だけどそれは絶対に無理で、誘導尋問はいけないわけだけど、でも誘導尋問になっちゃうんだよ。「あそこに行きたいんでしょ。」と言ったら、その人は大

体「うん」と言うんだよ。つまり、やっぱり力関係が作用するんだよね。本当は行きたくないんだけど、「大澤は支援してくれているから、大澤が言うんだったらそれでいい」というようになってしまう。それが本当の意思かというと、わからない。だからそういうところは、ディレンマを感じるね。だから、ここは難しくてね、知的障がい者は自分の意思を持っているわけ。ただ持っていてもそれが適切かどうかの判断をするのが苦手で、また違っちゃうとパニックになっちゃたりして、パニックも自己表現なんだけど、それが社会的に受け入れられないと落ち込んじゃう。

 

例えば具体的に言うと、ラーメンが好きなやつがいて、ラーメンばっかり食うわけだよ。すると病気になっちゃう。そうするとラーメンをやめさせるべきかどうか、という話になる。やめさせるべきだ、管理すべきだという人もいれば、いいじゃないか、という人もいる。ここは非常に難しいわけだ。

 

知的障がい者は糖尿病の人が多い。セルフコントロールが苦手で。おいしいものはどんどん食べちゃうわけだよ。だけど、おいしいものを食べるということは、自分の意思なんだな。だけどそこに、それじゃ体を壊すよ、ということをどこまで理解できているのかわからないことが多い。

 

知り合いの障がい者で糖尿病になった人がいて、その人アイスクリームが大好きでバクバク食っちゃう。糖尿病になっちゃう。で、病院に入っちゃうでしょ。で、病院で直して、病院が徹底的に教育するわけだよ、生活の仕方とか食事の内容とか、でも退院したらもとのとおり。その人は70過ぎてて、再入院を繰り返している。自分でコントロールできないから、生活支援している人は管理するわけだよ。きちっと、はりついていて。で、ストレスたまっちゃうわけだよ、うーんと。で、どっちが幸せかと。

 

で、70超しているし、もう十分生きているだろうという、これは俺の価値判断だけど、もう自分である程度好きにやっていいと思う。どっちがいいか賛否両論あるけど。こういうのを文化知というんじゃないかと、俺は思ってしまう。知的障がい者とのコミュニケーションをどうするかという問題。

 

多文化共生というのはすごく難しいと俺は思う。習慣を乗り越えようというのはなかなか難しい。在日朝鮮人とかアイヌとかいろいろ知っているけど、彼らと心から友達になれるかと言うと難しい。若い人は別かもしれないが、戦前を引きずっている人や、二世とか親の苦労を見てきた人は、心の底で日本に反感をもっているから、仲良くなっても、腹を割って本当に信頼して話せるかは疑問だね。韓国との慰安婦問題などは政治的に利用されているけど一朝一夕には解決しないと思う。

 

――コミュニケーションの方法論としての文化知ということですか。

 

大澤:そうだね。でもそういうのは運動につながらないかな。社会がこういう経験を積んでいくことが大事。「みんなちがってみんないい」で、ゲイの人がエイサーをやっていて彼らはそれをすごく楽しみにしている。他に表現する場がないから。個人的には付き合いたいとは思わないけど、一緒に遊ぶんだったら場を提供するという関係は持てる。この祭りをやっているとこういう事を考えさせられるから、やめられない、意味があるなと思う。でもお祭りを楽しみに来る人たちがどこまで感じてもらっているかというと、そこは判らない。

 

――ただお祭りにきて楽しかった、ということになるんでしょうか。

 

大澤:そう。楽しくなければ来ないから、きっかけは何でもいいんだけど。こういったことを考えてくれているか、確かめる方法がない。それがディレンマになっている。文化的な運動というのは、そういうことが多いんでは、と思う。新大久保に文化学校というのがあるんだけど、教養を与えるだけでそれでお終いという感じかな。生活に還元できるかというと、それはわからない。

 

10.科学知と技術

 

――現在の科学知についてはどう思われますか。

 

大澤:印刷の仕事でいうと、機械が故障したら、昔はドライバーとレンチがあれば修理できた。部品が足りないと作ったりして、1,2時間で直った。今の機械だと基盤ごと変えなければならないから、人を呼ばなければいけなくて、丸一日機械が止まるし、金もかかる。科学の進歩もいいけど、こういうのはだめだな。

 

――出来栄えとかはどうなんですか?

 

大澤:あまり変わらないけど、安く出来る。多色刷りだと昔のほうがきれいだね。昔はインクを練ってやっていたし、一色ごとに版を作っていたけど、いまはコンピュータで電子的にやっている。職人芸がなくなった。60年代なんかガリ版刷りで、早刷り競争していたよ((笑)。印刷はその時と比べて、現在は革命的に変わった。

 

このころコンピュータができて、日本語をタイプできたらいいねというのが、そのときの僕らの感想。科学知というとこういうところかな。

 

後は食べ物。息子がぜんそくで、娘がアトピーで、いろいろ勉強した。僕も地下活動している時は、病気になっても保険証がないから病院になかなか行けない。だから健康に気をつけて食べ物には注意した。玄米菜食をやっていたけど、一年ぐらいで胃弱が治った。こういう経験ぐらいしか科学に縁がないけど、こういう意味で生活に科学は必要だと思う。

 

――社会というのをどのようなものとして考えられていますか。

 

大澤:昔、関係の革命とかよく言っていたね。文化もすべて関係だしね。形態規定の論理ということは、よくわからない。もっと、日常の言葉として聞いてほしい。メルッチもそういうことを言っている。床屋のおじさんに聞いてもわかるように言ってほしいとか。かといってメルッチの言っていることも難しいけど(笑)。

 

――そうですね。でもそれがなかなか難しいですね。僕も考えなければいけないですね。

 

大澤:理論的な事柄を平易な言葉に翻訳するのが大事だけど、なかなか難しい。でも、それが出来ないとだめだと思う。実際の活動にとって文化知は必要だと思うけど、その有効性はその人その人によって違うだろうから、一般化して有効かどうかということはできない。具体性を持たないといけないと思う。

 

――具体的な場面に即して物事は考えなければいけないということですか?

 

大澤:僕はそうです。抽象的に考えられる人にはいいだろうけど、僕はその点弱いから。

 

さっきのコミュニケーションの話だけど、結局本当にわかりあえるかということはないと思う。文化知では解決できなんじゃないかな。さっきの糖尿病の人の話だけど、その人が死んでもそれまでに幸せだったと思えればいいと、そういう環境を作っていくことしかできないと思う。在日朝鮮人でも、日本人と付き合ってよかったなと思ってもらえれば、それでいいと思う。

 

――でも本当にわかりあえるかどうかがわからないから、そこから対話が始まるのではないでしょうか。絶対に分かり合えると考えると、そこから強制や指導みたいな話になっていくのではないでしょうか。

 

大澤:そうだね。自分の価値観を押し付けないというのが僕のテーマだし、それを追求していくしかないと思っている。

 

――最後にお聞きしたいのですが、元ブントの活動家としては、今のデモについてはどう思いますか。

 

大澤:最初はびっくりしたね。パレードだな。でもいいんじゃないですか。みんな集まってどんちゃんやりながら。あれが正しいデモだと思う。昔はただ機動隊と喧嘩してめちゃめちゃにやられていたから。そんなんで権力を粉砕できるわけがない。ただ発散しているだけ。竹やりで勝てるわけがない。催涙ガスが水平打ちされるのは怖かったね。合板で盾を作って防いでいたりしたけど、衝撃がすごくて手が痛かったな。

 

――今日はどうもありがとうございました。貴重なお話をたくさん聞けて、勉強になりました。特に、八百屋のおじさんにもわかる言葉にしてほしいというご意見は、今後の私の重要な課題として受け止めたいと思います。            

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