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社会的事業所の法制化を!――堀利和氏(NPO法人共同連代表)への聞き取り報告 

 

 取材日、場所:2017年12月18日、東京都障害者福祉会館にて

 聞き手:田中一弘、大賀英二

 

​  堀利和さんのプロフィール

1950年 静岡県清水市に生まれる。小学校就学直前に難病(スティーブン・ジョンソン病)で失明。小学校4年2学期に静岡県立盲学校商学部に転校、同中学部、東京教育大学附属盲学校高等部、明治学院大学、日本社会事業学校卒。

 

民間保育園保父(2ヶ月)、養護学校スクールバス添乗員(1年半)、大田区点字講習会講師(週1、10年間)などの後、1989-95年参議院議員(日本社会党)、1998-2004年参議院議員(民主党)。立教大学コミュニティー福祉学部兼任講師。

 

現在、特定非営利法人共同連代表、『季刊福祉労働』(現代書館)編集長。

 

主な著書

『共生社会論―障害者が解く「共生の遺伝子」説』(現代書館)

『はじめての障害者問題―社会が変われば「障害」も変わる』(現代書館)

『障碍者が労働力商品を止揚したいわけ―きらない わけない ともにはたらく―』(社会評論社)

『日本発 共生・共働の社会的企業―経済の民主主義と公平な分配を求めて』(特定非営利法人共同連編、現代書館)

『アソシエーションの政治・経済学―人間学としての障害者問題と社会システム』(社会評論社)

 

 

1.生い立ち

 

​――最初に堀さんから自己紹介をお願いします。

 

堀:1950年に静岡県清水市、いまの静岡市清水区の生まれ、幼稚園を卒園して小学校に入学する3月末に、いまは難病指定になっているスティーブン・ジョンソン病に罹った。そのときの症状は、半月以上の間40度以上の熱が続き、病院に入院してしばらくは意識がなかった。

 

7月に退院して9月になって、地元の清水小学校に2学期から編入した。私の病気の症状は、体の皮膚が剥けて髪の毛が抜けるもの、さらに食道には痰がからむようになった。親に聞いた話では、夜になると父親が徹夜で、食道などに貼りついた表皮をピンセットで取って、窒息死を防いでいた。私としては、比喩的に言えば体の中に原爆が落とされたような状態でした。

 

地元の清水小学校に、二学期に編入したときは視力が0.02と強度の弱視だった。そのため、授業では一番前の席に座っても黒板が見えず、教科書も読めない状態で、先生の話を聞くだけだった。

 

しかし、当時はまだ白い杖なしで歩けたし、走ったりできたので、外での子どもたちとの遊びは大丈夫だった。当時の子どもたちは、異年齢集団で交流があって自分より上や下の年齢の友との交流があった。遊びとして行われていたのは、ソフトボールを使った三角ベース。そこでは私はピッチャーの位置から辛うじてバッターの姿が見えたのでピッチャー。それしかできなかったが、私が投げたボールを捕手がゴロで返球するとか、バンドはなしというルールを自分たちで作って、よく見えなくても近所の友だちと遊ぶことができた。

 

小学4年の2学期からは、静岡県立盲学校小学部に転校した。そこへの通学では路面電車と静岡鉄道とを乗り継いで4~50分かけて、私は家から通学していたが、当時は殆どの生徒が寮生活を送っていた。私が通っていた静岡盲学校では中学部が終わってから高等部が5年間あって、その高等部を終わったときには21歳になる。その間、鍼・灸・マッサージを勉強して試験を受けて資格を取る。その資格は、当時は都道府県の資格だったが、いまは国家資格になっている。

 

その静岡盲学校には中学部までいて、3年のとき先生から「東京に行きなさい」と言われた。そこで中学部を卒業後、東京教育大付属の盲学校に進んだ。そこは唯一の国立の盲学校で、全国から生徒が集まるところ。いまは筑波大付属の盲学校高等部となっている。そこに入ったのは世代的に60年代後半、ベトナム反戦とか70年安保の闘いがあった。そのころは全共闘運動が盛んな頃で、私は大学では部落問題研究会に所属した。当時、出身地の清水市には在日の人はいたので知っていたが、部落は知らなかった。そのサークルに入ってから、狭山裁判闘争を知って部落問題に興味を持った。

 

 

2.大学時代~学生運動から障害者運動へ

 

堀:そのサークルで活動したのが60年末から70年代の初めで、高等部ではそこの先輩たち10数名とともに月一回の清水谷公園で行われていた、ベ平連のデモに参加した。そのときに、目が見えないものだけのデモ部隊を作って、そこで私が事務局で連絡担当として活動も行った。そうして大学に入ってからも集会やデモに参加していた。当時は、全国で全共闘運動が盛んだったころで、私は三里塚空港反対運動の集会などにも行って、産学農共闘に加わった。

 

こうした活動は72~3年頃に運動が挫折し、私もそこから離れ、73年頃から障害者問題に関わっていった。当時の私たちは視覚障害者として、大学の学籍を取って授業を受けていたが、その時明治学院大に重度の脳性麻痺の障害者が聴講生として入ってきた。受験が認められない「聴講生」問題の運動に関わり、一方、都庁本館前でテント座り込みの都立府中療育センター闘争にも関わり始めた。75年に東京都の特別区職員採用で、私の先輩が採用試験の受験を希望するが、当時は「盲人の採用がない」と点字での受験を拒否された。その理由が、その特別区では盲人の採用はしない、というものだった。そこで東京都に対する採用運動に取り組むことになり、その後毎年一人が福祉職で視覚障害者が採用されるようになった。あわせて、全盲の普通学校教員採用運動もおこなった。これらの採用の運動のために、視覚障害者労働問題協議会(視労協)を組織して、私が会の代表になった。協議会の運動は障害者の雇用運動というよりはむしろ障害者がどのようにして労働者性を獲得するかという労働問題として取り組んだ。だから、障害者が地域の普通学級に通うという運動や障害者の雇用差別など、障害労働者が不当解雇撤回の裁判闘争などさまざまな運動をやっていた。

 

その後、81年の国際障害者年には、総評が呼びかけて「障害者と労働者の連絡会」ができる。70年当時は障害者解放運動と呼んでいたが、その連絡会には、障害連、全障連、視労協の3団体が参加した。そこでは、総評の国民運動局や社会党本部の人達と一緒に運動を進めていた。社会党本部の人と一緒に議論しているときに、私たちも陳情する側から政策決定の場に障害当事者を出すべきだとなった。そこで、私の知らないところで私を選挙に出馬させようと決まって私は選挙への出馬を勧められた。

 

私は86年の参議院選挙に比例区で出馬した。当選は困難だろうけれどという条件付の選挙だった。しかし条件付であっても、障害者が初めて出馬したことに意味があった。ポスターには「自分で発言」と書いた。とはいえ、当時は私はもともと政治家になることは考えていなかった。そんなわけで、そのとき選挙には落選したが、89年になって社会党の比例区から2度目の出馬をして、初めて参議院議員に当選した。一期6年間の議員活動を行った後、また95年に立候補したが落選した。私はその後3年間浪人して、98年に今度は民主党から比例区で参議院選挙に出馬し当選した。こうして2004年まで2期の議員活動を行った後、私の国会議員としての役割は果たしたと思い、議員を辞めた。そのあと、2011年にNPO法人共同連の代表になった。

 

 

3.共同連とは何か~社会的事業所運動 http://kyodoren.org/

 

堀:この共同連は「社会的事業所」の法制化運動に取り組み、障害者が働くための制度を作ろうとしている。それまでの障害者が働くための制度としては、70年代に授産事業や小規模作業所制度があった。民間に雇用促進制度はあるが、障害者の労働場所は授産施設以外にはなくて、後に雇用を民間に求める運動となって、70年代には小規模作業所運動を親や福祉関係者、そして当事者も含めて組織した。そこでは、10~20名程度の障害者が通って手作業、軽作業を行う。それに自治体からの助成制度ができた。しかし、この70年代の作業所というのは職業訓練の場であった。それは、職員が指導者として利用者を教える先生となり、当時は先生と訓練生とよんでいた。その後、こうした従来の関係性というのは、同じ働く者同士であるのに、障害がある訓練生に対する差別だという認識が仲間と運動していくなかで生まれた。今は支援員と利用者という関係だが、その基本理念は障害があろうがなかろうが、共に働く労働者であり同僚であって、先生と訓練生という関係ではない。そこで共働事業所作りの運動では、共に働く関係性を作ろうという運動をしてきた。

 

2000年に、1991年に制定された社会的協同組合法の実施状況を見るためイタリアに視察に行った。組合にはA型、B型があって、前者はサービス提供型で、後者は社会的に排除された方が30%以上の協同組合である。そこに2度、研究者たちとともに視察に行った。また、95年から韓国の障碍友権益問題研究所と交流を続けてくるなかで、2007年には社会的企業組合法が制定され、毎年日韓社会的企業セミナーを開催している。イタリアと韓国の二つの法律を学ぶなかで、2010年にこうした2つの経験を踏まえて、障害だけでなく働くことが社会的に困難な人がいるということから、障害者の「共働事業所」からその対象をさらに拡げる形で「社会的事業所」の運動が始まって、11~12年でこの法制化を目指す運動が今日に至っている。

 

2010年の共同連の宮城大会で社会的事業所を目指すことになって、12年5月には社会的事業所促進法案大綱を提起し、そのときに①全国ホームレス支援ネットワーク ②ワーカーズ・コレクティブネットワークジャパン ③ワーカーズコープ・日本労働者協同組合連合会 ④日本ダルク ⑤JAPANマック(アルコール依存症者)と、私たち共同連の6団体で共同提案して厚労省との交渉に入った。当時の民主党政権では、全く可能性がないわけではなかったが、その後安倍政権になると、安倍さんは協同組合が大嫌いな人なので、いまでは全く見通しが立っていない。私たちの理念は、障害のあるなし、社会的に排除された人かそうでないかに関係なく、対等平等に働いて、収益をみんなで分配する仕方、反能力主義、反競争主義でという考えであって、ともに働き互いに支え合うということだ。それは自らの能力に応じて働いて、賃金でなく、生活の実態、状況に合わせて分配するという考えだ。

 

 

4.労働力商品の廃絶を目指して

http://www.shahyo.com/mokuroku/gendai_shahyo/politics/ISBN978-4-7845-1723-7.php

 

生活の場から社会を変えるというのは、私から言えば労働力の商品化、搾取があれば働けないので、それを乗り越え、止揚すること。いまの会社で労働者を雇うとき、健常者と比較して社会的労働量を実現する一定能力があればそこに雇用されるが、それ以下であれば障害者は福祉の対象となってしまう。それはおかしいのであって、能力のあるなしに拘わらず働くというのが基本理念となる。こうした実践から人間の不平等を考えると、それを三段階に分けて説明することができる。一つは、資本主義経済の生産過程で雇う雇われるという関係では、労働力の商品化が行われ、形式的な対等、民法上や労働法上では対等だけれども、実際には搾取という内実が8時間労働で4時間分だけ払われて、4時間分は剰余労働となって、形式では等価交換でも実質は不等価交換になっている。平等でも実態としては不平等。

 

だから二つめは、不等価交換から実質の等価交換に持っていくことが必要で、それでも搾取のない場合でも健常者の「平均的労働能力」が前提となっている。そのため健常者の「平均的労働能力」以下の障害者は搾取がなくても働くことができないこととなる。3つめは、能力の低い者も対等に働くことができることが必要。能力が100の人と30や50の障害者との間でも、それが人間的不等価交換、形式的不等価交換ではあるが、共同連はそこにこだわっている。能力に応じて働く、生活に合わせて分配するというのは、自分なりの能力で働いても分配金を等しく受け取ることだが、現実の資本主義社会ではそれがあり得ない、不可能なことをやっている。今の世の中では広がらないのも仕方がないかもしれない。

 

 

5.「文化知創造ネットワークの呼びかけ」を読んで

 

――自己紹介ありがとうございました。では、ここから質疑応答に入らせていただきます。共同連の活動から見て、文化知思想とかネットワーク形成という私たちの「呼びかけ文」についての感想をお聞かせください。

 

堀: これは大変に難しい問題だと思う。文化とは何かについて、私は生活文化と文化生活と言う言葉を考えている。文化生活といえば、それは電化製品が揃って、一定の生活水準で物質的な豊かさの享受ということが思い浮かぶ。他方、生活文化というのは、一つの生活様式であって物質的豊かさだけに価値があるわけではなく、生活という人間相互の営みで、消費部面での物質のみに価値があるのではない。そのとき労働というのは、生活文化とは一人ひとりが人間として市民として差別なく関係を持てる生活様式なのだ。その意味で働き方、生活の仕方において、価値観の多様な、寛容性のある関係の一つの象徴が文化だと考えている。

 

――生活文化における運動という面では、共同連も同じでしょうか。

 

堀:民間企業の労働者やサラリーマンでもなく、福祉の権利保障、つまり支援する、支援されるという関係でもなく、横の関係としての共働を考えている、そのような生活の仕方や人間の見方が文化といえる。しかし、現実は難しい、というのは、現実にはそれを許さない社会があるから。

 

 

6.社会的事業所法制化運動について

 

――共働事業所のネットワークとしての共同連の社会的事業所法制化運動が目指しているものは何ですか。

 

堀:社会的事業所の運動では、働き方の問題で地域が大きな問題として関わる。それは、障害者が通える範囲の事業所だから。

 

近代資本主義というのは、生産部面と消費部面の分離が特徴で、かつての土地と生活が切り離せない一体の関係で生きていた時代から、いまの近代資本主義の過程に変わってきている。具体的には、現在の東京では通勤時間の平均が1時間6分と言われているように、これが資本主義批判における大きな問題だ。本来は、職場と生活が一体であるべきなのに、それが分離している。だから、括弧つきの社会主義になっても、距離が離れていたら、それは社会主義とはいえない。生活と生産の場面がその距離も時間も一体化していることが大事。それを取り戻すのが生活文化であって、定年になって企業戦士をやめると、男は粗大ごみになる。

 

女性や子どもは地域で活動することができても、男は高齢者になって地域社会から孤立する。だから、そうならないような働き方を考えなおす必要がある。空間的、時間的に離れた現状では、労働が単なる生活手段であるだけでなく、生活そのものでもなくなっている。だから、かつてのモーレツサラリーマンは働くことが手段化するので、そのためには単身赴任までやって、非人間的なことまでも許容してしまう。

 

こうして、いまや生活文化としては危機的、非人間的な崩壊状態になっている。社会的事業所のもつ価値はそこにあると思う。共同連の活動で地方の自治体との関係では、自治体側の問題としては滋賀県のように社会的事業所制度という例もある。

 

歴史的に振り返ると、70年代のような制度のない時代をいまのように福祉制度が整ってきた時代から見ると、それは無から有への闘いだった。昔は、市役所前で座り込み、それこそ行政とけんか腰で交渉をやって、緊張感を持った運動だった。それは自治体側が制度をめぐって我々を相手にしていない時代だったからで、その後の30~40年の歴史で、徐々に役所、自治体にも認められた運動となった。だから、いまでは提言もして制度化された例もあり、札幌では共働事業所制度があって、それを提言するなかでは喧嘩でなく、緊張関係を持ちながらも理解し合う関係になっている。自治体との関係がこのように変わってきている例としては、国よりも滋賀県の社会事業所制度や札幌市の共働事業所制度のように、地方自治体の単独制度が進んでいて、いまのところ国は認めない。福祉制度は障害者をサービスを施す対象としか見ていないが、我々は当事者を対等と見る制度だから、現行の福祉制度とは相容れないわけです。

 

――共同連の活動と文化知の方法の関係については、共同連ではどのような意味があると考えていますか。

 

堀:実践レベルで言うと、自分たちは少数派の働き方、生き方であるが、だがこれは未来社会の一つの小さなモデルと見ている。いまの過労死や過労自殺を生む社会に対して、人間的な豊かさは、その対極にある。運動は小さくてもそうした理念を創出し、価値の創造という面で過労自殺のあるような働き方、企業文化、競争主義に対抗して、私たちの働き方にまで広げて普遍化していくべきだと考えている。この点で、私たちの共同連の存在価値があると考えている。これが広い意味での文化運動だと考える。

 

 

6.現代科学をめぐって

 

――「文化知」とその対比としての「科学知」との関係性について、どのように考えていますか?また、原発に象徴される現在の科学のあり方については如何でしょうか。

 

堀:科学や技術を誰のために使うのか、応用するのか、人間の意志から離れたものとして自然があって理論がある。そのような科学を応用して、技術的発展するのは否定できないが、それを誰が支配しているのか、所有しているのか。核兵器や原発を必要とする支配者が、それらを科学としている。それらを誰が支配・所有しているかが問題。

 

先ほど、私が二つの文章を示したように、キューバ危機のときのアメリカ合衆国のマクマラン国防長官が回想録の中で「人間は愚かだから核兵器を持ってはいけない。人間は賢くないからそれを使ってしまう」と言っている。進歩発展が無前提、無批判になりがちと思う。この巻頭言にもあるように、リニアモーターカーは要らない。今は新幹線で名古屋まで1時間30分で行ける。さらに、それを進歩させて40分となったならば、一日に2往復することが可能となるが、それは違うと思う。一日一回の往復か、あるいは一泊した生活や働き方で組み立てているのが現在で、何も2往復するような無理を強いられる必要はない。科学知を誰が持つかで、私たちの生活文化が変えられてしまう、こうした時間短縮という思想だけでは、科学は利潤追求の道具になっている。

 

私の見方では、JR東海の9兆円(国費も入るが)投資して儲けようという方針、それは投資したら利潤を得るというやり方であり、時間短縮で社会に貢献というのは、幻想だ。しかし、それがリニアの正当化になっている。

 

1時間を30分に短縮することは、何のためにそうするのか。変化すること、違ったときに、それが人間にとって何の意味をもつのか、便利なのかが問われないといけないと思う。

 

――便利の意味を考えるとき、科学の進歩はもういいと思う。問題は働き方であり、社会の問題ではないでしょうか。働き方や社会の問題に知力を傾けるべきだと思います。

 

堀:宇宙開発に比べると海の中の科学は進んでいない。それは、宇宙が軍事と絡んでいるからだ。

 

太平洋の海底は未知で、その経済価値は分かっていない。それが経済的価値、軍事的価値の観点で、あるいは国の威信で進められるのは、進歩幻想だ。

 

自然現象は人間の意思から分離しており、それを分析して応用するのは何のためか。それは人間が応用したいから科学技術を進歩させる。そのとき、科学者が発見したことが、中立的なものとして理解しがちだ。自然科学上の法則でも人間の意志と関係なく存在する。しかし、人間が科学知を応用した技術にも思想性があって、それを誰のために応用するか、いったん、人間が科学や自然法則を応用した技術を確立すると、そこには思想性が入ってくる。それは、誰のために応用するか、ということだ。科学者が政治と離れて、科学としての客観的な立場というものは、それはありえない。

 

科学や技術を悪く使うのは政治が悪いということがあるが、本来そうなのではなく、科学者の思想性が問われる。国のためという、思想が入ってくる。その例が核兵器の開発だと思う。

科学者も思想性を持つべきだと思う。したがって、科学知と文化知は両者が不可分、一体で、文化知に裏付けられて、誰が支配、所有しているかが判明する。それを中立的にみると危ないと思う。

 

――アメリカのファインマンという物理学者が原爆開発に携わった。彼が書いたエッセイが岩波から出版され、原爆開発は科学者の仕事であるが、それをどう使うかは政治家の仕事で、科学者に関係ない、社会的責任は無いという文を読んだですが、これについてどう思われますか。

 

堀:こういう議論は議論として成立するかもしれない。ただし、アインシュタインや湯川秀樹が原爆に反対したのは注目に値する。何のために開発するのかという目的が問題だ。特に自然現象の理解については、比喩的に言うとドイツにフリッツ・ハーバーという化学者がいて、第1次大戦のドイツで初めて毒ガス兵器を作った。その理由は早く戦争を終わらせて兵士の犠牲を少なくするためだった。しかし、それを使ったのは軍部であり、それをそういう目的で作った。これに対し、イギリスでも毒ガス兵器を開発して、それにより結局800万人の犠牲者が出た。

 

彼は、アンモニア合成の技術開発をして、1918年にノーベル化学賞を受賞しているが、片方では毒ガスを作っている。

 

その後、ナチス・ドイツによってT4作戦で20万人の障害者や難病者が、そして600万人のユダヤ人が毒ガスでジェノサイドされた。皮肉にも彼はユダヤ人だった。その後の経過を見れば科学知と科学者と政治とは無関係ではない。

 

 

7.社会をどのように捉えるべきか

 

――どういったものとして社会をイメージしていますか。社会的諸関係の総体が社会とか、個々人が集まって社会を構成するとか、いろいろな考え方があると思いますが。

 

堀:社会は人間の営みで、そこには労働と生活・消費や、隣近所を含めた人間関係もある。すべての営みの空間と時間が社会。

 

社会はいったん成立すると、それが人間を法則で縛るという関係だ。それは決定論で言っているわけではなくて、人間が作り上げた社会が、逆に、あたかも社会が人間や働く人々を、社会のルールで縛るという関係性が社会。だから、人がどういった社会を望むかということが重要だ。しかし人は、そこでは常識や資本主義のイデオロギーが骨の髄までしみこんでいるので、今あるモラルが永久不変でと考えてしまう。

 

だから、今の社会は生きにくいというときに、それを自分たちの周りから変えて行くしかないと思う。共同連では、実践、新しい生き方を発信しているつもりだ。

 

――最近のリーマンショック後のいまの社会状況では、派遣労働などが問題になっていますが、共同連の発信が響いていくものがあるのではないでしょうか。

 

堀:いま、厄介なことは生活困窮者自立支援法が制定されて、これは単なる就労準備訓練の制度化にすぎなかった。それに対して共同連は、経済的な困窮者について社会的事業所の制度化によって困難な人が安心して生活できる制度を目指してきた。しかし、これは挫折した。

 

それについて官僚と議論した時のことだが、困窮者は自己責任、俗っぽく言えば自業自得、そんな人を支援することには国民的な理解を得られないと、役人らしい答弁で応じられた。

 

酒を飲みすぎてアルコール依存症になったり、ホームレスになったりするのも、どれも自己責任に見えるかもしれない。しかし、そこに追い込まれていく社会関係があるのだから、違う。自業自得というのは個人が100%の責任であるという見解だけど、そうではなくて彼らを追い込んでしまう社会があって、依存症になる。

 

彼らは、働くことや外に出掛ける意欲さえなくしてしまう。官僚は、そこを自己責任といって、そこには税金を注ぎ込むことができない、それがいまの世間の常識だという。かつて、例えばアルコール依存症についての専門家の講演を聞いた時のことだが、残業するサラリーマンが普段は酒も飲まないが、ある日、家に帰って疲れて夕飯で酒を飲みはじめてしまう。それが、だんだんに依存症になる。そこを脱却するという専門家のプログラムの話だったが、彼には患者を脱却するための対処療法が使われるが、救い出すことが目的になっている。しかし、何故、そういうところに追い込まれてしまったのか、それは会社でのストレスから来る、だから原因から見るべき問題であって、専門家が救済を目指すのはよいとしても、それだけではなく社会、会社との関係を問い続ける社会批判の必要がある。そこでは、社会と個人との関係が問題にされていないからだ。

 

――文化知では主体をどう考えるか、個と個の関係で社会がある。しかし、社会的諸関係の総体だというマルクスの考えについて、協同的主体などについて、運動や社会の意味づけ、それらをどう考えていますか。

 

堀:その答になるかどうか分からないが、私は障害者運動を始めた70年代から「地域と共に生きる」として運動を進めてきた。それが、80年代になると、欧米の自立運動が紹介されて、障害者運動も欧米からの導入でした。そのとき、おもしろいと思ったのは、北欧や欧米で、彼らの高い人権意識を学ぶことができたが、ソ連や東欧からは学ぶことができない。そこに何が欠けているかというと、彼らの発想では、われわれのような障害者は労働者でないので学べない。

 

ここで個人主義の話まで進めると、18~9世紀の西洋では、人権が個人とか個人主義が社会主義と対比して捉えられていた。

 

ソ連では、西洋の個人というものを人権や連帯、平等の西欧哲学・社会思想として受け止めないままで、それを経由しないで権力問題にいたる、しかし人権を経由しないままで社会主義になったソ連には、歴史的に後進国から革命が起きたという限界はあるにしても、障害者運動にはソ連への魅力はないし、障害者にとって価値がないとされた。

 

ソ連には盲人工場や聾唖者工場はあったが、企業、国営工場では障害者が働いていない。しかし、日本もヨーロッパも障害者に働く権利があるという現状分析があるので、それを法制度で補完している。建前としては自由、平等、人権を武器にして私たちは闘ってきた。しかし、それはソ連や東欧にない、働く権利や障害者の自立を口にすることさえなかった。

 

共同連は、働く権利の保障ではなく、そこに入れない人を、生活として、労働のあり方を変えて、排除された人が普遍的な生活者として生きられる社会を作ろうとしてきた。

 

70年代の「きょうされん」http://www.kyosaren.or.jp/、そこでは支援員が障害者の仲間を支援している、制度通りの、障害者が働く権利を保障すること。私はそれを否定しないし、権利保障の政策は否定しないが、私たちは、人間関係のあり方を問うているのだ。

 

支援、被支援ではなく、同僚であり、労働者としてなのだ。そこでは、国が委託した職員によって働く権利を保障することだったり、店をもって指導してやったりするのが目的ではない。そこがなかなか理解されない。

 

 

8.社会的平均労働の止揚をめざして~労働の人間的不等価交換・不等労働量交換の実践

 

――『資本論』の抽象的人間労働という「価値」の実体という問題、それは資本主義固有のものだと思うが、学会の支配的な説は超歴史的で、普遍的、それがたまたま商品関係のときのみ価値となる。つまり社会的平均労働は超歴史的なものだというのが、有力な通説となっています。

それに対してマルクスは、農民共同体では構成員それぞれの体力に合わせて労働する。つまり、個々人それぞれの労働能力に応じた労働の配分が存在していたと、マルクスは考えていたのです。だから、社会的平均労働は超歴史的ではないと私は思います。この点についてはどのように考えられますか。

 

堀:ソ連がそうだったように、社会的平均労働力以下のものに働く権利がない。労働過程で彼らは排除されてしまう。

 

等価交換である商品交換では抽象的人間労働が価値量の尺度になるが、それは超歴史的ではない。労働価値説が超歴史的であって、人間的抽象労働は『資本論』における資本主義的生産関係のもとに限定される、歴史的なものだ。商品の使用価値と価値においては、使用価値は職業選択であり、価値は時間労働である。

 

社会的事業所の現場では、健常者の平均的労働能力、社会的平均労働量をアウフヘーベンした労働の人間的不等価交換・不等労働量交換が実践されている。でも、残念ながら現場では、葛藤が障害者の中にもある。社会的事業所でも軽度の障害者が重度の者に対して、「同じ分配金」では面白くない、となる。そんな重度の者を批判する軽度の障害者も、世間の会社で働けば味噌くそに馬鹿にされる、これが実態だ。それを超えるのは並大抵のことでない。それを目指すかどうか。

 

だからそれを政策的に目指す。その際の理念と実践に基づかない場合は、「権利保障」の政策論に留まる。

 

――ベーシックインカムは社会構造をそのままにして、最低限の金をすべての人に対等平等に支給するから、障害者でも対等平等となる。でも、基本的な考え方は補償にすぎませんね。

障害者と支援との関係について、昨日、共同作業所の西八王子の「結の会」の大澤さんにインタビューした。そのとき大澤さんが言っていたのが、ある障害者がアイスクリームが好きで毎日食べる。その結果糖尿病になって入院してしまう。病院で指導を受けても、退院すると戻ってしまう。そこで周りが一日中張り付いて監督するべきだ、という人がいる。一方で、それではストレスが溜まるので好きにやらせるのがよいという人もいる。70歳を越した老人には、自由にさせることがその人のためになる。知的障害者の意思確認が難しい。

支援というとき、自由にやらせるべきか、管理としての支援をするべきなのでしょうか。

 

堀:カップラーメンばかり食べる障害者の例もあるが、そこには両極の考え方がある。自己意思、自己決定を尊重することと、生活習慣を否定するのとは違う。

 

おかしなことをしている他人に忠告するのは正しい。知的障害者だからといって、そうはならないのはおかしい。自分勝手と自己決定とは違う。普通の人間関係から見るべきで、障害者を特別視しては、個としての自立はない。

 

関係性を勘違いしている。関係性が自立なのだ。個にこだわれば、自己責任論になる。つまり、自己決定・意思決定が奪われてきたのは事実だが、だからといってカップラーメンばかり食べることを許してよいかというとそうではない。自分の家族や友達がもしそうだとしたら、ふつう「おまえやめろよ」というはずだ。そう言わないのは誤った、特殊な人間としてその知的障害者を見てしまっていることに他ならない。

 

 

9.実践論としての文化知~カール・ポランニーのマルクス論

 

――私たちは文化創造ネットワーク形成の呼びかけをやっているが、堀さんたちにも進めて頂けるでしょうか。

 

堀:文化、働き方の現状を超えた理念を構築していく、現状に縛られない、資本主義に縛られない実践論を伴う運動だと思う。実践論があることが重要。

 

ウイリアム・モリスで印象的なのは、科学的社会主義では科学に基づくユートピアだが、彼にとっては科学を止揚してユートピアにいたる。

 

私は、最近にカール・ポランニーが「マルクスにおける『ある』と『あるべき』」という小論文を書いているのを読んだ(「市場社会と人間の自由-社会哲学論選」大月書店2012.5.23所収の付録1-pp.56~58)http://www.otsukishoten.co.jp/book/b100763.html

マルクス学の根幹として、要を押さえた小論文だと思う。彼は、経済法則に支配されている限りは自由は無いし駄目で、その経済法則をアウフヘーベンしない限り、あるべき人間、社会を創れない。経済法則を止揚すれば、人間が望む社会を創れる。

 

自由経済の「自由」と人間の「自由」とは同じ自由でも二つは区別されなければならない。経済法則に支配されている限りは、人間の「自由」は実現しない。

 

マルクスは市民社会から人間的社会へと考えていた、とポランニーは書いている。私も、マルクスと同じでブルジョアの下での市民社会を乗り越えたときに、市民社会ではなく、共民社会だと思う。市民を「共民」に、市民社会を「共民社会」にである。それでなければ、共同社会まで行けない。

 

資本主義の客観法則を分析したのが資本論で、そこでは資本主義から社会主義への必然が書かれているとはみない。

 

唯物史観の理屈では、資本主義が人類史最後の社会ではないというのが歴史観だと思う。

必然ではなく、主体的に資本主義を超えてはじめて自由を獲得する、すばらしい社会、未来を作る可能性があると理解している。

 

 

10.協同組合社会を目指して~ボトムアップとしての社会変革が必要だ!

 

――商品・貨幣の廃絶をどうやって進めるべきでしょうか。なかなか難しい問題ですが、それを実現するのが協同組合社会で、そこを目指していくしかないと思うが、どうでしょうか。

 

A.来年の通常国会では、労働者協同組合法、雇用関係を認めた協同組合法を目指している。それはヨーロッパとは違う、日本型になる。

 

私の理解では労働者協同組合には使用者がいて、労働者性が問題になる。そうでないと法の適用を受けられない。

 

いまの日本政府は、農家や自営業者以外には雇用労働としており、その根幹の雇用関係を外す法制化は難しい。雇用がないと適用できない。以前に、みなし規定をやれば、と思った。雇用関係ではない協同組合的労働法制では、国民健保法、年金法、最賃法などをみなし規定としてそれらの法令を改正しなければならない。協同組合に働く人に適用するためには、周辺の法律を改正しなければならない。協同組合法だけでは法的実効力がない。最賃法であれば、雇用の例外として適用する、例外を作る。

 

最低賃金法については、それは仲間同士で決めるので労働者性の適用すべきでないという声もあるが、現状ではそうではない。共同連の社会的事業所では、働き方は協同組合方式で働く。だけど法的には雇用で、労働法を適用する。運営原則は民主主義的に決める。分配も名目的な使用者と対等で決める。運営方法を決めておけば、原則、全員参加で決定できる。

 

――韓国との共同作業、ソウル宣言もそうだが、社会的企業育成法も成立している。日本と韓国の違い、あるいは韓国が成功した秘訣は何でしょうか。https://www.seoulsengen.jp/seoul-declaration

 

堀:韓国は後進性であるので、先進国のモデルを取り入れるのが早い。実態がどうなっているかはわからないが、彼らは法制度を整備するとき、欧州や日本のものを取り入れる。だから日韓で比較するとき、戦後の日本はずっと保守政権だった。ときどき変わるが、それと官僚政治。

 

韓国では、保守系と民主系とが入れ替わって、官僚も入れ替わっている。だから両者の応援団が安心している。日本は年中変わらない。しかし、野党だが韓国は入れ替わるという意味ではアメリカ型で、大統領制を採用する。官僚も変わる。韓国と日本との違いはここだ。利益団体も業界団体も、官僚や自民党についていけば予算が取れる。だから、官僚制が相当根深い。

 

アメリカでも共和党と民主党で入れ替わって、双方の応援団が政策を実現するチャンスがある。

それに対して、日本は変わらない、私たちは野党のまま。

 

障害者団体が多くは自民党に近づかないと、予算がもらえない、意見が通らない、それは官僚が認めないからだ。

 

日本の政治と官僚の関係では、悲劇なのは野党に付いた応援団。民主党が10年続いていたら、私たちの社会的事業所の要求も通ったかもしれない。

 

かつて社会党、新進党など7党が93年の政権交代で変わった時があった。それまで自民党本部に入り浸っていた業界団体など多くがこちらにきたし、経団連すら中立だった。唯一不動産業界だけが自民党本部に出入りしていた。非自民党政権が成立したとき、不満を持っていた官僚が寄ってきた。しかし、政権がつぶされた。そこで官僚は学習した、二度と野党に近づかないと。民主党政権が官僚批判を行ったのもあるが、官僚も民主党政権を様子見していた。

 

それが民主党政権に寄って来なかった理由だ。民主党政権は事務次官会議を廃止するなど官僚を排除した。彼らはそれをじっと見ていた。中立にいてサボタージュして、民主党政権を潰した。それは93年当時のことを学んだ結果だった。

 

政権が自民で官僚制度が強い、それが日本の悲劇だ。一番情報を持っているのが官僚で、彼らには政策立案権もあり、決定権を持っている。日本の唯一のシンクタンク。

 

政治家は選挙で選ばれるが、試験で官僚になるので、居ようと思えば終身官僚だ。行政は、中立と公正が建前であって、そのために現状追認にはなるが、80度、90度、100度の政策転換はできない。

 

これに対して、韓国は一期5年の大統領は、辞めるまで利権にこだわる。家族、友人が利権で団結し、アメリカより大統領の権限が強い。

 

そこをトランプが勘違いしており、アメリカでは議会の力も強い。そこではオバマも苦労したのだ。民主党と共和党で政権を交代しても、議会が強い力を持つ。

 

上から作るのではなく、政治革命ではなくてボトムアップで社会変革することが必要で、時間はかかるかもしれないが、今はそうするしかない。社会の内部からの変革を進めれば、それがある程度充実してくると、権力や政治に手をつけられる。いまはまだそこまで社会は変革されていない。

 

いま、上からやろうとすると、ソ連のシベリア送りのようになる。上からの指令でやれば、社会主義に従わないのは排除される。市民社会の充実のないまま、国家権力を手にすると、問題は大きい。だから、市民社会をどうやって変えるかと同時に、自分も変わることを考えないとならない。

 

いまは資本主義的な常識、染み付いているものを変えること、自分が変わることは自己否定でもあり、どうやって資本主義的でない自分に変わるか、それが社会を変えることになる。

 

支持する政権がやってくれると考えてしまったら変わらない。それでは駄目だ。主体的な運動で、新しい人間観を創りあげていく、そうした人間関係を作ることが大事。それには時間も、手間暇もかかるので、資本主義の歴史と同じで100年200年かかるかもしれない。あきらめているわけではないが現実はそうだろう。左翼の力が小さいし、国民の7割が保守系であるから。彼らがあっちが良いと言ってもらえるように、明るくそれを示すことが大事で、楽しく喜びあう関係性を創るように、ネットワークを発信して、それを目指す。

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