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文化知をめぐって―柏井宏之氏(NPO法人共生型経済推進フォーラム理事、共同連東京)への聞き取り報告

 

取材日、場所:2018年1月4日、大阪中の島公会堂にて

聞き手:境毅

 柏井宏之さんのプロフィール

●肩書  NPO法人共生型経済推進フォーラム理事 参加型システム研究所客員研究員

NPO法人共同連運営委員 NPO法人わくわくかん(就労支援移行事業)

●略歴

1940年 韓国京畿道水原郡郷南面白土里に生まれる。

1960年 安保・三池闘争に参加 青年運動に関わる

1964年 小説『黄金の眼』で受賞(選者・野間宏)、「抵抗権」で法学部学部長賞

1965年 灘神戸生協(コープこうべ)に入協、労働運動による生協民主化へ

1966年 「社会タイムス」編集長

1980年 「光州連帯」のはじけ鳳仙花運動、辛基秀さんの「朝鮮通信使」事務局

1982年 「ちょっと待て!大阪築城まつりにモノ申す会」代表 「ざ・ぴーぷる」創刊

1983年 京都「耳塚民衆法要」事務局 生活クラブ生協・東京へ転職

1990年 韓国信用協同組合京畿道連合会との覚書に基づく研修生の受け入れ(東京担当)

       生活クラブ千葉の訪韓団でソウルへ

1995年 「日韓〈敗戦・光復〉50年歴史ツアー」

住民生協と生活クラブ・東京との姉妹提携にかかわる

2000年 西暦2000年の協同組合(レイドロー報告)の国際協同組合交流

2001年 スペイン・フランス・イタリア協同組合の旅(市民セクター政策機構)

2003年 共同連のイタリア社会協同組合視察に同行

2004年 ジャンテ招請社会的経済・社会的企業集会を東京・大阪・水俣で開催

2009年 「新しい労働」をめぐるドウレ生協連合会(7月)、ハンサリム生協の議論に参加

     第1回社会的企業セミナー(ソウル)に参加、以後第7回まで連続参加

2009年 バルン生協と生活クラブ・神奈川との姉妹提携にかかわる

2016年 京畿道協同組合協議会の招きで水原・城南・議政府での講演

2017年 名古屋で「社会的事業所研究集会」で韓国原州と日本西成釜ヶ崎を比較討論

●主な著書&共著

『〈協同組合〉を主語に語ろう!協同組合・NGO国際シンポジウム&協同組合の旅スペイン/フランス/イタリア』(市民セクター政策機構)2002、『社会的経済促進に向けて-もう一つの構造改革〈市民・協同セクター〉の形成へ』(同時代社)2003、『勃興する社会的企業と社会的経済-T・ジャンテ氏招聘市民国際フォ-ラム』(同時代社)2006、『社会的に不利な立場の人々とB型社会協同組合』(佐藤紘毅編・市民セクター政策機構)2004、『アソシエーションが主役の社会に-21世紀の市民社会を展望する』(市民セクター政策機構)2004、『排除にあう人々の就労を創る-社会的企業・社会的経済の挑戦』(進歩と改革研究会)2013、『市民事業と社会的包摂を追求するアソシエーション』(季刊・唯物論研究)2005、『生協民主化のはばたき-コープこうべ民主化闘争の記録』(山崎敏輝・同時代社)1996、『白村江の戦いと大東亜戦争-比較・敗戦後論』(室伏志畔・同時代社)2001など。 

 

1.「文化知創造ネットワークの呼びかけ」を読んで

 

――この度文化知普及協会という団体をつくりました。別途文化知創造ネットワークの方は趣旨に賛同してくださる皆さん方で勝手にやっていただくということで、それらがつながる活動を促進することをめざして立ち上げました。ホームページを開いてそこに皆さんのご意見をだしてみたいということで、聞き取りを始めました。そこで柏井さんにも聞き取りをしたいということで、よろしくお願いします。

 

柏井:文化というもののネーミングを一番前に押し出されたアソシエーションを作ると聞いて、僕としては大変関心を持ちました。しかし、私自身は、学生運動の時代から文化の独自性についていろいろな形で触れてきたものとしては、今回の提起は哲学的な概念のところでの論理展開にとどまっていて、文化のもつ独自性についての知というのは何かということは、よくわからなかった。

 

おもしろいなと思ったのは、主体―客体図式は役立たなくて、媒体としてのネットワークについては重要との指摘です。結局主体と客体というのが切り離されて、両方を相互浸透させるところに媒体が存在して主体が形成されていくわけで、その時の媒体の構造や内容がどうであるかということが大事だということに力点を置く考え方には、共感しました。

 

ただ僕としては60年代の学生運動の最初の時から、政治活動と文化活動を僕の中で分けながら運動を進めてきたという関係からいうと、現代の状況と合わせて考えたときに、文化そのもののもつ独自性、構造性、世界性、普遍性というものの価値をもう一度再認識する文化知というタイトルをつけてアソシエーションを出発させるならば、その点をもっと論及する役割がいるのかな、その一端を僕も担わなければならないと思ったりしているところです。

 

――文化知という話になったのは、随分前のことで、90年代の最後の頃です。だからその後にいろいろわかったことについては、あまり入れ込めていません。たとえばランシエールのいう「感性的なものの分有」という点などはいれていないです。文化ということの定義自体があまりできていないというのはあります。科学知を批判しなければいけなくて、それに代わるものとしてどういう名称がいいのかという発想から、とりあえず文化知と命名しただけというのが実態です。そういう意味で柏井さんのおっしゃることはもっともで、今後そういう点をちゃんとやっていかなければならないという風に思っています。

 

柏井:そういうことでいうと、僕がやっていた文化運動の独自性の時代を紹介したほうがいいのかなと思います。

 

――ぜひお願いします。

 

2.50~60年代における労働者の文化活動をめぐって

 

柏井:きょう持ってきたんですが、阪大に来ておられる徐 潤雅(ソ・ユナ)さんという女性が、「韓国民主化連帯運動と文化活動 : 関西における〈光州連帯〉版画巡回展を中心に」というレポートを最近『同時代史研究』第十号に寄稿されています。全斗煥 (チョン・ドファン)による軍事クーデターに対する闘いとしての韓国民主化運動の一つの頂点として,1980年5月に光州蜂起がおこるのですが、この時に起こった運動が一国的なレベルを超えてアジア民衆間の運動になっている、彼女は民際的運動と表現してますが、そういう運動がおこった。この関西に起こった文化運動の特色として、政治党派ではなく文化活動家自身が軸になってネットワークで展開した多様な運動の形態を特集しています。そのなかで「はじけ鳳仙花運動」の重要な役割を担っていた、勤労者サークル協議会(勤サ協)の自主上映部門を担当していた宮林彦吉―3年前に亡くなった―のことを調べていて、彼は富山出身で私たちの青年運動(社青同)の一員で、関学で一緒でした。大変な映画好きで三里塚の映画を始め数百回の自主上映を西宮でやった男で、映画運動を通じてアジアの民衆運動をつなごうとした運動家でもありました。http://brskn.web.fc2.com/newpage11.html

 

私自身もシャープや国労、全港湾、全国一般の労働運動と深く関わっていましたが、都会にやってくる未組織労働者の若者たちに場を創る文化運動に入りました。つまり労働運動とは別個に総合サークル運動、あるいは労働者≒勤労者文化運動の必要性を感じていました。組織労働者と違って彼/彼女らの労働条件は劣悪で、中小または個人商店に働き、友達も遊びもない中にいました。そういう人たちには仕事が終わって食事をしたりダベる場が必要でした。また組織労働者でも民間の場合、ブルーカラーの現業労働者が圧倒的でした。その中に働く者の演劇集団・音楽集団・絵画集団・詩作集団・写真家集団・批評集団を独自につなぎネットワークを創っていきました。私は最初『関学文芸』で小説・評論から始めたので文化上のペンネーム神村隆志で活動しました。歌や詩、演劇を釜ヶ崎の三角公園で、また全金田中機械争議支援で工場占拠の敷地内広場で大阪勤サ協祭という秋祭りをずっと行っていたり、さらに金芝河や金大中救援運動をおこなう文化表現―出前コンサートなど―の活動に取り組んできた。それは個人表現を大事にしながら無名性・即興性・非商業性・集団性を特色としていました。

https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/bitstream/10291/17661/1/shogakuronso_97_1_1.pdf

 

同時にそのころにはフォークソングを初めとして、自分で創作し歌い、演じる自己表現を無名の集団表現として当たり前に行われてきた。フォークソングだけでなく、職場や地域の中でたくさんされていた。こういうものが60年代安保世代が残した地域の民衆的・大衆的文化運動だったと思います。その後そういうのがほとんど消えていく中で、職場にはQCサークルという形で日経連がおカネをつぎ込んで、上級・中級・下級のレクレーションリーダー養成講座というのを始めていく。これによって資本の意志を体現した、自主的な創造性を当事者から引き出していく運動が、職場生産点や仲間づくりの起点に広がり、地域では「若い根っこの会」という名前でひろがっていく。それは1960年の三池の地底につくりだされた反合理化のアソシエーション・五人組を資本がオセロゲームのようにひっくり返す草の根運動でした。世界に環たるカイゼンの提案運動の登場です。戦後の労働運動がつくりあげ、『学習の友』『まなぶ』や『若い仲間』『すくらむ』というような労働者学習誌が大衆的に職場の中にひろげた60~70年代の労働運動をひっくり返していくような状況が生まれたわけですね。このあたりの運動がなぜ消えていったのかという事柄についての論及が左翼にはあまりない。全学連が「層としての学生運動」の先駆性論にこだわり、全共闘の運動もこうした職場生産点で起こった資本の思想支配について関心すら払わなかった時代をきちんと反省できていません。

http://www.puni.net/~aniki/archive/nekko/nekko1.html

 

じつは亡くなった道場親信さんが数年前にこの点について書いていて、50年代に「へたくそ文化運動」とヤユされた共産党系地域文化集団の記録を発掘されています。沖縄を軸として展開されていく日米軍事同盟、朝鮮戦争からベトナム戦争につながっていく50年~60年代のアメリカに従属しつつ復活する日本帝国主義のアジア的展開に対する闘いがあった。そういう支配はイカンと素朴に思っている大衆の感性を表現したものとして、この運動を道場さんが捉えて、ここ2,3年精力的に発表されていた。著作は亡くなってから発行されるという悲しい事態になったのですが。ソ・ユナさんも彼の協力者の一人として執筆参加されています。

https://www.msz.co.jp/book/detail/08559.html

 

50年代と60年代の違いは、50年代の共産党系文化運動集団が役割を果たしたというのは確かでした。60年代以降は、無党派あるいはもっと第三世界の民衆そのものとして連帯していく文化的社会運動という性格が非常に強くて、その点を今回ソ・ユナさんが短い文章ですが、書かれたことについては、私は大きなことだと思います。この「はじけ!鳳仙花」運動は、政治運動とはちょっと違った形で、あるいはアムネスティの活動家やもっと底を拡げた運動として書かれています。そういう意味で文化運動はある特定の範囲でのみ影響するというよりも、枠を超えて大きく飛び火するように運動が広がっていく点に注目されています。文化知普及協会というのがスタートするのであれば、もっと地域の主体に引き寄せて、文化運動というのはどうだったのかを考えたいし、僕は今それを障がい者運動の中から、健常者と排除にあう人たち、グラムシのいうサバルタン問題としてとらえたいと思っています。

 

生協運動では、1970年以降は、歌声運動とか演劇的表現とか詩の朗読とかが集まりの中でまったくなくなって、会議一辺倒の運営の共同体となっていきます。私たちの思考が身体的表現を失って固まっていったのではないかと思うので、文化というところからの見直しについて、私としては注目している。未だ発掘されていない分野については私も協力してつくっていきたいと思っています。

 

3.谷川雁との出会い、交流~サークル村と十代の会

 

――今のお話をお伺いしていてふっと思ったのが、僕は50年代といったら、谷川雁のサークル村なんですよ。60年ブントは谷川雁と吉本隆明に影響を受けていて、谷川雁の『原点が存在する』はよく読まれました。あとは埴谷雄高ですね。この3人は指導者から勧められる必読書に、マルクスやレーニン、トロツキー、対馬忠行、黒田寛一などと一緒に入っていました。で、サークル村が何で潰れたか――細々と残っているのかもしれませんが――ということを一時期考えたことがありまして、結局安保闘争が大きな政治運動になったのでその過程で潰れんたんじゃないかと。結構サークル村というのは、政治的な集団だったと思うんですよ。文化的なことをやっているけど政治的なことを意図していたから。だから政治運動が大衆化したときに、こんなことをやっててもしょうがない、とみんな思ったのではないかと。http://www.fujishuppan.co.jp/kindaishi/sa-kurumura.htm

 

それから谷川雁が東京に出てきてテックという会社を作ったときに、「十代の会」という団体をつくっています。あれなんかも外から見えないけどいろいろなことをやっているんですよね。で、たまたま僕が昔「京都ガイア研究所」に関わっていた時に、半分ボランティアで来ていた女性がそこに入っていて、楽しそうに谷川雁の話をしてくれたので、そうなんだと思ったんです。今でも「十代の会」は続いているんじゃないか。あとは鶴見俊輔たちの『思想の科学』を思い出しました。それにつながるベ平連などもお話を聞きながら思い出しました。http://monobun.org/~monobun/top/index.html

 

柏井:僕は谷川雁や森崎和江とは60年代始めに出あっています。大阪市大の加藤勝美さんらが谷川雁を何回か呼んだことがあり、そこで会っています。私自身は三池闘争を批判した谷川雁のサークル村だといういい方にはあまり賛成ではありません。三池闘争が創りだした大独占の底辺で、800を超す5人組という抵抗組織、原基的なアソシエーションを炭掘る仲間の地下のなかで形成した意義は大きい。それは上からどんなふうに言われようと自分たちの意志で山猫ストを続け、持久抵抗する、地下の労働の現場でそれがつくられたことを忘れてはいけない。その三池と、もうひとつは大手がくずされていくなかで、中小炭鉱はもっと悲惨な状態になっていく。そんな中で、三池にはあんなに支援が来るのに、なぜこっちに来ないのか、といういい方があるんですが、それはちょっとちがうんじゃないかと思う。

サークル村がつくり出した文化的質は、三池がつくり出した組織的質と違った大きなものをもっていた。それは特に階級を超えて、女性とか排除にあうものとか差別されるものとの共同・共感を結び合わせていくような、文化的な感性を谷川雁のサークル村運動の共同性はもっていたし、サークル村の個々の表現や文章の凄さに影響された若者や女性は非常に多かったと思います。

 

サークル村それ自身は自滅していくんですが、谷川は「東京へ行くな、東京は壊れやすいガラスだから」と彼の詩にあったマニュヘストを飛び越えて東京に出ますね。テックと十代の会、物語文化の会を組織していって、その3つの結びつきのなかで,童話を通じて、特に宮沢賢治の作品の表現運動を子供たち十代の会に、それを支える集団として母親たちの物語文化の会をおいて、テックはその事業体として急速な拡大を遂げていく。テック自身の中に谷川を糾弾する平岡清明のような反逆者が出て、雁の進め方を批判するものが出て自滅過程をたどる。その原因は事業を会社経営のワンマンで共同体的なものを捨てたことにあると思っています。その過程のなかで僕は1983年、京都で谷川雁に呼び出されて、「お前、関西の物語文化の会、十代の会の事務局をやってくれ」と頼まれるんですよ。その時に、谷川雁はかつてのサークル村とは違って、60年代のもつ暗さを払拭、未来に向けて、子どもたちの未来を描く形で次の世代と結ばれたいと考えていたと思うんですね。その時僕は「社会タイムス」「ざ・ぴーぷる」に行き詰って大変で、食えなくなっていて「残念ながらできません」と断りました。協同組合の生活クラブから誘いがあって、協同組合にもどることを決めての東京からの帰りの京都での話ですよ。

その時の谷川雁はサークル村の末期を越えて、つまりそれを切断、物語文化の会や十代の会といった新しい事業体に飛び込んでいったと思っています。その点からすると室伏志畔や谷川健一などによる批判は当たっていないと思う。谷川雁を一番理解していたのは、貧しい生活者の立場からみていた石牟礼道子さんの「お坊ちゃまとしての谷川兄弟」の雁だと思います。

私は谷川雁の『原点が存在する』を大変大事にして生きてきた一人で、勤サ協の第二期の世代、とりわけ堀本和彦・宮下ひとみさんらはその影響を大きく受けていた。つまり感性は時空を超えて伝播することを感じました。

 

――サークル村にはグリーンコープの武田柱二郎も関係していたのではないですか。

 

柏井:そうでしょうね。武田さんの書かれた文章については境さんから教えてもらいましたが、グリーンコープには、サークル村を協同組合に繋げた歴史的事実の追跡が必要ではと思う。また、石牟礼道子さんや森崎和江さんという女性の感性があの時代に発掘した目線というのは、階級史観に囚われてそれ以外の目線がもてなくなっていく革命原理主義者とは違って大地や海に暮らすひとびとの低い目線から高度成長の犠牲になっていく水俣病患者のふさがれた唇の口述者という形で、稀有にも現代の巫女の役割を演じられる。僕は石牟礼さんが公害を生みだす東京に「うたせ船」を不知火海からゆっくり曳いてきて、月のさえわたった夜に東京湾で船を焼かれるのを見たことがありますが、震えるほどの感銘を受けました。石牟礼さんや森崎さんの力を借りて谷川雁的世界が違った表現で追及された意味は日本とアジアの地域社会の「生・生活的世界」のこれからを考える上で意味は大きいと思います。

 

――大正行動隊なんですけど、「やりたいものがやる」とか、少し前に上野千鶴子がまとめていますね。僕は学生時代に文化活動家に手伝えと言われて同人誌『学園評論』に関係していました。そこに谷川雁が論文を投稿して、今言ったようなことを書いていました。

京大出版会の八木俊樹が谷川のファンで、谷川著作集を編集したが出版を断られたと聞きました。それで彼は編集したものを私家版で友人たちに配っています。断られた理由は多分大正行動隊の顛末記が入っていたからで、活動家が仲間の女性を強姦したんですよね。でそんなことを知ったうえで読んでいるからかもしれないが、大正行動隊の文章自体がマッチョなんですね。それではしょうがないな、と感じました。

 

柏井:大正行動隊の末期は、いくら谷川雁の立場にたってどれほど擁護しようが、当事者たちの悲劇性は消えない。雁はそこを超える意味で東京や黒姫山の「異空間」に脱出したと思う。サークル村と十代の会とは視点を組み替えて、人々のエネルギーの引き出し方を再構成したものだと思う。特に宮沢賢治にほれこんで、小学生には日本語で、中学生には英語で身体的集団的に表現させ、それを発表させ競わせるという文化コンクールをいろいろやった。それは左翼的イデオロギー的主体ではなく、そのような意識が芽生える前の若い十代の感性を研ぎすますという革命することで、世の中を切り拓こうとした。僕は吉本隆明よりも谷川雁の方が、具体的なものを実践して面白かった。実践的なものが消えた後の言語論的展開はどんなに鮮やかであってもどこか空虚です。吉本の「豊かな社会」賛美や原発推進は噴飯ものです。感性的実践論として谷川雁が残したものは次代に引き継がれる想念として大事だと思う。

 

――僕は吉本は全然評価していません。「十代の会」というのは、共産党系がやっている「親子劇場」とおなじようなものですね。「親子劇場」はあまり党派の影響を受けていなくて、現在もやっていると思います。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8A%E3%82%84%E3%81%93%E5%8A%87%E5%A0%B4

 

柏井:必ずしも十代の会と親子劇場が同じとは思えませんが。十代の会はサークル村がもっていた土俗的な下層民衆の声と違って、高学歴社会の到来の中で、社会的出口をもたない親の女たちの感性を宮沢賢治や黒姫山のニコルのもつ天空と自然の反都市的文化感情を演劇的な身体表現で感得しよう、それもそのテキストを頭で覚えるのではなく身体の五感を研ぎ澄まして集団創造することで発表しようとするものでした。物語文化の会はこの子供たちの感性を開花させるためにそれを支え支援する黒子の役割でしたが、親たちはそのために歴史とエコロジーの勉強や学習に取り組みました。これは生活クラブが1960年代に社会的出口をもたない女たちに地域社会に地区委員とか消費委員とかの『役割』を創りだして、資本の市場社会に対抗するもう一つの主体を創ろうとして東京のど真ん中から発祥したのと似た構造をもっています。

親子劇場は詳しくは知りませんが、50年代の反米・反基地闘争を「ぐるみ闘争」でたたかった親と子たちの目線の低い位置からの怒りと悲しみの感性を継承した流れと感じています。

 

道場さんが「へたくそ」でも事実の記録として50年代という時代の状況を見続けた人々を掘り起こして、帝国主義文明との戦いというアジア的視点で一国的枠を超えて抵抗している人びとを浮かび上がらせた。戦後民主主義の一国枠を超えた掘り起こしです。その流れをソ・ユナさんが80年代の光州連帯やフィリピンやタイの学生運動など、一連の文化的視点からの民衆的自己表現が、商業主義の手を借りずに、自分たちで会場を借りたり、街頭に出たりなどして行っていたことを評価している。日本では今、そのようなものがほとんど消えている中では、大事なことだと思います。

 

4.文化と政治の関係をめぐって

 

――僕の経験をちょっというと、70年で農薬の問題とか出てきて、有機農業が脚光を浴びます。オーガニックレストランが出てきたりした。武装闘争をやろうとしたができずに、そのストレスでみんな身体を壊して、地下活動だったから医者にも行けず、断食で直しました。そんな経験があるので、自分ではやらなかったけど、脱サラして農業やろうという人を応援したいという気持ちがありました。90年代に入ってそういう人が続々出てきています。

で結局、文化というのは別の生活をしている人間が身体から発信しているものだという理解になりました。それがひらめいたのは、京都で福祉生協をやろうという動きがあって、神奈川のワーカーズ・コレクティブの人を呼んで講演してもらった時でした。それを見て立ち居振る舞いが文化だと思ったのです。パフォーマンス自体が文化の発信になれると思った。田舎暮らしをしている人の存在そのものが文化発信だと思います。文化運動というのはベクトルの合力ではなく、みんな方向がバラバラでも存在の重み自体が力になるのではないかと考えています。

そういう点から見ると柏井さんが体験した文化運動は結構政治と結びついていると思う。僕が提案する文化知普及協会の文化は、脱政治の文化自体の政治性の発見と、その顕在化をしていくというイメージでやっていきたいと思っています。

 

柏井:あの時代において、政治に結びついているのは結果であって、社会的な文化運動だったとおもっています。都市における文化運動を考えると、正規と非正規という働き方に別れていて、労働条件もまったく違う。正規は労働組合に組織されるが、非正規はほとんど組織されない。私は非正規労働者に自分をさらけ出せる場を勤サ協という形で提供した。あくまで個人の自発的表見が中心の個別の文化集団で、勤サ協はネットワークです。あべの緑の会の最盛期は120人ぐらいいたんだけど、彼らは四国や九州から出てきた人たちで、食事会が基本にいろんな集まりをつくった。ハイキング、話し合いや詩を書いたりなどしていた。在日の女性もいたし西成の日雇い労働者もいた。あの釜ヶ崎暴動の後にひよこというペンネームの売血して生きる女性の表現者を見出したりした。そうした未組織と組織労働者とをつないで「友情と連帯・夏祭り」をやったりしていた。十分に脱政治で、党派からはサークル主義、日和見主義としてたたかれた。

 

僕たちが60年代~80年代で重視したのは、在日の人達とどのように連帯するかということで、辛基秀(シン・ギス)さんという在日の映像作家がおられて、そのもとでいろいろな企画をやった。ひとつは「朝鮮通信使の旅」ということで、対馬から始まって、山口・岡山・大坂・京都・滋賀・岐阜をこえて江戸に至る。それがどこに寄ってどういうものを残してきているか、という旅を何回も行って記録した。今の嫌韓感情と真逆の好韓感情が地方に残されていましたね。

http://www.akashi.co.jp/book/b64321.html

 

もうひとつは私がやった「チョッと待て!大阪築城400年祭りにもの申す会」です。いろいろな大きな動きがあって、読売新聞が大阪駅前に鎧兜の秀吉の8mに及ぶ銅像を建てると報道した。アジア侵略の象徴の男の銅像を建ててどうするんだとその建設反対運動から始まった。御堂筋から祭りのパレードが始まるというので、御堂筋には東西に本願寺がありますが石山寺を焼いた信長・秀吉をたたえる祭りをここからパレートするのはどうかと申し入れした。その結果、西本願寺も東本願寺も反対に回り、「築城400年祭り」という大きなテーマは消えて、城を新空港に代えた「21世紀計画」に変わった。ただ400年祭りのオープニングは止められないから、それに対抗秀吉イベントとして「耳塚民衆供養」というのを辛基秀(シン・ギス)さんと計画、京都仏教会のあった知恩院に行って二人で申し入れた。秀吉は樽に塩漬けされた朝鮮人五万人を弔って耳塚をたてたというが、当時の文書に「恩徳高き御方秀吉公」とい秀吉の「慈仁」をたたえているのではないか。仏教会はどっちの立場をとってお祭りをしているのかときいた。

すると知恩院の執事であった鵜飼さんは調査を約束、間をおいて私たちを呼び出して「ご指摘のとおり秀吉のためです。」と回答した。立派で誠実な回答だった。それならば京都仏教会として、400年ぶりに耳鼻削がれた人々のために自己批判をだしてくれ、と迫った。鵜飼執事は「供養」を「法要」に代えて頂ければ受けられると回答された。それで岡部伊都子さんの自宅を訪ねて民衆法要行委員長を要請した。当日は500人余の人たちが耳塚を取り囲み、韓国だけでなく北朝鮮や中国の僧侶、日本の僧侶も含めて、京都仏教会をあげて法要が行われた。関西の南北の在日の若者が「カンガンスルレ」や「ケジネチンチンナーレ」などの義兵闘争で歌われた吶喊がとどろいたのも忘れがたい記憶です。

http://www.hanmoto.com/bd/isbn/9784807483105

 

もうひとつは、超博さんらがその前に「生野民族文化祭」を南北の垣根を越えて青年男女で83年夏に開催された。光州事件や不当な政治犯事件を乗り越えて南北朝鮮の統一などの問題を含めて生野猪飼野から運動を起こされたことも非常に大きなことだったと思っている。

 

5.京都における学生運動と文化運動

 

柏井:境さんは京都の人なので、当時の学生運動と文化運動にふれておきたい。

1963年、京都大学の文化祭は「仮眠の季節に送る僕たちの挨拶」をテーマとした。僕はその表現に触発されました。安保後状況の中で、「高度成長」に向かう離陸期に、他方で社会主義がボストークの成功と平和共存をうたうとき「仮眠の季節」ととらえる絶妙なノンポリ感覚に蹴られて「黄金の眼」を大学の懸賞小説に応募、選者・野間宏によって受賞しました。この小説は樺美智子が殺された6.15の日、国会構内で投石によって失明する青年を描いた作品でした。僕の好きな批評家・磯田光一はのちに「邪悪なる精神」の中で次のように評しています。

「六〇年安保から三、四年たったころのことであろうか。関西のある大学新聞の入選小説に、次のような作品があったという話を友人から聞いたことがある。その小説の主人公は、一九六〇年六月十五日に国会前で片目を失明し、残された片目で細々と生きてゆく。その失明した方の片目の網膜は、その夜の国会前の情景が焼きついたまま永久にはなれない。

そして失明を免れた片目は、その後の日常生活の転変を、彼自身と共に見続けているという物語である。つまり彼の心に深い刻印を残した体験は、失明した片目のうちだけにあり、にもかかわらず彼が日常生活の強制から免れえないかぎり、もう一つの眼はいやでも日常を離れることが出来ないのである。この二つの眼に映じる風景のギャップこそ、人間の生涯にとって避けることのできないところの、“極限”と“日常”との、あるいは“精神”と“肉体”とのギャップではないであろうか。」と。

このように「黄金の眼」は京大の「仮眠の季節」に触発されて、今一人の実存する<僕>として書き上げたものなのです。大学の掲示板に張り出された「仮眠の季節」風な声明にはそれに対抗して「ボストーク」を社会主義優位の時代が来たとして批判する「平和共存」をたたえる声明を見やる<僕>がいますが、それが東京オリンピック前夜の風景でした。

この小説は、新日本文学会事務局長だった武井昭夫が編んでくれた『労働者階級の文化運動』(神村隆志著・土曜美術社)に載っていますが、実は後半の書き足した筆の滑りが悪かった部分をカットしています。しかしそこには<僕>のアパートをノックする十代の少女が訪れ、新宗教の釈伏する場面を置いています。

つまり次の時代は、樺美智子のような左翼ではなく創価学会・オウム真理教・幸福の科学などの若者を主体とした新宗教が広がることを予感させることを僕は無意識に描いたわけです。カルトだけでなくおっかけやゲームなど、若者の関心事は社会から私事の心の癒しの問題に移っていきますがそれらは大変個人的で閉鎖的です。共生は社会に向かわず同質者間のものだけです。

それは21世紀前夜に起こったヨーロッパの社会的に排除される孤独で打ちのめされた個人の一人ひとりを包摂する運動のような「社会性」を持ったものとしては広がらなかった。このことが日本の保守化と停滞につながります。社会的協同組合―境さんとは9.11直後にイタリアに一緒に行って社会協同組合B型をじっくり見てきましたが、そこでのカソリック社会派は政治の停滞と腐敗に対し、心の癒しに向かうのではなく地域社会を「分権自治・共生共同・参加型」で組み替え、縦型でなく異質なものがネットワークし、コンソーシアムをつくりだして地域社会の市民自治の根幹に据えていく流れを社会実践していました。社会的連帯経済の流れです。日本の場合、左翼の社会団体も右翼の社会団体も新宗教も同質の金太郎飴で、市民自治には弱く基本的に官僚体質です。それを突き破るにはやわらかで鋭い文化的感性を必要としています。

 

私は今、障がい者運動の中にいますが、精神病のレッテルを張られた彼/彼女らのすぐれた感性の表現に触れて思うことがいろいろありますが、次の機会に譲ろうと思います。

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