一般社団法人 文化知普及協会
The association for diffusing cultural wisdom,a general corporation aggregate
非物質的財の生産は社会主義への水路ー平松民平さん(T&C社)への聞き取り報告
取材日、場所:2018年1月23日、T&C社
聞き手:田中一弘、大賀英二
平松民平さんのプロフィール
1946年生まれ、中学時代はSF,真空管ラジオ作りに熱中する。父親の影響で『貧乏物語』などを読む。
1964年 日本大学理工学部入学。大学時代はノンポリだった。
1968年 大学卒業、ソニー入社。第二組合改革の運動に参加。
1979年 新しい部署に異動、そこは第一組合の活動家を隔離するためのものだった。そこで普通の社員がここにいてよかったと思える職場にするための改革を目指す。
2006年 ソニー退社。退職金を元手に定年仲間4人でT&C技術と文化社を設立。いくつかの研究会やフォーラムへ参加。
地域コミュニティーへの参加として自治会長や自治会連合組織の副会長を歴任。自治会などが日本の民主主義の一つの底辺の水準を決めていると実感する。
共著
『マルクスと21世紀社会』(社会主義理論学会編、本の泉社、2017年)
1.平松さんの自己紹介
中学時代に自分を作った3元素として、SF・エンジニア・社会主義がある。
SFで驚愕感覚sense of wonderに痺れた。この感覚はSF以外の場面でも大切で、社会運動にも必要だろうと思う。
昔はよくあったラジオ少年で真空管ラジオづくりに熱中していて自然にエンジニアになった。現在の自分の科学/技術至上主義の根がここに在ると思う。父が社会主義者だったので、その影響で『貧乏物語』『社会主義神髄』などを読んだ。他の生徒とは違うという優越感を得るためという不純な目的だったが、なぜか心に残っていた。大学時代はノンポリだった。安保闘争などを横目で見ていた。日大だったが理工学部だったので全共闘運動もあまりなかった。
1968年に卒業してソニーに入社した。当時ソニーはそれほど人気企業ではなかった。入社試験で支持政党を聞かれて、自民党と答えるのはみっともないし、共産党では過激だし、社会党ですと答えた。その気分のまま自然に第二組合〈御用組合)に入った。でもちょうどその時、第二組合をまともにしようとの動きが始まっていて、そこで「言葉と行いは一致しなければならない」「人には自分のことしか考えない人とそうでない人の2種類ある」などという人に影響され、第二組合改革の運動に参加するようになった。
ダンハムの『現代の神話』や山口正之さんの『現代社会と知識労働』を読んで、大きな影響を受けた。山口さんは「社会変革への情熱に燃え実務労動にも熟達した正義感をもった労働者を求めている。」といっている。この本を読んでからは仕事と運動の両立ということが自分のテーマとなった。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%8F%A3%E6%AD%A3%E4%B9%8B_(%E7%B5%8C%E6%B8%88%E5%AD%A6%E8%80%85)
また、江戸時代末期の三浦梅園にも大きな影響を受けた。彼は「普段は当たり前だと思っていることをそのまま信じてはいけない、それをなぜかと問うべき」、「天地・自然が我々の先生であって、孔子や孟子は討論の友にすぎない」、とも言っている。これも驚きだった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%B5%A6%E6%A2%85%E5%9C%92
技術の仕事をする中で、「正義の運動=組合運動」の中に創造性が取り入れられてもいいのではないかと思った。今思うと社会を変革するというのは、起業と同じではないだろうか。社会運動は利益の追求ではないが、社会の役に立つことをやる、社会が求めていること、モノを生み出す、という点で起業と共通しているのではないか。
入社して研究開発の職場にいたが、そこでは仕事の選択から購入図書の選択まで自分たちのことは自分たちで決めるという技術者のコミュニティが形成されていた。10年ぐらいそこで働いていたが、その後第一組合の活動家を隔離するために作られた部署に異動させられた。新しい職場は社員は200人近くいたが、活動家ではない普通の社員もいた。会社としてはその部署が事業としてもある程度は成り立たせる必要があったから。
その職場は第一組合員が中心で、当然だが仕事中心の職場でなかったし、会社も仕事には期待していなかった。それでも利益は出ていたようだ。第一組合の人は組合運動を頑張っていた。労働条件の改善などで全社的な成果を出していた。献身的な活動家も多く、尊敬できる人もたくさんいた。しかし、僕は技術者として頑張りたいと思っていたので、組合第一仕事第二、は少し違うのではないかと思った。普通の若い社員がこれではくさってしまう。これではいけないと思って、仕事のモラルアップを考えた。第一組合の尊敬できる人からも「そんなことをしても無駄だよ」と忠告されたこともあった。
それでも、この職場が普通の社員にとっていいここにいてよかったと思える職場になることを目標に、つまり労働組合の外から、別の道での改革を目指した。
そのような経験から労働そのものについて考えるようになった。労働は生活のため、金をもらう手段だという発想が第一組合。そこから「少なく働いて、多くの賃金を」という発想になる。対資本での局面ではそれは当然で非難されるべきものではないけれど、でもそれは労働自体に価値があるとは思えない労働観に通じる。これでは資本と同様の発想だと思った。仕事時間が始まっても新聞を読んでいる中高年労働者がいても第一組合はそんな人をも擁護する、若い人は自分より2倍以上の高賃金の中高年のそんな姿を見ると頭にくる。これでは上手くいかないと思った。
御用組合を別にすれば組合活動家は管理職にはなれない、ならないのが一般的だが、会社側は本人が希望すれば労働組合を強くは排除せず管理職になる活動仲間も多かった。会社を相手にした労働訴訟の原告団の団長までやった人が部長になった。管理職の権限で、労働組合が触れなかった仕事の面からの民主化もある程度はできる。でも管理職になってからは、手段としての管理職だったはずだけれど、自分の地位を守るのが目的になるという手段と目的が逆転する葛藤がたくさんあった。
そうこうするうちにソ連が崩壊した。それまでソ連はひどいとは思っていたが、崩壊するまでとは思わなかった。それからいろいろ考えだして、自分の考えをまとめてみようかと思い、『さざなみ通信』の議論にも参加し始めた。
ソ連の崩壊で考えたのは、革命のプロセスに誤りがあったのか、それとも社会主義の実現性(物質的条件)に無理があったのか、ということで、自分では未だよくわかっていない。革命プロセスの誤りがあったとすれば、革命は共産党が『理念―設計―実行―チェック―フィードバック』のすべてのプロセスを独占的に動かしていたので、革命のプロセスの誤りは共産党自体の誤りであると考えられる。それは今の日本共産党にも続いている問題で今日的な課題だと思う。
当時石堂清倫さんが「スターリン主義の病根は、世界の革命運動の早い段階で蒔かれた。それは組織性への崇拝だ」と言っていた。組織性の問題は知的誠実さの試金石にもなっている今日的問題と思う。自分のこれまで考えていたことを総点検しなければならないと思った。
共産党にかぎらず社会主義政党の作風の中に創造性は欠けていた。「実践によって証明されるのは、理論や方針の正しさではなく、誤りの方だ。誤りの検出によって理論の修正を続ける(ポパー)」の姿勢が重要と思う。たとえば、自分の設計した回路を作ってみて正しく作動しなければ、自分が誤っていると考えるべきだということ。社会主義党は自己の正しさの証明に熱心で誤りの検出など眼中になかった。自分も若いころは運動すればするほど自分の正しさが証明されていったと確信を深めていった。でもそうではないなとソ連の崩壊で実感した。
社会主義の実現性に無理があったかというのは今でもわからない。ただ、境さんもいっているようにあの段階で意志の力で社会を革命するのは無理だったのではないか、と思う。物質的条件に無理だったのを上部構造から革命しようとしたから、独占企業と同じ独裁党による国家権力の獲得、になったのではないか。物理的な条件が整っていれば、独裁ではなくても変革は進行したと思う。
60歳になり定年になって新しく2つのことを始めた
一つは退職金を元手に定年仲間4人でこの会社(T&C技術と文化社)を設立した。技術と文化の融合を目指して、自分の考えをまとめてみたりしている。いくつかの研究会やフォーラムに参加して勉強している。またこの事務所を使っていろいろ勉強会をやっている。
もう一つは、地域コミュニティへの参加として自治会長や、連合組織の副会長を引き受けた。自治会などが日本の民主主義の一つの底辺の水準を決めていると実感する。しかし市民運動と自治会などとの交流は少なく、ある面では反目し合っていることもある。市レベルの行政との関係は市民の要求を通すときはぶつかり、一方で行政も含めて市民自治の内と見れば互いに仕事を分担して協力することも多い。どちらも両者をつなげる役割を担いたい。民主主義アップの場として学校、企業、地域コミュニティ、があるけれど、地域コミュニティ(特に自治会)での活動が手薄と感じている。
終活として、以下の3つをまとめた。
1)アイディアの出し方:創造性のまとめ⇒運動にも仕事にも応用範囲が広いハウツーもの
2)社会主義党はなぜ誤ったか:「さざなみ通信」http://www.geocities.jp/sazanami_tsushin/などへの投稿⇒過去の反省
3)非物質的財の生産:社会主義の萌芽を探す⇒未来への提案
2.質問と回答
――「文化知創造ネットワークのよびかけ」、「文化知の提案」を読んだ感想からおきかせください。
平松:科学知の限界を破るというのはわかるが、文化知とは何を指すのかがいま一つはっきりとは分からない。科学の方法を刷新するものとして、例えば吉田民人の「設計科学」があるが、それとはどのような関係にあるのだろうか。
自然科学は価値中立的で「ものはどうあるか」の探求だが、「設計科学」では科学は価値「ものはどうあるべきか」についても論じるべきだと主張する。文化知もこのような考えと交差するものか。前衛党は新しい社会を構想・設計すると思うので、それはまさに設計科学の領域と思う。これまでの社会主義党にはそういう発想がない。文化知も科学を排斥するものではないと言っているので、設計科学を受け容れることもできるのではないかと思う。
境さんの文化知、基礎理論としての抽象的一般論のほかに、具体的な実例に沿ってわかりやすく示してほしい。文化知のご利益を実感させてほしい。
僕のイメージでは、文化といえばやはり上部構造であって、生産力基盤との接点が薄いのではないかと思う。他の人の未来論やアソシエーション論をみても生産力を具体的に分析した視点は薄い。
――生産力主義批判というのがあって、すべてを生産力に還元する、あるいはすべての議論を生産力から始めるというのはおかしいと昔から議論されていたが、この点についてはどうでしょうか。
平松:僕はやはり生産力主義、というか生産力は生産関係や文化の材料だと思う。この材料を使ってどのような社会をつくるかという問題で、そういう意味でやはり生産力は基底的で根本的だと思う。生産力の高低に応じて生産関係や文化が決まると思っている。生産力還元主義かもしれないが、生産力=社会を構成する材料であって、材料でどのような社会を作るかはある程度は意思の自由、けれど材料による絶対的制約もある、石器時代の生産力でネット社会は不可能。
――現在の科学知についてどう思われますか。進歩信仰を捨て去るべきだと思いますが、どうでしょうか。
平松:進歩は捨てられないと思う。人間は同じ位置にとどまれないだろう、常に新鮮さを求めるし、必要で、そういう意味で欲望にも限りはない。進歩や欲望は人間の本質だからそれを抑えることはできない。それらに蓋をしないで済む科学をもとめたい。物質代謝に関しては、生存に必須だが地球の容量に限界があるから、最低限に抑える必要がある。他の欲望は環境との物質エネルギー代謝を最小限にできる非物質的財で吸収させるべきで、文化・芸術の分野で欲望を充足すべく消費していくべきだと思う。
――資本主義の構造が、欲望をかき立て作り出す社会―要らないものまで買わせようとする―になっている。この点からすると欲望が無限であるというのにはためらいがある。この社会の現状についてはどのようにお考えでしょうか。
平松:資本主義がそのような(要らないものまで買わせる)要求をしている。資本主義が要求する欲望は必ずしも人間の本源的欲望と同じではない。資本主義が人間の本性につけ込んで、欲望を作り出している。資本主義がなくなれば進歩ゼロとなるのでなく、進歩の内容と方向をもう少し理性的にコントロールできるだろう。その時は無限な欲望は非物質的財で充足させる。そうしないと地球は持たない。もちろん資本主義でもそのような運動・コントロールをおこなうことは可能で、ローマクラブなどはその工夫である。その工夫が文化知であり設計科学だと思う。
進歩についても、地球の容量(資源の獲得と廃棄)限界に抵触するかぎりでは、できないことははっきりしている。そのかぎりでは欲望を制限すべきだろう。ただ資本主義ではなかなか難しい。かといってかつてのソ連社会主義では資本主義より環境汚染は酷かった。
個人的な欲望を含めて自分の存在を社会的問題に関連づけて位置づけていく、ということが、マルクスがいっていた「アソシエーションによる個体的所有の再建」だと思う。そういう社会は資本主義でないだろう。
設計科学はこのようなことを考えるのに役立つと思う。
――所有の問題についてお聞かせください。非物質的財は所有できないと仰っていますが。
平松:70年代から野口悠紀雄さんが『情報の経済理論』(1974年)でそのようなことを書いているが、マルクス主義経済はそのことを全く気にしていなかった。野口さんは当時新進気鋭の経済学者だった。ジェレミー・リスキン『限界費用0社会』、ポール・メイソン『ポスト・キャピタリズム』など、みんな同じようなことを言っている。非物質的財の重視という視点が当たり前のことになりつつある。
境さんが最近展開している負債経済論というのがあるが、私にはあれはよくわからない。今の資本主義がなかなか儲けられなくなっているから、資本主義としてのその打開の方法として負債経済があることか。とすれば資本主義の現状分析としては理解できるが、次の社会への分岐を構想するうえでどのように役立つか知りたい。私はその構想として、未来社会への水路の一つとして、非物質的財の生産に着目した。
――資本による情報財の囲い込みの動き、つまり特許権や知的所有権を多国籍企業が独占するという問題を、どのように突破しうるかという問題があると思います。この点についてはどのようにお考えですか。
平松:特許とか著作権はモノではない。物質的財は所有と効用とが一対一で結びついている。物理的な所有が効用を生むし、所有なしに効用は得られず、そういう意味で所有に決定的な意味がある。その意味で物質的財は資本主義に適合的な財である。
それに対して非物質的財は盗まれても気が付かないこともあるぐらい所有と結びついていない。資本主義では所有できないものを所有と見なすという擬制的所有権として特許や著作権が存在する。しかしそれは所有に物理的基盤がないから、本来は所有できるものではないに擬制的所有権なる所有権を与えているに過ぎない。非物質的財で儲けようとするために、あるいはインセンティブを与えるために作られたものが、特許や著作権だ。だから儲けようとしない限りそれは必要ではない。だから非物質的財は資本主義に適合的ではない。資本主義でなくても存在できる財だ。
――特許とは技術革新のためのインセンティブだと思う。知識・技術を資本に売って、資本がものに体化して資本が儲ける。お金がないと実用化できないから。そのために知識・技術を独占化するのが特許権だ。資本は世の中を良くしているという名目で儲けている。そういう意味でものに体化するのだから、ものと同じで非物質的財も資本主義的なやり方としては、上手くいっているのではないでしょうか。
平松:資本主義に上手く組込んでいるという意味ではそうだけど、資本主義である必要はない財だ。
――でも、どんな技術でもそうではないでしょうか。
平松:資本(例えば機械)は誰かが所有する必要があるが、非物質的財は所有する必要がない。
――でも情報もものに体化しなければ技術は眼にみえないものではないですか。
平松:情報はものに体化する必要は必ずしもない。音楽等はそうだ。たとえばスマホなどはほとんどソフトウェアで、物の価値と情報の価値との比率で言えば、情報の価値の方が圧倒的に高い。ものの価値は情報に比べて非常に小さくなっている。
――情報の価値と物の価値をどのように比較するのかという問題がありますね。ものの価値は、マルクス主義的には労働の投入量で決まるとされています。ものに体化されない情報の価値を物の価値とどのように対比するのでしょうか。
平松:あるものを千個作る場合を考えると、ものの場合は千個の材料を必要とするが、情報は一つあればコピーできる。たくさん作る場合、すなわち産業としてのモノづくりでは、情報の費用は商品1個当たりは限りなく0に近づく。ものの場合は複製の費用がかかる。生産費用とは複製費用のことである。情報は複製費用が限りなくゼロにちかい。
――非物質財なんだけれど、形相と質料という観点からいうと、必ず質料(もの)に埋め込まれて情報(形相)は役に立つと思うのですが。
平松:複製の費用がどんどん少なくなるということは、生産物の中の情報の比率がものに比べて高くなっていくということだ。情報の比率が高くなると、生産量の増加につれてものの値段はどんどん安くなる。食料など物質的な財は生きるために必要だから残るが、その比重は全生産の中での比率は下がっていくのではないだろうか。
――マルクスが言っている必然の王国から自由の王国への移行という意味では、情報化を理解できます。
平松:たとえばAIの利用がなされると、資本主義では大量の失業者が出て食えなくなるが、社会主義ではベーシックインカムなどを利用すれば、食わせていける。そういう意味では必然の王国から自由の王国への移行の一つだと思う。
――最近気になって読んだ記事で、労働が下層労働と知的労働へと二極分化する。知的労働もロボットがやるようになると、単なる知的労動だけでなく、人間関係も上手く築けて、かつ知的労働もできる労働者が上層労働者となり、知識もなく人間関係も上手くできない労働者が、ロボットよりも安くできる労働を行なうようになる。たとえばビルの清掃ですね。この両極に分解するのではないか、とその記事には書いてありました。そういうことを考えると、今の社会では先に平松さんが言ったような自由の王国への移行はありえないと思いますが。
平松:私もそう思う。僕が言いたいのは、人間が労働をしなくても成り立つ社会の生産力基盤があるなら、資本主義である必要はない、ということ。そのときはじめて資本主義が転換されて最下層の労働はロボットが行ない、資本もいらなくなると思う。資本主義では自由の王国にはならないということでしょう。
――具体的にどうすれば資本主義は変わるのでしょうか。何か展望があればお聞かせください。
平松:情報産業の世界では資本主義を不要とする萌芽がある。たとえば、オープンソフトウェアで「コピーすることを禁止することを禁止する」というもので、コピーライトの逆としてのいわゆるコピーレフトだ。これは今までの資本主義では発想できないもので、所有が効用を生まない非物質的財だから、分けても減らない、損しない財だから可能となった。さらに交換しないから市場に適合的ではない。物質的な財の比率が低下し、非物質的な財が中心となれば、資本(主義)がいらない新しい社会を構想できる。また、そのような事態がなければ新しい社会は構想できないのではないか。非物質的財は資本を必要としない、というのが要点だ。
情報をどう扱うかという問題をマルクス主義はもっと考えるべきだと思う。リフキンや野口さんがいったことをなぜ引き受けられなかったのか。
閲覧者数