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           グレーバー『負債論』における貨幣生成論への疑問 境毅

 

親愛なるグレーバーさんへ

 

 あなたが洞爺湖サミットに来られ、日本人と交流した際に、言葉の障壁で日本人の研究にアクセスできないと語っておられたと聞いております。ところが日本では、重要な海外文献はすぐに翻訳されます。あなたの大著『負債論』も、2016年11月に翻訳出版されました。私はそれを夢中で読み、基本的人権論の土台となっている、人間が宇宙と取引できるという思想を馬鹿げた妄想として退けた見解に大いに同意し、これを基に研究会を組織したのですが、私の周辺にいる左翼活動家には受け入れられませんでした。私が所属している生協の理事たちには大受けでしたが。

 私が今回お届けするのは、あなたの貨幣起源論への疑問です。実はイネスに依拠しケインズが提起した、貨幣の起源は信用にあるという説は、日本では、楊枝嗣朗が『歴史の中の貨幣』(文眞堂、2012年)で展開していました。楊枝はケインズ説に立脚し、ソ連崩壊以降の欧米の人類学者達の諸研究を踏まえて、マルクスの貨幣論を批判していました。この本に収められている論文は、2003年から8年にかけて、学会誌『佐賀大学経済論集』に発表されており、私はそれを検討するために、ハンムラビ法典をはじめ古代オリエントの文献を集めていました。そして楊枝説への批判として、論文を準備しようとしていたのです。

 なかなか作業が進みませんでしたが、日本人研究者たちが、2015年~16年にかけて出版した二冊の書物とであい、作業を開始しようとしていた時に、あなたの本の邦訳を手にしたのです。それで、いわば待ち伏せをしていたように、楊枝説への批判ではなくてあなたの貨幣起源論の批判に取り組みました。

 二冊の書物とは、後藤健著『メソポタミアとインダスの間』(筑摩選書、2015年12月)と、小泉龍人著『都市の起源』(講談社選書メチエ、2016年)です。後藤は、自らの研究に刺激を与えてくれたイベントが、2000年に東京で開催された「世界四大文明」展だとし、これがそれまで蓄積してきた四大文明以外の文明の知識を国際的なつながりの中で見直すきっかけになったと述べています。つまり都市成立以前の交易ルートの研究がなされ始めたのです。私はこの成果に基づいて、貨幣の起源にかんするマルクスの説を復元したいと考えました。

 日本の学界は、もともとは、マルクス主義派が圧倒的でしたが、ソ連崩壊後総崩れをし、以降、大学では新自由主義派が跋扈するようになりました。しかし『資本論』研究に関しては、日本人は、商品価値論と信用論に関して世界に誇れるような業績を残しています。それで私はそれを世界に向けて発信しようと企て、英文のフェイスブックとホームページ開設を企画中です。「フレデリック・ロルドン宛て手紙」や、「負債経済論」をそのうちにお届けできるでしょう。前者は商品価値論の紹介であり、後者は信用論の紹介です。

 では、あなたの貨幣起源論への疑問をお読みください。

 

グレーバーの貨幣起源論への疑問

 

第1章 都市化以前にすでに貨幣は生成していた

 

 1.貨幣の起源についてのグレーバーの見解

 

 グレーバーは第二章 物々交換の神話、でアダム・スミスが唱え、今日の経済学の教科書で一般的に取り入れられている説明を神話とみなしてその批判をおこなっている。その批判は古代メソポタミアの経済の分析に基づいている。楔形文字と象形文字の解読で、今日では、スミスが依拠したホメロス(前800年)から前3500年へと歴史を押し戻したとみなして、古代メソポタミアの経済を論じている。少し長いがグレーバーの説を紹介しよう。

「楔形文字による記録のほとんどは金融についてのものであって、わたしたちがメソポタミアについて多くの知識を有しているとしたら、そのめぐりあわせゆえにである。

シュメール人の経済は巨大な神殿と宮殿の複合体によって支配されていた。これらの機構は、聖職者や官吏、工房で働く工作者たち、巨大な地所で働く農民や牧羊者たちなどからなる数千人のスタッフを抱えていた。古代シュメールは数多くの独立した都市国家に分かれていたが、前3500年頃、メソポタミア文明の幕が上がるまでには、神殿の管理者たちは、単一の統一された会計業務の体系を発展させていたようだ。ある意味ではこの体系はいまもわたしたちに受けつがれている。というのも、1ダースとか1日24時間といったことをわたしたちはシュメール人に負っているからである。基本的な貨幣単位はシェケルであった。1シェケルの重量の銀は、1グルないし1ブッシェルの大麦と等価とされた。1ミナは60ミナスに分割されたが、1シェケルは一人前の大麦に相当する。これは一ヵ月は30日ということと神殿の労働者たちへの大麦の給付は一日二度であることという原則にもとづいていた。この意味における『貨幣』が商業取引の産物ではないことは容易にみてとれる。『貨幣』は、実質的に官僚たちによって発明されたものであり、その目的は貯蔵資材の動きを管理とさまざまな部門間での物資のやりとりの差配だったのである。

神殿の官僚たちはこの体系を利用して負債(地代、手数料、貸付金など)を銀で計算していた。銀が貨幣であったのはその結果である。そして銀は未加工の塊として、スミスの表現によると『組成の延べ棒』として流通していた。これについてスミスは正しかったのである。だが、彼の考察で正しかったのはその部分のみである。というのも、そもそも銀の流通量はさほどのものではなかったからである。銀のうちほとんどは、神殿や宮殿の宝物殿にうやうやしく鎮座し、なかには用心深く保管されて、文字通り数千年のあいだおなじ場所にとどまることになった。銀の鋳型を規格化し刻印すること、権威をもって純度を保証するなんらかの制度を創設することはたやすかったはずだ。だがそうする必要を感じた者はいなかった。ひとつの理由は、負債が銀によって計算されていたにせよ、それが銀によって支払われねばならないわけではなかったからである。実際に負債は多かれ少なかれ手元にあるどんなものによっても支払い可能だったのである。神殿や宮殿のあるいはその官吏に借金のある農民たちは、ほとんどの場合、大麦で負債を清算していたようだ。だからこそ銀の大麦に対する比率を固定することがかくも重要だったのである。とはいえ、羊や家具、瑠璃をもってしても、受領に支障はなかった。神殿や宮殿は巨大な産業機構を形成していたのである。だから利用法のないものはほとんどないというわけだ。

メソポタミアの各都市に出現した市場においても、商品価格はやはり銀によって計算されていた。そして神殿や宮殿による統制に完全に服していない商品価格は、需要と供給にしたがって変動する傾向にあった。しかしここでもまた現存する証拠資料の示すところによれば、ほとんどの取引が信用を基盤としていた。取引に銀を実際に使用した数少ない人たちは、商人(神殿のために活動することもあれば自由に活動することもあった)であった。しかし、その彼らでさえも、ほとんどの取引は信用によっておこなっていたのである。ましてや、『エール女』や地元の居酒屋からビールを買うような一般の人びとは、やはりここでツケで飲んで、それから収穫期に大麦だったりあるいは手元にあるものをかき集めて支払っていた。

ここにいたって貨幣の起源にかんする旧来の物語はほとんどあらゆる点で崩壊してしまう。」(60~62頁)

楔形文字が解読されて以降の古代メソポタミアの経済の研究は飛躍的に進んだ。かの有名なハンムラビ法典も翻訳されており、邦語文献も多数ある。したがって、人類学の専門家でなくとも、グレーバーのこの説の再検討は可能である。グレーバーの長い引用から貨幣生成論の部分を取り出すと次の内容となる。

「『貨幣』は、実質的に官僚たちによって発明されたものであり、その目的は貯蔵資材の動きを管理とさまざまな部門間での物資のやりとりの差配だったのである。」

この見解の当否について検討しよう。

 

2.都市成立以前の古代メソポタミア文明の概要

 

(1)各地域の時代と文明の区分

 

南メソポタミア    前 5300年~3500年 ウバイド期

           前 3500年~3100年 ウルク期

           前 3100年 ジェムデット・ナスル期

           前 2800年 シュメル初期王朝時代

           前 1792年 ハンムラビ王即位

アラビア半島湾岸   前 4500年 ウバイド系文化

           前 3000年 ハフィート文化

           前 2800年 ウンム・アン=ナール文化

スシアナ       前 4500年 チョーガ・ミーシュ

           前 4000年 スーサⅠ

           前 3500年 スーサⅡ

 

前5000紀 灌漑技術の導入

 1000人ほどの集落の形成

前3300年頃ウルクで最初の都市が出現

ウルク・ワールド・システム:都市建設の伝播

前3100年 システムの崩壊とジェムデット・ナスル期

前2800年頃 シュメル初期王朝時代

前1792年 ハンムラビ王即位

(注)ウバイド期は1800年という長期にわたるが、都市成立のウルク期は400年である。激動の時代であったことがうかがえる。

 

(2)都市以前の集落のイメージ

 

 本稿では、都市成立以前の古代メソポタミア文明を扱う。まずその集落のイメージについて中央公論新社、『世界の歴史』1、人類の起源と古代オリエント、から紹介しておこう。

 「紀元前5000年ころ、ティグリス川上流の平野部にサマラ文化が広まっていた。イラク東部のザグロスの山麓部のチョガ・マミという遺跡は6ヘクタールの面積に集落が構成され、1000人ほどの人口をかかえていたと推定されている。二種のコムギと二種のオオムギ、亜麻を栽培し、ウシ、ヒツジ、ヤギ、ブタ、イヌを飼育していた。

 サマラ文化の西にはハラフ文化が広まっており、美しい彩色土器を作っていた。

 こうした山麓部の発展が著しいころ、一部の農耕民が南部メソポタミアの平野に進出をはじめた。この進出によって成立した文化をウバイド文化という。」(『世界の歴史』1、90~1頁)

 ウバイド期は前5300年から前3500年の長い期間で4期に区分されるが、人口が増えると新しい集落を構えることが多かったと考えられ、都市の成立はなかった。前5000年紀(前5000年~前4001年)に灌漑技術が導入され、前3500年頃には土器は轆轤で作られるようになった。このウバイド文化は突然新しい様式の土器にとって代わられ、ウルク期が始まる。

 前3500年から前3100年までがウルク期であり、この時期に都市が誕生する。前3300年頃と推定されている。本稿が扱う時代は、都市成立までである。

 

3.都市の起源

 

 グレーバーの古代メソポタミア論は都市国家を素材としている。しかし、都市国家が形成される以前から、都市化の動きがあり、共同体間での交易が盛んになされていたはずである。もちろん前3200年より前の、文字以前の時代になるわけだから、発掘による検証による外はない。

小泉龍人はその著『都市の起源』(講談社選書メチエ、2016年)で都市の成立過程について研究している。序章 二つの「世界最古」の都市、で小泉はウルクとそのコピー都市「ハブーバ・カピーラ南」をとりあげ、貨幣の起源を考える上で極めて重要な指摘をしている。小泉の都市論について紹介しよう。

まず、都市の成立に関する研究の基本的指標となった、チャイルドの都市革命論について小泉は次の10点を挙げている。(『都市の起源』、16~7頁)

(1)大規模集落と人口集住

(2)第一次産業以外の職能者(専業の工人・運搬人・商人・役人・神官など)

(3)生産余剰の物納

(4)社会剰余の集中する神殿などのモニュメント

(5)知的労働に専従する支配階級

(6)文字記録システム

(7)暦や算術・幾何学・天文学

(8)芸術的表現

(9)奢・品や原材料の長距離交易への依存

(10)支配階級に扶養された専業工人

このチャイルド説を踏まえたうえで、小泉は都市の指標を、都市計画、行政機構、祭祀施設の三つとし、三つの指標が全てないものを一般集落、その一部があるものを都市的集落と定義することで、都市の成立過程研究についての仮説としている。

世界最古の都市ウルクは約5300年前に誕生したが、都市化はさらに2000年ほどさかのぼる。

「約7000年前のウバイド期に展開していた一般集落の中から、都市的な性格をもち始めた集落が現れる。約6000年前のウルク期になると、都市的な性格の強まった集落が出てきて、約5300年前のウルク後期に都市が誕生する。」(同書、21頁)

ウバイド期の社会を特徴づけているのが祭祀儀礼の遺跡からは社会的格差は認められないという。ウバイド期の文化は突然途絶え、代わってウルク期と時代区分されるが、このウルク期での都市の誕生について、小泉は独特の説を唱えている。

「都市化の後半段階(ウルク期)になると、余剰食料を豊富に抱える魅力的な集落に『よそ者』が現れることで、多様な変化が起きはじめる。」(同書、22頁)

小泉の都市成立論は、一般集落や都市的集落が自生的に都市となったのではなく、当時の気候変動による温暖化で、海岸線の後退により、海辺に住んでいた人々が移住を迫られ、都市的集落であったウルクに「よそ者」として混住しはじめたことによるとみている。ウバイド終末期(約6200年前)に始まる人の移動に触発されて、街並みが変化してきているのが確認でき、ウルク期に本格的な都市化がみられる、という(同書、70頁)。

「ペルシャ湾の海進により、シュメール地方に広がるメソポタミア低地の耕作地で冠水や灌漑排水の脱塩機能の低下が引き起こされて、次第に耕作地が放棄されていった。その結果、沖積低地で生活していた人々が移住せざるをえなくなり、約6000年前に『よそ者』が発生して、余剰食糧に溢れた集落へ惹きつけられていった。こうした人の動きが主な刺激となって、特定の集落で本格的な都市化が進行していった、というのが自説である。」(同書、74頁)

 さて、このような都市の成立論に加え、コピー都市の問題に移ろう。小泉は、ウルクに成立した都市国家とほとんど同時期に、ユーフラテス川を900キロメートルも遡った川上にコピー都市「ハブーバ・カビーラ南」を創ったのは銀の開発があったからだとみている。「ハブーバ・カビーラ南」は銀山にアクセスいやすい立地にあり、かつ出来あがった銀製品を都市ウルクに運ぶ水路があるのだ。

 「銀の重要性は、約5000年前の青銅器時代になると際立ってくる。シュメール地方のウル遺跡で出土した粘土板文書には『銀の倉庫』という記述が残され、テル・アグラブ遺跡の神殿では未完成品も含めた銀製品が保管されている。メソポタミア地方では、青銅器初頭までに都市的集落が続々と都市へ成長していき、都市とよべる主要な政体が20前後に急増して互いに競合するようになる。実効支配領域を主張する都市国家の出現である。

 都市国家の分立段階である約5100~4300年前において、すでに銀の価値が認められて、物々交換の場面で銀の重さが基準となりはじめていたことがわかっている。約4300年前には、メソポタミアの都市国家群がアッカド王朝によって統一される。この領域国家の段階になると、銀の重さ『シェケル』が取引における基準として定着して、『銀のリング・インゴット』が最古級の貨幣として一部で使用されていく。

 私は、ウルク後期のハブーバ・カビーラ南は、銀の開発と輸送のために計画的につくられた都市であると考えている。・・・都市の誕生、都市国家の分立、領域国家への統一という古代西アジアの都市のあゆみは、銀との出会いによってその方向性が決まったといえる。古代西アジアにおいて銀と都市は不可分の関係にあり、銀の所有は権力の掌握に直結していたのである。」(同書、26頁)

 銀のリング・インゴットの使い道については諸説があるようだが、共同体間で銀が価値尺度として使用され、銀が世界貨幣として成立している状況がうかがえる。次に都市成立前後のメソポタミアを取り巻く交易路の状況を後藤健の著書『メソポタミアとインダスのあいだ』(筑摩選書、2015年)から紹介しよう。

 

4.都市成立前後の交易路

 

(1)後藤説の概要

まず、考古学で使われる、千年紀について、確認しておこう。時代が正確には判明しない古代に関して、千年単位で時代を区切るので、前四千年紀とは、前4000年から前3001年までをさす。またあまり使われないが、21世紀は、三千年紀となる。

後藤の問題意識は、従来四大文明がそれぞれ単独で研究され、その周辺の文明や、四大文明のあいだの交易について研究されていない、ということへの疑問にある。

「過去の研究の多くは、古代文明の起源を、灌漑農耕による生産性の飛躍的な向上、それによって生まれた余剰の蓄積、それを可能とした労働力の集中と社会的・政治的ヒエラルキーの確立などの面から、説明することが多かった。これらは文明の成立過程をその地域社会に特有の歴史的事象として大きな矛盾なく説明しているかのように見える。しかし何ゆえ文明すなわち都市社会がこの地に興らざるをえなかったのかという必然性、なんのために都市のヒエラルキーは作られたのかという目的について、十分な説明とはなっていないように思われたのだ。」(後藤健『メソポタミアとインダスのあいだ』筑摩選書、12頁)

このような問題意識に立って、後藤はメソポタミアにおける都市成立前後の時期の交易網について、遺跡から出土した土器などの研究から解明しようとしている。

「メソポタミアにおいては、文明成立の段階、いやそれより少し前の段階においてすら、遠隔地産の物資が既に存在していたという事実がある。・・・文明成立に前後する時期に銅製品や金、ラピスラズリのような遠隔地産物資が出現する事実は、この文明の起源を域外との強い関係で説明する必要を感じさせる。文明の起源はメソポタミアの域外、それも相当遠隔地まで含めた広域の情勢を視野に入れなければ、説明することができないのだ。」(同書、12~3頁)

周知のように都市が発生したメソポタミア南部には、灌漑農耕と牧畜と粘土しかなく、都市に必要な木材、石材、さらに銅、錫のような卑金属、さらに支配者にとって必要な貴金属、宝石類は産出しない。

「メソポタミアにおける農耕社会の生産物は多くが食料と衣料である。この地域、とくに南部においては、それ以外の産物は存在しない。都市の支配者は何ゆえ自家の必要を超える農業生産物を集め、蓄積しなければならなかったのか。域内で入手不能な遠隔地産の必要物資を入手するための代価として生産を促したのではないか。その取引相手とはだれか。メソポタミアにはない都市の必要物資を保有し、かつメソポタミアが見返りに用意する農産物を必要とする者がその相手である。メソポタミアが文明であるためには、その遠隔地産物資の供給者が存在し、かつ交渉相手となりうるだけの文明度を具えていたに違いない。蛮族が相手では、交渉は不可能だからだ。現在知られるメソポタミア最古の文書の中には、イラン高原とアラビア湾方面からの物資供給が記されている。これらの二方面こそが、初期のメソポタミア文明を支えた遠隔地物資の主要な供給路であった。」(同書、13頁)

 このように後藤は、イラン高原とアラビア湾岸の二方面の交易路を解明しようとしている。その際に交易路に繋がるネットワーク的ないくつかの集落を文明として考察している。

「文書の断片的記事から察して、域外からの遠隔地産物資をもたらしたのは、メソポタミアに属さない域外の人々であったと考えるのが自然だ。彼らは陸路にしろ海路にしろ、遠隔地の産物をメソポタミアに供給するという、メソポタミア人にない能力をもっていたことは確かであり、かつ必要物資の安定供給ということが求められたはずであるから、メソポタミアの農耕社会を補完するものとして、当時からある程度完成度の高い社会をなしていたものと想像される。前三千年紀から前二千年紀初頭までの期間、さらにそれ以降も、メソポタミアの支配者たちは、交易や略奪のための遠征などを含む、これらの域外勢力との和戦両面での関係を続けている。

 メソポタミアの東に接するイラン高原は世界有数の大乾燥地帯として知られている。石器時代以来、ここではスポット的な農耕社会は存在したが、一般に可耕地は乏しく、その後の歴史の大半を通じて、メソポタミアのように大人口を養いうるようなものではなかった。農耕よりも、牧畜の比重がはるかに大きい、半遊牧、遊牧社会だった。湾の対岸にあるアラビア半島東部も可耕地はイラン高原以上に乏しく、石器時代以来、内陸では遊牧社会、海岸部では漁労社会が存在していた。」(14頁)

アラビア側についてはかなりの情報があるが、イラン側の海岸部の古代遺跡については情報がほとんどない、としつつも、後藤はネットワークを文明として解明する努力を続けている。その際に、交易路がもたらした産品の確定が肝心である。まず、銅についてはどうか。

「イラン高原とアラビア半島の湾岸部という二つの地域に共通するのは、メソポタミアに存在しない必要物資を自前で確保するか、あるいはより遠方の地域から調達し、それを必要とする消費者に供給することができるという利点であった。・・・古代メソポタミア文明の『泣き所』、すなわち必要であるのに自前では調達できないものを、いくつか挙げてみよう。まず金属がある。銅は人類が最初に利用した卑金属である。メソポタミアから比較的近い銅鉱脈は、イラン高原とオマーン半島に分布する。またアナトリア(現在のトルコ。小アジアとも)、地中海東部に浮かぶキュプロス島(アラシアとも)、アジアとアフリカとつなぐシナイ半島なども銅を産する地域ではある。・・・この中で、メソポタミア文明がその最初期から最も長い年月にわたって、銅とその加工品の輸入を続けた相手の一つが湾岸の勢力であり、原材料の原産地はオマーン半島であると考えられている。」(15頁)

このように後藤は、銅は初期にはオマーン半島から海路で運ばれたとみている。

「当たり前のことだが、古代においては、鉱石にしろ加工品にしろ、銅のような重量物を遠隔地へ輸送するのに、陸路は適していない。オマーン半島の銅は海路でアラビア湾奥へ向かい、ウル、エリドゥ、ウルクなどといったメソポタミア最南部の都市群に配送された。」(同書、16頁)

しかし、前2000年頃以降はユーフラテス川の開発で、アナトリアやキュプロスの銅も利用されるようになる。また、木材・石材も海路と河川で運ばれた。では金・銀のような貴金属や宝石類はどうか。

「金・銀のような貴金属、これはイラン高原から、あるいはイランを経由してさらに東方からもたらされた。次に宝石・貴石がある。代表的なものとして、ラピスラズリ、瑪瑙、紅玉髄、真珠、孔雀石、象牙がある。・・・メソポタミア南部へ、前二者はイラン方面から、後三者は湾岸方面からもたらされた。」(同書、16~7頁)

このようにメソポタミア南部での都市建設に必要不可欠な産品の交易ルートを探っていくと、たんにメソポタミア文明に限定することはできないと後藤は主張している。

「イラン高原と湾岸だけでなく、それらの延長にある中央アジアやインダス河流域における古代文明の興亡をも視野に入れざるをえない。」(同書、17頁)

このような概要を踏まえ、貨幣の歴史的生成の解明に必要な限りで、後藤説を紹介していこう。

 

(2)アラビア湾岸ルート――「ウバイド系文化」とウバイド文化の崩壊

 後藤によれば、都市が形成されたウルク期の前のウバイド期の人々は交易に携わっていて、アラビア湾岸の遺跡でウバイド式土器が発見されるという。

「文明成立の『前夜』にあたる時期のメソポタミアで栄えた農耕文化はウバイド文化と呼ばれる。前6000年頃に始まり、前5千年紀になると灌漑技術が導入された。そして主としてユーフラテス河の河水をコントロールして、高い生産性を実現するようになった。また集落も発達し、規模・内容が都市に近いものも現れるようになった。ウバイド式土器はこの文化に特徴的な遺物で、回転台で作られ、無紋の粗製土器と精製彩文土器とがある。

 このメソポタミア製のウバイド式彩文土器が湾岸の『新石器文化』の遺跡で出土する例がある。そのような文化、遺跡を、筆者は『ウバイド系文化』、『ウバイド系遺跡』と呼んでいる。」(同書、24~5頁)

 後藤が名付けた「ウバイド系遺跡」は、「現在湾岸で知られているウバイド系遺跡の総数は50ヶ所ほど」(同書、25頁)であり、また他方で、「メソポタミアにおけるウバイド文化には、金属・貴金属や宝石・貴石などの遠隔地産物資がすでに存在した。ウバイド人の中には、そのような物資調達業務に携わった人々もいたに違いない。」(同書、28頁)

 ところがウバイド文化は突然崩壊する。

「前4000年頃、メソポタミアにおけるウバイド社会は突然として解体し、まもなく、以前とは異なる文化内容をもったウルク文化が成立した。それが新たな住民の到来によるものかどうかは、まだ明らかでない。ウルク期が後半にさしかかる前3600年頃、メソポタミアの南部ではウルク、北部ではテペ・ガウラのような最初の都市が形成された。最大都市ウルクの面積は70~100ヘクタールあり、それに次ぐ規模の都市集落も南部を中心に相当数形成された。長い準備期間が終わり、人類は新しい時代、都市文明の時代を迎えた。

 ウルク期には金属製品の使用が知られている。ウバイド期の末にも、銅や金製品がまれに見られたが、ウルク期になると、銅・金・銀製品が一般化する。前代に細々と始まっていた域外からの物資搬入が、都市文明の成立と同時に恒常化・組織化するのである。最初の文字書法、古拙ウルク文字による表記が始まるのも、ウルク後期においてである。そこで文献史学では『元文字期』という時代名を使用している。」(同書、32頁)

ウバイド期の人々が自ら交易に従事したのとは異なり、ウルク期では都市が成立することで、植民がメソポタミアの集落に普及していく過程が起きた。ウルク文化の大拡張として知られるこの事態は、ギレルモ・アルガゼによって「ウルク・ワールド・システム論」としてまとめられた。後藤はその説を次のように紹介している。

「最初にウルクは(A)メソポタミアの東に隣接するエラム地方に植民をおこない、東方に広がるイラン高原からの物資輸送ルートの確保を図った。次の段階で、ウルクは(B)ティグリス、ユーフラテス両河の上流に植民を開始し、小規模な拠点を設置した。さらにウルクは(C)特にユーフラテス河上流の開発を続け、シリア、アナトリアにおいて、ウルク文化をもつ大規模植民都市を設置した。最後の段階で、ウルクは(D)北メソポタミアや西南イランに拠点を設置し、そこを経由する輸送ルートの確保を図った。」(同書、33頁)

このウルク期の状況は今回は取り上げない。ウルク期以前のイラン高原ルートの状況をみてみよう。

 

(3)イラン高原ルート

 後藤はイラン高原ルートの解明をスーサの発掘から跡付けている。

「スーサの位置づけはきわめて重要である。それはカルヘ川に並行して流れるシャウル川の左岸に位置する大遺丘群で、ここでは前5千年紀末から後13世紀までの居住が営まれた。」(同書、38頁)

スーサのⅠ期とは、前5千年紀後半から前4千年紀前半であり、メソポタミアのウバイド期にあたる。

「Ⅰ期の後半では多数のスタンプ印章が出土しており、その型式も変化に富んでいるので、前4千年紀前半のスーサには、他地域と交流のあるエラムの中心的都市が存在していたことになる。」(同書、39頁)

スタンプ印章とは契約のために使用されたもので、たとえば交易する商品を入れた袋や容器などを粘土で封印するために使用されたようだ。さらに遺跡からわかることは、銅冶金の遺物があることだ。

「この時期のエラム(スシアナ)とファールスの両地方では銅冶金が開始されており、その点のみを取り上げれば、イラン西南部はメソポタミア南部よりも文化的に進んでいたことになる。」(後藤、39頁)

ところで、スーサⅡ期は、「メソポタミア南部におけるウルク期と並行し、前3500年~前3100年と考えられている。」(同書、39頁)この時期になると、土器のメソポタミア化が起きている。先に見たウルクの拡大期にあたる。

「湾岸にはないが、エラムのスーサにはあるウルク文化拡張の痕跡、それはウルク国家への物資供給ルートが、まずはイラン方面で始まったことを示している。・・・イラン高原からメソポタミア南部への物資の供給路は、地勢状の制約により、スーサを経由することがどうしても必要だった。したがってⅡ期の住民が誰であれ、物資の集積地であったことに変わりはない。」(40頁)

ところがⅡ期のウルク化はスーサⅢ期(前3100年~前2900年)になると非メソポタミア化していく。メソポタミアのジェムデッド・ナスル期すなわち原文字期後半に並行し、スーサでも、原エラム文書が発見されている。後藤は文書の性格について次のように述べている。 

「メソポタミアでもイラン高原も、ほぼ同じ頃に文字による記録というものが必要な時代を迎えたということである。もちろんそれは偶然ではない。

 スーサでもメソポタミアでも、粘土板文書の前身は、立体的計量記録用具、ブッラとトークンにあると考えられている。ブッラとは内部に計量対象の模型(トークン)を封じ込んだ、手のひらに乗るほどの中空の粘土球で、まだ柔らかいうちに外表面に内容物を表す記号が刻まれる。物資の取引契約などを行う際に、実物に代わる象徴として使用されたもので、これは粘土板文書の起源と考えられている。初めのうち粘土板には絵文字が書かれたが、短期間の後、楔形文字へと変化したことが広く知られている。・・・原エラム文書に見られる計量システムには、メソポタミアにはない十進法が含まれるという。」(同書、41頁)

 この時代は、ハンムラビ法典の時代にさかのぼること1000年前後である。この時代における最初の文字使用の必要性が、交易における物資の取引契約から始まったのではないかという推測は頷かされる。

「この原エラム文書の地理的分布は、前3000年前後のイラン高原に、スーサを中心とする都市群のネットワークが存在したことを物語っている。これがイラン高原における史上最初の都市文明、『原エラム文明』である。それは同時期、すなわちジェムデッド・ナスル期のメソポタミアをカウンターパートとするイラン国家である。そのネットワークは、かつてのウルクによる遠隔地物資獲得のためのネットワーク、すなわち『ウルク・ワールド・システム』の一部を前身とするものであったかもしれないが、それを支配したのはメソポタミア人ではなく、原エラム語を母語とするイラン高原の住民であったことが、大事な点である。前代のウルクによるネットワーク(ワールド・システム)は土着の文化に大きな影響を及ぼし、イラン高原で最初の都市文明を創出させたのだ。

 ところが、イラン系住民によるスーサの支配力は、ⅢB期には早くも低下を始めたと思われ、メソポタミア色が復活する。メソポタミアのシュメル初期王朝時代Ⅰ期の土器が主体を占めるようになり、原エラム文書は減少する。このことは原エラム文明の衰退と理解してよいだろう。」(同書、42頁)

 このようにイラン高原ルートは、スーサを中心とする交易のネットワークが、ウルクにおける都市の成立後、イラン高原の集落の都市化を招きよせ、都市化による交易の発達は、記録のための文字の使用にいたっていることが示された。

 

(4)アラビア湾岸ルートのその後――「ハフート期」

 後藤によれば、ウバイド人と違ってメソポタミア人は海上ルートは苦手だった。しかし、

オマーン半島ハフート遺跡でメソポタミアの土器が出土した。後藤はこの時期をハフート期と呼び前3100~前2800年と推測している。そこでの問題は、ハフート人とはだれか、ということである。後藤は次のように推測している。

「前4千年紀の末に、イラン東南部の土器の伝統が無土器時代のオマーン半島に突然移植され、その土地の伝統が始まったのだと思われる。自然な解釈をするならば、前3100年頃に、イラン東南部の原エラム都市テペ・ヤヒヤが、オマーン半島を自国領土に編入し、移民を送り込んだのだ。それは原エラム時代のヤヒヤ国家による『植民』にほかならない。目的は銅山の開発であり、移民の中には鉱山技師や土器作りの職人、それに多少の農民もいたであろう。」(同書、58頁)

アラビア湾はオマーン半島で対岸のイランと最短距離となっていて、植民は可能である。

「テペ・ヤヒヤの支配者が、銅山開発のためにオマーン半島を植民地化した結果、同半島と湾岸は事実上原エラム文明の一部と化し、メソポタミア、イラン高原の含む大経済圏に取り込まれた。しかし本来ヤヒヤの支配者が海を隔てたオマーン半島に埋蔵される地下資源の事情を知る可能性はない。専門家を派遣して調査をくり返させた結果に違いない。そうであれば、原エラム文明は、別の遠隔地にもさまざまな専門家を派遣して資源調査を行っていた可能性がある。」(同書、59頁)

もともと人類はアフリカで誕生し、それが世界に拡散していった。だから国境に縛られた現代人と異なって、移住はお手のものであったに違いなく、また自然の観察とその利用によってレヴィストロースのいう「野生の思考」を身に着けた博学者だった。銅山が開発されれば同じような地勢を探して新しい鉱脈を発見することなどたやすいことだったのだろう。

この植民は、海上ルートの開発につながった。ハリージーと呼ばれている人々とは、後藤によれば、漁民の交易民化であった。古代の交易民について後藤は次のように述べている。

「外国語、交渉術、算術、国際経済に関する知識・・・。おそらくそれはイラン高原の交易民の得意分野であり、両者の協力あるいは競合が、最初のハリージーを生み出した可能性がある。」(同書、63頁)

後藤は湾岸での交易を創り出した文明をウンム・アン=ナール文明と名付けその成立について考察している。

「それでは、ウンム・ン=ナール文化は、いかなる契機によって文明の時代を迎えたのだろうか?それは前三千年紀中ごろの、イランやインダス河流域を含む広域の情勢において説明されるだろう。とりわけ重要であるのは、アラビア湾内における海上の交易ルートが発達し、陸上の交易ネットワークとリンクしたこと、そしてインダス文明の成立に伴い、湾内からインダス河口にいたる新しい海上ルートが開発されたことである。」(同書、111頁)

前4500年頃成立していた湾岸の集落遺跡からのウバイド期の土器の発見と、それから1500年後に、イランのエラム文明都市がオマーン半島を植民化したことを結びつけ、それによって海上ルートはインダス河にまで広がったと後藤はいうのだ。

「ウンム・ン=ナール文明はオマーン半島の銅を採掘し、初期の加工を行った後に、製品を遠隔地へ送り出すという目的でオマーン半島に作られた文明である。この地域には、他地域に対する銅製品の供給という、ハフート期以来の伝統があった。そしてインダス文明の成立後は、メソポタミア、トランス・エラム、インダスという三つの文明、少なくとも三つの世界のハブと化したことがここでもわかる。」(同書、139頁)

このように、都市成立のはるか以前のウバイド期から、イラン高原ルートとアラビア湾岸ルートとの二つの交易路が成立しており、共同体間の国際交易がなされており、都市の成立はこの交易を一層盛んにしていったのだ。

 

第2章 世界貨幣の生成

 

(1)作業仮設

グレーバーの古代メソポタミア経済の分析は、外国貿易(都市国家間、あるいは遊牧民と都市国家のあいだの取引)をみていない。銀は世界貨幣として創造され、それが共同体内部では、計算貨幣として価値尺度に利用されていた。そして、世界貨幣の成立に1000年以上遅れて成立した都市国家においても価値尺度(計算貨幣)として利用されたのであり、都市国家が計算貨幣を作ったわけではない。

グレーバーは商品貨幣か信用貨幣か、という対立に対して、貨幣は双方だとみている。もともと価値形態は超感性的なものであり、人が目にすることができる外観は幻影的形態である。古代メソポタミアにおける世界貨幣銀の成立は、複数の共同体同士の関係においての物財の交換が複数の一般的等価物を生成させ、それが貴金属へと固定化された結果である。

 まず貨幣は世界貨幣として出現した。それはシンボルではなく、共同体間の商品交換の進展の帰結である。それが、市場の未発達な共同体や都市国家に反作用して、世界貨幣が価値尺度として機能し、シンボルとして認識されるようになった。古代メソポタミアの都市国家では市場は未発達で、個々の商品の価値は国家によって、国際価格を基準とした公定価格として表現されていた。ハンムラビ法典で顕著なのは、損害賠償の金額である。現実の商品交換よりも、こちらのほうがメインであったようだ。この点についてはグレーバーの人間関係の調整役としての貨幣、という見方は正しいだろう。

 

(2)マルクスの貨幣起源論

マルクス『資本論』には次の記述がある。

 「商品交換は、共同体の終わるところで、共同体がほかの共同体と・またはほかの共同体の成員と・接触するところで、はじまる。ところが物がひとたび対外的共同生活において商品となるや否や、それは反応的に、内部的共同生活においても商品となる。それらの物の量的な交換関係は最初にはまったく偶然的である。それらの物が交換されうるものであるのは、それらを相互に譲渡しあおうとする、それらの物の所有者たちの意志行為によってである。かれこれするうちに、他人の使用対象にたいする欲望が次第に確立される。交換のたえざる反復は、それを規則正しい社会的過程たらしめる。だから、時の経過につれて、労働生産物の少なくとも一部分は、意図的に交換の目的で生産されざるをえない。この瞬間から、一方では、直接的要求にたいする物の有用性と、交換のための物の有用性とのあいだの、分離が確立される。諸物の使用価値が、それらの物の交換価値から分離する。他方では、それらの物が交換されあう量的関係は、それらの生産そのものに依存するようになる。慣習は、それらの物を、価値の大いさとして固定させる。

 直接的な生産物交換においては、どの商品も、その所有者にとっては直接的に交換手段であり、その非所有者にとっては等価であるが、そうであるのは、その商品がその非所有者にとって使用価値たるかぎりにおいてのみである。だから、交換財貨は、それら自身の使用価値・または交換者の個人的欲望・から独立する何らの価値形態もまだ受けとらない。こうした形態の必然性は、交換過程に入り込む商品の数と多様性とが増大するにつれて、発展する。課題は、それの解決の手段と同時に発生する。商品所有者たちが彼らじしんの財貨を他のさまざまな財貨と交換したり比較したりする交易は、さまざまな商品所有者たちのさまざまな商品が、それらの交易の内部で一個同一の第三の商品種類と交換されかつ価値として比較されることなしには、けっして生じない。こうした第三の商品は、さまざまな他の商品の等価となることによって、直接に――たとえ、狭い限界内において似せよ――一般的な等価形態を受けとる。この一般的な等価形態は、それを生ぜしめた一時的な社会的接触と、その発生および消滅を共にする。それはかわるがわる、かつ暫定的に、あれやこれやの商品に帰属する。だがそれは、商品交換の発展につれて、もっぱら、特殊的な商品種類にこびりつく――または貨幣形態に結晶する。どんな商品種類にそれが膠着するかは、さしあたり偶然的である。しかし、だいたいにおいて二つの事情が決定的である。貨幣形態は、内部的諸生産物の交換価値の事実上自然発生的な現象形態たる、最も重要な外部からの輸入財貨に付着するか、さもなければ、内部的な譲渡されうる財産の主要要素たる、たとえば家畜のような使用対象に付着する。遊牧民族が最初に貨幣形態を発展させる。というのは、彼らのすべての財産が、動かせうる・かくして直接に譲渡されうる・形態にあるからである。また彼らの生活様式が、彼らをしてたえず他の共同体と接触させ、かくして諸生産物の交換を行うようにいたらしめるからである。人間は、しばしば、人間そのものを奴隷の姿態で原始的な貨幣材料たらしめたことがあるが、土地をそうしたことはまだない。こうした理念は、ただ、すでに発達した市民社会においてのみ発生しえた。」(『資本論』原書、93~5頁)

 楔形文字解読以前の人類学の知見にもとづいたものであるとはいえ、都市成立以前の古代メソポタミアの交易について、妥当する見解であるように思われる。今後の研究課題である。

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