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           フレデリック・ロルドン宛手紙  境毅  2020年8月増補改訂         

 

 

フレデリック・ロルドン様

 

 私は『既成概念をぶち壊せ!』(晃陽書房)の編集で、杉村昌昭さんとご一緒に仕事をしたご縁で、彼から、あなたの人となりと新著については翻訳中から聞かされておりました。このたび、訳本が出版されたので、ルネサンス研究所関西の定例研究会で杉村さんをお招きして、あなたの新著についての批評会を企画しています。それで、今訳本を読んでいる最中なのですが、どうしてもあなた宛てに私の意見を届けたくなり、失礼を顧みず、手紙をしたためています。

 

 あなたはスピノザの感情論に依拠して、今日の不妊な社会科学の限界を突破しようとしており、それ自体に異議を申し立てるわけではありません。しかし、あなたが取り上げている経済的制度は中心的には賃金制度であって、商品や貨幣そのものの検討には至っていません。これが実は私の不満であり、「人間は様態である。すなわち『他のものの内にあり、かつ他のものによって構想されるものである。』」(訳書、230頁)という卓越したスピノザの視点を、私は賃金制度だけでなく、人間を商品制度や貨幣制度の内にあるものとして分析したいと考えています。杉村さんはあなたの前の本のタイトルを訳書では意訳して『なぜ私たちは、喜んで資本主義の奴隷になるのか?』としましたが、これは私がずっと追及してきたテーマであり、現在は、私は私なりの理解を確立しています。私はこのテーマを、商品からの貨幣の生成を論じることで解明したのですが、これをあなたに伝えたいのです。

 

 問題は『資本論』の商品章、貨幣章の新たな視点からの解読ということになります。日本では、『資本論』について、大学教授たちが多くの論争を繰り広げてきた歴史があります。特に商品、貨幣章と、第三巻の信用制度については、本当に微にいり細を穿って議論されました。おかげで学会とは無縁な私のような活動家にも資本論研究の場が開かれていたのです。フランスでの論争は、アルチュセールの編集した『資本論を読む』が翻訳されていますが、それ以外の論争はほとんど翻訳されておらず、どのようだったかは知る由もないですが、私の商品からの貨幣の生成論は日本での論争の成果で、これまでの私の見解も学説批判の形で書いてきました。いまそれを論争の埒外にある外国人のあなたに向けて書くことで、自身の見解の研鑽になることを期待しつつ筆を執っています。

 

 結論から先に述べましょう。商品からの貨幣生成の原理は、『資本論』現行版では解明できず、『初版資本論』の価値形態論の研究が不可欠です。そしてそれに依拠すれば、商品からの貨幣の生成が、商品所有者たちの無意識のうちでの本能的共同行為によることが判明するのです。つまり商品所有者たちは商品に自らの意志を宿し、商品の概念を実現するのですが、そのことで商品に意志を支配されてしまうのです。この意志支配こそ、マルクスがVersachlichung(物象化)と呼んだ事態だ、というのが私の見解です。その際にマルクスが使っている、Ding(物)及びVerdinglichung(物化)と、Sache(物象)及びVersachlichung(物象化)の区別が重要になるのですが、二つの訳語が日本では共産党系の出版社の『資本論』訳本では区別されておらず、それがもとでの解釈上の悲喜劇がありました。しかもルカーチはVerdinglichung(物化)について論じているのに、これを訳者が物象化と誤訳したことで、日本の研究者たちは議論の土台そのものを見失ってしまっています。つまり、Verdinglichung(物化)の内容がVersachlichung(物象化)の内容と混同されてしまい、その結果Versachlichung(物象化)ということの理解が確立されていないのです。

 

簡単な価値形態

 ではさっそく、『初版資本論』に則して私の理解の根拠を示すことにしましょう。商品の価値形態とは、二つの商品の関係ですが、関係を把握する論理学はヘーゲルにあっても未開発です。マルクスは簡単な価値形態の分析で、関係を把握する論理を展開しているのですが、問題は価値の現象形態が感覚ではとらえられず、超感性的なものであるというところにあります。価値の現象形態それ自体は人間の感覚ではとらえられません。逆にいえば人間が感覚によってとらえられる価値形態は、超感性的な現象形態が人間の感覚に与える幻影的形態であり、それ自体は現象形態の正体を覆い隠すものだということになります。

 X量のA商品=Y量のB商品 この簡単な価値形態において、X量のA商品の価値が、Y量のB商品の価値に等しい、というように人々は理解するのですが、価値の現象形態はそのような常識的理解の彼方にあります。なぜ異なる使用価値をもつ商品の価値が等しいという関係がどのようにしてつくりだされているのでしょうか。常識的理解はこのことについて一切思考することを断念しています。ここでの問題は、異なる使用価値が価値という等しいものを表示しているのですが、その表示のメカニズムを解き明かすことです。X量のA商品がY量のB商品と価値が等しい、という人間の把握とは異なって、X量のA商品がY量のB商品と等しくあるためには、B商品の使用価値自体がA商品の価値の表示者である、という関係をつくりださなければならないでしょう。そうすると、この関係のなかでは、B商品の使用価値がA商品にとっては価値以外の何ものでもないと見なされていることになります。このことは同時に、A商品も価値以外の何ものでもないB商品の使用価値と同等なもの、つまりは価値であるということを表示することになります。

 この関係(簡単な価値形態)では、このような回り道によって、A商品の使用価値もB商品の使用価値も、同じ価値として現象するのです。この現象においては、使用価値が捨象されており、異種労働の抽象的人間労働への還元がおこなわれていて、これはある種の抽象作用です。人間の思考の論理の場合、抽象は分析的にしかなされません。それとは異なって、二つの商品の価値関係にあっては、双方が関係することで抽象がなされます。これは事態抽象と呼ばれていますが、これが思考の論理による抽象作用とは異なるものなので、思考の論理的理解の彼方にあります。思考の論理的理解の彼方にある抽象作用についてはそれとして了解する以外にありません。人間以外の外の主体である商品価値の存在の仕方についての了解が、ここでは求められているのです。

 二つの商品の価値関係において、価値がどのように現象しているかについてこのように読み解くことで、一つの形而上学的・神学的事態に直面します。それは、この関係においては、B商品の使用価値が価値の化身とされていることです。この事態にマルクスは形態規定と名付けました。関係において、一方の極が、他方の極からの働きかけによって、自然的形態とは別の社会的質を与えられること、価値関係の場合は、使用価値という商品の自然的形態が価値という社会的なものの化身とされているのです。これがマルクスが明らかにした価値形態の秘密です。私見によれば、これが物象化の原理をなしています。しかし、人びとの感覚には自然的形態は把握できても社会的なものは把握できません。こうして自然的なものが生まれながらに価値の化身という属性をもっているかのような幻影的形態が生み出されます。これが物神性の原理です。

 

価値形態の発展

 まず『資本論』初版本文価値形態論の四つの形態を示し、次いで現行版の際Ⅲ形態と第Ⅳ形態を上げてその違いを見ましょう。

 

(1)初版第Ⅰ形態(簡単な価値形態)

   20エレルのリンネル =1枚の上着

(2)初版第Ⅱ形態(展開された価値形態) 

   20エレルのリンネル  =1枚の上着

            = u 量のコーヒー

            = v 量の茶

            = x 量の鉄

            = y 量の小麦

            =・・・・・・・

(3)初版第Ⅲ形態(一般的価価形態)

 1枚の上着   = 

 u量のコーヒー =     

 v量の茶    =

 ・・・・・・・ =

image003.png

​20エレのリンネル

(4)初版第Ⅳ形態(最後の形態)

 20エレルのリンネル =1枚の上着

            = u 量のコーヒー

            = v 量の茶

            = x 量の鉄

            = y 量の小麦

            =・・・・・・・

 

 1着の上着      =20エレルのリンネル

            = u 量のコーヒー

            = v 量の茶

            = x 量の鉄

            = y 量の小麦

            =・・・・・・・

 

 u 量のコーヒー     =20エレルのリンネル

            =1枚の上着

            = v 量の茶

            = x 量の鉄

            = y 量の小麦

   

 v 量の茶        =・・・・・・・

(5)現行版第Ⅲ形態(一般的価値形態)

 1着の上着    = 

 10ポンドの茶  =

    4ポンドコーヒー =            

 ・・・・・・      =

image001.png

20エルレのリンネル

(6)現行版第Ⅳ形態(貨幣形態)

 1着の上着    = 

 10ポンドの茶  =  

 4ポンドコーヒー =   

 ・・・・・・      =  

image001.png

2オンスの金

 『資本論』現行版の価値形態論は、価値形態の発展のところでも初版の内容は大幅に書き換えられています。とくに第Ⅳ形態が全く異なるのです。現行版では第Ⅳ形態は貨幣形態ですが、初版では(4)のような、貨幣生成不能な形態となっているのです。

現行版では(5)の等価商品はどの商品でもいいのですが、次に、特定の商品金に固定された形を第Ⅳ形態(6)とし、それが貨幣形態として説かれています。

 初版では価値形態論においては貨幣形態を導きださずに、むしろ貨幣生成不能な形態を第Ⅳ形態(4)としています。そして、次の商品の交換過程で、貨幣生成を解いているのです。

 

商品の交換過程での貨幣生成論

 『資本論』現行版では、貨幣の生成が、価値形態論と交換過程論の双方で解かれていて、日本ではこの二重の叙述をどのように解釈するかで論争がありました。しかし交換過程論は初版からほとんど変更されていませんから、叙述の一貫性という点で考察しょうとするならば、初版に則して議論すべきでした。ところがこの論争でだれも初版を参照することはなかったのです。もし初版を取り上げていれば、忘れられてしまっていたマルクスの貨幣生成論の復元に至ったことでしょう。

 初版の価値形態論では商品が主体とされ、商品が社会的に妥当な形態をどのようにして獲得するかという観点からの考察でした。ところが商品だけではこの概念は示せたものの(第Ⅲ形態)、その形態自体は作り出せないという結論を、マスクスは、初版第Ⅳ形態で示したのでした。そして商品所有者が登場する商品の交換過程において、商品所有者が商品に自らの意志を宿すことで商品の概念を実現し、そのことで貨幣が生成されるという独特の貨幣生成論の解明に成功したのです。こうして商品からの貨幣生成は、商品所有者たちの無意識のうちでの本能的共同行為によることが明らかにされました。ここで本能という言葉の意味はもともと人間にそなわっている本能という意味ではなくて、商品に指示された社会的行為をあたかも本来の人間の本能的行為であるかのごとく錯覚して行動することを指しています。

 先に価値形態の秘密が物象化の原理であることを指摘しましたが、貨幣生成をこのように捉えれば、ここでは商品による人格に対する意志支配が成立しており、物象化とは実は商品という物象による人格の意志支配であるという結論がえられます。

 そこで二つの問題がでてきます。一つはなぜ人は商品に意志を宿せるのか、ということであり、もう一つは、何故商品に意志を宿すことが自由と観念されるのか、ということです。一つ目にかんしては、商品は人間の労働の産物ですが、私的所有と分業のもとではそれは交換によってしか社会性をもてません。この社会性が価値ですが、商品の価値形態は人間にとってはある種の象形文字であり、異種労働の生産物を共通な社会的労働に抽象し、そして判断を示しています。人間の思考も対象を抽象して判断を下し言語で表現するのですが、商品も、その抽象の仕方は思考と異なる事態抽象ですが、X量の商品Aがいくらの価値をもつかということをB商品との比較で判断し、Y量という結論を導いているのです。人間は商品の「思考方法」は理解できませんが、象形文字で示されている判断だけは理解できます。商品の価値形態という象形文字の解読はできませんが、それが示す判断だけは理解できるのです。つまり商品は思考と同様の概念的存在であり、人間は安んじてこの物象に意志を宿せるのです。

 では二つ目に移りましょう。商品は価値としては社会的なものですが、使用価値としては自然物です。価値形態自体は超感性的ですから、それは把握できず、人間にとって把握できるのは使用価値としての商品であり、これは単なる自然物です。ですから価値の法則は人間にとっては自然物が持つ法則として捉えられます。自由と隷属の感情は、人間相互の関係において意識されるものであり、自然法則にあっては法則性の解明によってそれを利用することが自由と観念されます。つまり自然法則への順応が自由と観念されるのです。商品は人格の遺志を支配する物象ですが、人間は物象の社会的力を自然力としてしか認識できませんから、商品による人格の意志支配は、自然法則への順応と同等なものとして認識され、こうして、商品に意志を宿すことが自由意志の発動だと観念されるのです。

 実際に商品市場に登場する商品所有者たちの意識を考察してみましょう。彼らは自分たちの商品に市場価格をつけて売ろうとしているのですが、この価格付けが、実は金を貨幣とする商品所有者たちの共同行為への参加なのです。彼らの価格付けという意志行為の裏面に共同行為による貨幣生成という事態があるのですが、しかしこの事態は決して彼らに意識はされません。したがって、彼らにとっては貨幣生成の行為は、無意識のうちでの本能的共同行為とならざるをえないのです。

 

賃金制度について一言

 賃金制度について、あなたの理解は、マルクスは労働の疎外を強調したが、労働の解放的側面を重視はせず、しかしフォーディズムのもとでは労働の解放的側面を位置づける必要があるということのようです。しかし、フォーディズムは、発展途上国との関係で考察することが必要であり、発展途上国からの賃金の国際的な移転があって、先進国の労働者階級全体が労働貴族化していたと見た方がいいかと思います。ところが新自由主義の登場と発展途上国への工場の移転とグローバルズムのもとでの労賃の国際的平準化、これが先進国での経済成長の停滞と、貧富の格差の拡大となっているのではないでしょうか。新自由主義が労働者を労働力という資産の所有者とみなし、人的資本として位置づける試みは、賃金制度が生み出す幻影的形態に依拠したデマゴギーでしょう。このデマゴギーが支配力をもっているという現実は、商品・貨幣による人格の意志支配にあるのではないでしょうか。

 

自己紹介

 私は、1941年生まれ。1960年の日本の全学連の安保反対闘争に参加したことを契機に、その後新左翼の活動家として70年には武装闘争も経験し、その総括から、80年代後半からは新しい社会運動としての生協運動にかかわり、その後NPOや社会的経済・社会的企業の促進活動にかかわってきました。日本の大衆運動は、2011年3.11大震災と原発事故後復活しますが、2010年末に共産主義を再興するルネサンス研究所設立にかかわり、私は現在は生協に籍を置き、大学などの研究機関とは無縁なので、研究活動としてはルネサンス研究所での活動が中心となっています。なお、共産主義の党の再建は無理だと考え、現在の党活動はシンクタンク活動として展開すべき、という見解にもとづいて、この24年間、個人のニューズレター(『ASSB』誌、隔月刊)を配信してきています。

 近著『「資本論」の核心』(情況新書、2014年)

 

                                                                              境 毅

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