聞き取り調査当事者の自己紹介(2)  

  

   

  『追想にあらず』(三浦俊一編著、講談社エディトリアル、2019年)寄稿文 「建軍の時代――体験的振り返り」 榎原均

 

著者による解題

 掲載された論文には一部省略がありますが、それを復活させています。省略された箇所は「はじめに」にある第五段落、「さて、この文章は、・・・記憶違いが山のように出てきた。」、および第六段落、「私は、政治運動の最後の場面で・・・これはある意味驚きだった。」です。

 あと校正の段階で若干の修辞上の修正がありますが、それはこの寄稿文では統一していませんので掲載されたものと異同があります。

 

はじめに

 アラブの春、エジプトのタジハール広場、スペインの一五M、アメリカのウォール街オキュパイ、日本の反原発運動、これらの運動の波を創造した人たち。ビュフォーやグレーバーや、不可視委員会などの主張に共感した若者たち、また、雇用労働をやめて、田舎で百姓を志願し、自給している人たち、また大都会で自営業に取り組んでいる人たち、さらには、社会的連帯経済の拡大をめざし、協同組合やその他の非営利組織で非営利の事業に従事している人たち。私は、このような人たちと、社会運動家として日常的に連帯してきたが、元「極左」として活動した者として、過去の活動を語ることはあまりなかった。そのような過去の自身の振る舞いについて反省し、私の政治運動の経験を報告することで、遅まきながら総括の素材を提供することにしたい。

 というのも、この新しい運動は、旧来の政治運動とは違っていて、社会的政治運動とでも呼ぶほかはない。この新しく勃興した社会的政治運動と、それに連動するオルタナティブな生活文化を発信している人たち、そういう人たちにとって、日本の反原発運動が後退を迫られ、野党は無力化し、公明党に支えられた自民党の一強支配が継続しているという苦い現実がある。

 さらには、体制から「極左」や「テロ集団」と呼ばれてきたグループの無力化は一体何なのか、おそらく理解不能だろう。海外では「極左」は発想を変えて甦っているというのに。その理由の根本は、日本の「極左」の経験がやりっぱなしで、継承されるような形で整理されていないことにあるとおもわれる。今回の論集に私も体験的振り返りの一文を寄稿して、その穴を埋めたいと思う。

 私は、二つの大闘争を一から組織する過程に参画できたという稀有な経験を持っている。六〇の安保闘争と六九~七〇年代初頭の武装闘争である。一から運動の組織化過程に参画するという経験は、偶然のたまものであるとはいえ、今後の若者たちにとっては、おそらくそのような機会が多々訪れるであろう。それでエピソードを交えつつ経過について述べておこう。

さて、この文章は、初稿を二か月前に記憶だけを頼りに書いた。その続きに若者たちへの提言があったのだが、それは「政治運動と社会運動とを横断する新しい大きな物語を紡ぎだそう」という別稿として独立させた。そのあと、この文章の完成のために読み返してみると、記憶違いが山のように出てきた。

 私は、政治運動の最後の場面で、七〇年代武装闘争を総括した後、ソ連崩壊の原理的根拠が判明したことで、政治運動から社会運動へ転身した。そのことも、政治運動時代の記憶喪失の原因かもしれない。しかし、いまから振り返って分かることは、記憶に残っているのは、いろいろな闘争現場のことで、原稿を書いている時期は結構長かったのに、全く記憶に残っていないことだ。これはある意味驚きだった。

 赤軍派や連合赤軍が、闘争のたびに幹部を逮捕されたのとは違って、私は、一九六九年七・六事件のあとに上京してから、一九七六年一〇月に逮捕されるまでずっと地下活動を継続できていた。だから私の属していた党派は、いろいろ変遷はあったが、自派の活動も含め、各派の武装闘争の評価や総括はつど組織的に表明することができていた。これは非常にまれなポジションにいたことであって、私たちのその都度の意見表明は、文書として残っている。もちろん私たちは、赤軍派や連合赤軍やアラブ赤軍の当事者ではないので、主体的総括はできない。しかし同時代を生き抜いた武装闘争派として、その時々の各派の闘争への評価はいまでも読まれる価値はあると考えている。

そのような観点から、この文章は体験的振り返りの中に、私たちのその都度の意見表明や理論活動を織り交ぜて述べることにしたい。

 

一 一九六〇年代

 一九六〇年の安保闘争は、前年から始まっている。五九年入学の私にとって、入学直後の安保改定反対の四・二八デモに、小学校六年生の時の同級生で、大学で再会した高瀬泰司に誘われて参加したことを入り口に、授業はほとんどほったらかしで、学生運動に明け暮れた日々を送ることになる。当時の京都大学は、五八年に共産党細胞から党員が集団離党して、彼らの多数が新しく結成された共産主義者同盟(ブント)に加盟しており、キャンパスには共産党の影すらなかった。当然共産党を経由してブントを立ち上げた人たち、二回生~四回生(医学部にはもっと年上の人がいたが)の先輩たちが指導部で、当時ブントの組織には五〇名くらいはいたと思われ、指導部の層は厚かった。なので、よほど政治センスに恵まれた人間ではないと、同期の一回生でリーダーシップをとることにはならなかった。

 私は、政治家などめざしたこともなく、ノーベル賞の湯川博士にあこがれて、理学部に入学していたこともあり、安保闘争の二年間は、もっぱら縁の下の力持ちの役割を担当していた。例えば、六〇年六月の安保決戦の時に、みんなが国会デモに参加した時、なんと私は、同じ時期の同学会(学生自治会)の選挙管理委員長をやっていて、大学から動けなかったし、安保闘争以後の新島や三池などの現地闘争にも兵站の役割で参加はかなわなかった。

 私は、卒業しないまま七年間留年を続け、最後に退学勧告を受けて中途退学したのだが、当時は学生運動の中心メンバーも四年で卒業して、一流企業に就職することが当たり前で、不器用に活動を続けていた私は、留年中も後輩たちと一緒に学生運動の縁の下の力持ちを続けることになる。

 政治運動のためには、歴史学、政治学、経済学、哲学等の横断的な研究が必要だが、理学部入学だったため、私は、全くの独学でこれらの知識を獲得した。一兵卒として六〇年安保闘争を闘ったが、共産党から分離した共産主義者同盟(ブント)は、分離したばかりの時期に、昂揚しつつあった安保闘争の組織化に賭けていたために、党組織としてのさまざまな活動には手が回らなかった。機関紙・誌の発行はなされていたが、ブント構成員のうちの共産党体験者たちが、共産党時代に体得した組織活動を手本にさまざまな指導をしてはいたとはいえ、学生大衆運動の組織化については自分たちでつくりだすしかなかった。その意味で、六〇年安保闘争の時期には、ブントは学生大衆運動の闘争委員会としては機能していたが、独自の党活動については全くメンバー任せだった。

 当時ブント京大細胞では、必読文献として、マルクス、エンゲルス、レーニン以外では、対馬忠行『ソ連「社会主義」の批判』、埴谷雄高『幻視の中の政治』、梅本克己『過渡期の意識』、黒田寛一『社会間の探求』、谷川雁の諸書作、吉本隆明の諸著作が推薦文献だったように記憶している。ほかに宇野弘藏『経済原論』などもあったが、経済学は全くの知識がなく、『賃労働と資本』を読むのが精いっぱいだった。

 これらの推薦文献のうち、私の気に入ったのは谷川雁『工作者宣言』(中央公論社、一九五九年)だった。谷川は、当時は共産党員ではあったが、共産党とは一線を画してサークル運動を展開していて、それが私の組織活動の指針となっていたようなのだ。

 久しぶりに読み返してみると、トップに置かれている論文「工作者の論理」の書き出しは「私は見えないものについて語る人間です。」(『工作者宣言』潮出版社、五頁)とある。これはかすかに記憶に残ってはいるが、当時理解はしていなかったようだ。しかし、いま私は見えないものについて語る人間になっている。あと「私は自我を、私のなかに侵入した他人とみなす」(同書、七頁)とある。これもデカルト的自我の批判であり、私は今取り組もうとしている問題だ。さらには、「つまりそれは論理では語ることのできないものを語ろうと決意し、ついには新しい論理を切り開く人間です。」(同書、二一頁)、というのも、今の私を予言しているかのようだ。しかし、当時私が理解できたのは次のようなくだりだったろう。

 「だが工作とは伝達の可能を信じることです。それゆえにまた伝達の困難を知りつくすことです。この意味で工作は避けることのできない誤解に沿って進んでゆきます。」(同書、八頁)

 「大衆に向かっては断固たる知識人であり、知識人に対しては鋭い大衆であるところの偽善の道をつらぬく工作者のしかばねの上に萌えるものを、それだけを私は支持する。」(同書、一二頁)

 「先進分子だけで平和委員会を作るより、四人のサークルを数年もちこたえて停滞させないことの方が百倍もむつかしい。それがあればこそ平和委員会もできるのだ、という平凡な道理が通らないうちは、日本の民主主義は果樹園を育てる百姓の保守性にかなわないのです。」(同書、一七頁)

 共産党入党の経験がなく、党派活動のイロハも知らなかった私にとって、共産党の五〇年代の武装闘争の敗北の後、党派としての影響力を失ってしまった共産党党員の一人であった谷川雁のこのような地べたを這うような活動スタイルは、政治家志望ではなかった自分自身の身の丈に合ったものだった。

 六〇年六月決戦で敗北し、以降学生運動は停滞する。教養部で千名以上の参加者があったデモが一気に二けたに落ち、大いに落胆させられたが、大学の授業に復帰する気は毛頭なく、一一月祭実行委員会(この時のテーマが有名な「仮眠の季節における僕たちのあいさつ」だった)に参加し、そのあと再刊された雑誌『学園評論』の編集を手伝ったりしていた。しょぼくなったデモはそれでも統一行動があれば、ビラづくり(ガリ版を使って原紙に鉄筆で手書し、その原紙を謄写版で人力印刷した。原稿作成も含め下手すれば徹夜の作業となる)と、早朝からの学生への配布などの組織活動を継続し、ほかの時間は読書会などのある種のサークル活動をやっていた。授業に復帰する気にならなかったのは、今から考えると、安保闘争の敗北の原因の追究という自身の中で芽生えた探求心を抑えきれなかったからであろう。

 安保闘争中の問題意識は、学生運動先駆性論に見られるように、学生運動だけで勝利できるとは考えておらず、労働者階級が立ち上がることを期待していた。だから私にとっての敗北の総括は、労働者階級がなぜ実力闘争に立ち上がれなかったのか、という問題であり、そしてこの問題意識にヒントを与えてくれたのが、シュトルムタール『ヨーロッパ労働運動の悲劇』(岩波書店)だった。ついでに述べておくと、一九一七年のロシア革命を活写した、ジョン・リード『世界を揺るがせた十日間』(岩波文庫)も愛読していた。

 しかし、日本の階級闘争の歴史については何故か研究しようという意識が生まれなかった。たかだか一〇年前の共産党の火炎瓶闘争について、言葉としては知っていてもその内実を調べようとする気にはなれなかった。まさか自分自身が一〇年後に武装闘争を決意するなど想定外だったのだ。また差別問題についても、当時は部落問題研究会があり友人も参加していたが、在日朝鮮人への差別の問題も含め、かかわる気持ちにはなれなかった。

 六〇年六月、早くも東京でのブント中央の分裂があり、その経過は追わないが、関西には分裂は波及してこず、いわば静観していた。ただ、のちに革共同に主要メンバーが移行することになったので、なぜそうなったのかということが気になり、黒田寛一の主体性論の批判の必要性を感じていた。そのようなときに労働者協会として再出発する動きが関西で始まり、機関誌『烽火』が発刊されるようになり、私はそのもとで地区党活動を始めるために京都府委員会の事務所を作ってそこに通い、また京都での労働者サークル活動を始めていて、労働運動の歴史にも興味を持っていた。(注一)

 その際の指針となったのが、谷川雁の大正行動隊の行動方針だった。

 これは私が編集部にいた『学園評論』第五号(一九六二年一月)に、谷川の大正行動隊の闘争を紹介した「百時間」が掲載され、それを読んで以降の自らの行動指針としたものである。それは次のような内容だった。

「組織原理?気のきいた言葉じゃないか。習った言葉だよ、谷川雁から。習ったのは言葉だけじゃない。前から『やりたいやつはやるがいい、やりたくないやつはやらんがいい』と思っていたのだ。しかし、それじゃ組織になるまいと思っていた。ところが行動隊を作るとき、雁さんが『それでいこう』といったのだ。それで掟がきまった。

 ①やりたくない者にやれとは強制しない。

 ②自分がやりたくないからという理由で、やるものをじゃましない。

 ③やらない理由をはっきりさせる。

 ④その理由への批判は自由。

 ⑤意見がちがってやらなかったからといって、そのことだけで村八分にはしない。意見が合ったとき行動すれば、隊員と認める。――それでやってみて分かったことは、束縛がなければ労働者はのびのびと自発的に行動する。ただ全員が一瞬ひるむようなときがないでもない。そのときのためには厳然たる規律をもった核がいるということだった。」(谷川雁「百時間」、『学園評論』第五号、八頁。八木俊樹編集、私家版谷川雁著未公刊論集『無(プラズマ)の造形』、一九七六年、五八五頁。『谷川雁セレクション』Ⅱ、日本経済評論社、二〇〇九年、一二三~四頁。『無の造型――六〇年代論草捕遺』潮出版社、一九八四年、一四七~八頁)(注二)

 これは後程、伊方原発の事故をきっかけに始まり高揚した反原発運動で、上野千鶴子の紹介に依拠して、伝統的な反原発運動の組織化に反対してニューウエーブと称された、小原良子さんたちが採用した組織論だった。

さて、『烽火』の編集会議で私は労働運動対策(労対)を担当することになり、大阪中電労研の前田裕吾(今年七月に鬼籍に入られた)や、数少ない民間の労働者とサークル的な活動に入ることになる。

 この私の労対活動にとっての転機は、三菱重工長崎造船所の左派組合運動の担い手だった、長崎造船社会主義研究会つぶしをめざした第二組合の結成だった。鉄鋼労連や全造船、そして電機労連など民間大企業の組合では、それまで盛んであった左派組合運動の拠り所であった職場闘争をつぶすために、企業と組合幹部が結託して、上からQCサークル(品質管理サークル)などのさまざまなサークル運動を組織し始め、左派の職場内サークル運動を圧倒しつつあった。その上にさらに左派の活動が優勢な組合には第二組合攻勢が仕掛けられたのだ。

 長崎造船社会主義研究会は、この攻撃に対して全国に檄を飛ばし、三菱三重工の組合を強くする会を結成して、逆に全国の三菱の事業所にチラシを入れ反撃に転じた。私はこの活動に賛同し、高瀬泰司と一緒に長崎まで出向いて、パンフレット作成に協力し、帰ってからは、京都にある三菱自工への朝ビラ入れを社青同のメンバーと一緒に行い、一人の労働者(炭鉱離職者)の参加を得て、ほかの企業の労働者のメンバーも加えて、京都で労働者サークル活動を新たに経験することが出来た。強くする会の活動で一番大きな拠点は名古屋に出来、ここの中心メンバーは学生時代同期で、一度交流に行ったことがある。

(注一)

 ブント関西地方委員会の主要メンバーは、一九六一年暮れには労働者協会という名称でサークル活動を開始し、十数ページのパンフレット『烽火』を発行し、党の再建にそなえた。創刊号は一九六一年一二月一〇日で、翌年四月までに八号を発行し(最終号は八・九合併号)、一九六二年六月に関西ブントを名乗り、機関誌の名称も『共産主義』に変更し、烽火の継承として、第一〇号とした。

 『共産主義』は一三号(一九六二年一一月)で終刊となり、新聞『烽火』に引き継いでいる。新聞『烽火』は第一号が一九六二年一一月に発行され、以降四五号(一九六五年六月)まで続いた。

 他方社会主義学生同盟は関西独自の機関誌『戦士』を創刊した。第一号は、一九六三年一〇月一日付であり、最後の六号は、一九六五年発行である。これらは全て、サイト「リベラシオン社」でPDF化されていて読むことができる。

(注二)

 八木俊樹編集、私家版谷川雁著未公刊論集『無(プラズマ)の造形』、一九七六年、は非売品である。しかし谷川雁愛好者には結構いきわたっているようだ。この本の愛藏者で、編集者の八木俊樹に興味を持ち、八木俊樹の遺稿集『逆説の對位法〔ディアレクティーク〕――八木俊樹全文集』(八木俊樹全文集刊行委員会、二〇〇三年)を長年探し求めて、ついにその入手方法を書いた私の『ASSB』誌メール版二六巻第一号にアクセス出来て注文があった。

 八木によれば、谷川雁の未刊行論集を造って谷川雁に出版を打診したところ断られた、と聞いている。それで、私家版として製本し、同好者に配布したようだ。大正行動隊時代の記録が全部収録されているが、それが拒否の原因だろう。なお、論文「百時間」が掲載されている単行本を探してみたが、『谷川雁セレクション』Ⅱ、日本経済評論社、二〇〇九年に掲載されていることが判明したが、この本は何故かアマゾンでは取り扱っていない。ほかには比較的入手しやすい『無の造型――六〇年代諭草捕遺』(潮出版、一九八四年)には収録されている。

 

二 六〇年代半ばから七〇年闘争の準備に入る

 六〇年代中期に、関西ブント関西地方委員会のリーダー、佐野茂樹は、七〇年に武装蜂起とソビエト運動を構想し、関西地方委員会に提案している。これはつまり、ロシア革命の経過である、一九〇五年の革命の挫折と一九一七年の権力奪取にアナロジーして、六〇年安保闘争の挫折を踏まえて、七〇年に武装蜂起とソビエト運動で対抗しようと考えたわけだ。

 当初は単に絵に描いた餅のように思っていたが、しかし、六六年ころから反戦青年委員会の活動が始まり、六七年一〇月八日の羽田闘争での、山崎博昭君の機動隊による轢殺以降、運動の大衆化と党派の拡大が進み始めた。さらに、翌年の佐世保でのエンタープライズ寄港反対現地闘争の盛り上がりを契機に、関西の労働者のあいだにも新しい運動の波が起こり始めた。地区反戦青年委員会(地区反戦)の闘争の提起に賛同する青年労働者が、自由に政治運動を始めたのだ。これは私にとって驚きだった。六〇年安保闘争時には組織労働者の闘いはあったが、それに対する批判的な労働者はごく少数であった。当時多くの労働者を動員した総評に結集していた労働組合は、組合員に対して日当を払っていた。

 六〇年安保闘争のあと労働者を獲得しようとさまざまな努力をしたが、労働組合の締め付けは強力で、少人数のサークル活動が関の山だった。ところがこの時には、組織労働者たちが、労働組合の統制から離れて、自由に地域での政治運動に参加してきたのだ。また、このような動きに対して中小企業の経営者たちは危機意識を持ち、反戦派労働者に対する解雇や配置転換をはじめとする様々な攻撃を仕掛けてきた。私が直接現場に支援に行くことができた闘争だけでも、マツダ自販、堺経理専門学校、塩水港闘争などがあり、これらの闘争で私たちは地域共闘を組織し、学生も含めた大勢の応援で、経営者の度肝を抜くことができた。当時私たちが組織していた関西地区反戦連絡会議は、関西での新たな労働者部隊として、三〇〇名を擁し、華々しく登場していたのだ。

 このような変化を受けて、私は労働運動にとっても、ソビエト運動は課題であると考え、七〇年にソビエト運動の端緒を切り開く、という観点から活動を組み立てるようになっていた。その際、戦後労働運動論を、藤田若雄の『日本労働協約論』(東京大学出版会、一九六一年)に学んで、ものにしようとし、これは七〇年闘争準備過程で『反帝統一戦線と階級的労働運動』(一九六九年)にまとめられている。この書では、戦後日本の労働運動の総括に基づいて、「中央権力闘争とマッセンスト」という当時の方針を位置付けている。

 

三 独自の軍隊としてのRG建軍

 私の政治にかかわる姿勢が変わったのは、RG(ローテ・ゲバルト=赤軍)建軍と非合法党建設だった。このとき初めて政治的リーダーシップを意識した。

 六九年五月、東京から(故)塩見孝也が来て、関西地方委員会のメンバー三人と会合し、独自の軍隊建設で合意した。それまでの武装は自然発生的なものであったが、今後は独自の運隊を組織しないと権力の壁は打ち破れず、階級闘争は発展しないという認識で一致したのだ。

 この後、東京に帰った塩見は、それまで彼らのフラクションが発行していた機関紙『赤軍』での扇動だけでなく、軍隊としての赤軍のメンバーを公募し始めた。これは合意事項とちょっと違う。我々関西地方委員会は、労働者の軍隊を想定し、それも非合法党の下での軍で、公募など思いもよらなかった。そのうちあの、七・六事件となり、関西でもこの評価をめぐって大論争が起きた。この関西地方委員会内部での赤軍派との論争を勝利的に終え、いろいろな教訓を学んだうえで、第一次RG建設が始まった。

 RGの隊長には(故)大森昌也が就任したが、私は、彼とはマツダ自販の配置転換反対闘争に取り組んだことがあって周知の仲間であった。それで七〇年に入ってからはRG建設上の諸問題についていろいろ情報を得ていた。RG建設でまず始めたのは職場を退職し、日雇い仕事などで稼ぎながらの合宿生活だった。そうするとメンバーはどうなるか。何のためにここにいるのか、という問いが生まれ、それは最終目的である共産主義とは何かという問題に煮詰まって、共産主義論争が隊員の間で繰り広げられた。当時は(故)田原芳も、関西地方委員会のメンバーで、RG建設にかかわろうとし、共産主義論争をリードしようとして文章を量産していた。

 

四 七月に上京、東京での活動となる

 七・六の内ゲバで、指導部の仏議長らが入院治療後逮捕されることで、東京の第二次ブント指導部が弱体化し、それなら、ということで、私が指名されて異動することとなった。身分は中央委員だった。

 中電マッセンストを放りだす形となり、一生を労働運動にささげようという、私の人生設計が狂ってしまったが、何の足場もない東京で、中央委員として活動することになる。当時、東京には若手の活動家が台頭してきていて、早稲田、明治、中大、専修には素晴らしい活動家たちがいた。私は、その行動隊長的な若手活動家と、破防法攻撃で地下に潜っていた政治局とのパイプとしての役割を与えられ、彼らとほんの短期間(多分新たな分裂が起きるまでの半年間)であったが、九回大会ブントとして、六九年から七〇年闘争の最終局面を闘うことになる。この経験は関西での活動では決して得られない貴重なものだった。この時の若手活動家は、故人も何人かいるが、私にとっては盟友だ。

 

五 第二次ブントの分裂と赤報派結成、武装闘争の再開

 七・六で赤軍派が脱走して以降の第二次ブントは、諸派の連合だった。叛旗派、情況派、仏派、関西派、それに佐々木書記長が新たに組織したBL派が主な分派だった。そして七〇年には、出獄してきた(故)荒岱介が、BL派から分離して荒派を立ち上げ、第二次ブントは新たな分派闘争に入った。七〇年一二月一八日に関西派は荒派と決別し、一二・一八ブントを結成し、RG(第一次RG)を維持して武装闘争の継続を追求した。この時に組織的な内ゲバが行われた。この時の内ゲバに関しては、私は機関誌担当だったので、直接関与してはいない。後で聞いた話だが、このときには、私も荒派の内ゲバのターゲットに入っていて、居場所を特定されていたが、攻撃直前になって中止指令が出たという。

 この時期の私の身の振り方であるが、七〇年春に九回大会ブントRGとして、東京で最後の戦闘を終えた後、七一年秋の赤報派結成までの一年半の記憶は完全に途絶えている。実は私は、この間機関誌担当として、もっぱら論文を書いていたようなのだ。私が就職もせず、指導者として求められていたわけでもないのに、ずっと活動を継続してこられた理由は、先にも少し触れておいたように、やはり安保闘争の敗北の総括問題だった。敗北体験から、敗北の原因の解明という意識をもち、これにいわば魅せられてしまったのだ。ヨーロッパ労働運動の敗北の原因を、労働者の労働力商品所有者意識への拝跪に求めた私は、この意識とどう闘うかの解明に心血を注ぎ、レーニンの外部注入論の新たなバージョンを開発しようとしていた。この観点から宇野経済学の批判と黒田哲学の批判に取り組んだ。そのうち『資本論』の研究も進み、ブントが依拠した宇野理論や、またのちにブントの主要メンバーが移行することになる革マル派の黒田理論が、労働者の労働力商品所有者意識の批判には向かっておらず、むしろそれに迎合していることがわかり、この観点から宇野理論と黒田理論の体系的批判に取り組んだ。その長年の研究の成果を『共産主義』一四号(一九七一年二月)と一五号(一九七一年六月)に盛り込むことができた。

いったんは関西派として活動していたが、やはり建軍の志は捨てがたく、同志を募って関西派から分離して、新たに共産主義者同盟(RG)(赤報派)を立ち上げた。そして武装闘争を再開した。七一年のことだ。この時のRGが第二次RGである。そして六九年五月に塩見孝也と軍建設で一致した関西地方委員会のメンバーは、二人とも同志だった。

 私たちは、六九~七〇年の武装闘争の総括の上に、国際非合法党の建設をかかげ、政治局(PB)=軍事委員会(YB)、RG=政治軍隊、非合法党の建設、という組織路線を掲げた。そして、最初のテスト的武装行動の後、一旦退却して大都市で地下に潜行し、武装闘争再開のチャンスをうかがっていた。

 一九六九年七・六以降一連の赤軍派の闘争があった。大菩薩峠での一斉逮捕劇、田宮らのハイジャック、連合赤軍の浅間山荘での壊滅、アラブ赤軍の闘い、と続く。そしてその後に、赤軍派とは別に、東アジア反日武装戦線の闘いが始まり、これが三菱重工前の無差別爆弾攻撃となったことで、一つの時代の幕は閉じられることになる。

 私たちは、地下潜行中であり、これらの闘争の評価を定めつつ、武装闘争の再開か、党活動の転換か、ということについて、七五年ころから組織内議論を開始し始めていた。そして忘れもしない、七六年一〇月一三日の金曜日に一斉逮捕された。逮捕された翌日かの新聞には、中国の四人組の検束のニュースが一面トップに踊っていて、時代の変わり目を痛感させられたことを覚えている。

 

六 獄中の七年間

 私の逮捕容疑は爆発物の製造であり、しかもその容疑は第一次RGの戦闘の件だった。適用された法律は爆発物取締罰則であり、それは明治憲法制定前の太政官布告だった。これは異常に量刑が重く、私は、下獄しないで未決拘留で過ごすことを考え、裁判を長期化させ、七年二〇日、ずっと未決で過ごした。刑に服してしまうと監獄労働を課せられ、自由な時間を奪われるからである。腹をくくって理論問題に集中した。一つは『共産主義』一四号と一五号や、その後『序章』一四号~一六号に掲載された宇野理論批判の仕上げであり、それは友人たちが『「資本論」の復権』(一九七八年刊行)として出版してくれた。他方は、逮捕前から手掛けていたソ連論研究の継続だった。またずっとわからずじまいだった『資本論』の価値形態論についても初版の研究を始めた。ソ連論は機関紙『赤報』に「ソ連における階級の形成」を連載し、また、私の最初の初版価値形態論の研究を収録した、単行本『ソビエト経済学批判』(一九八二年刊行)も友人たちに出版してもらった。

 獄中では、逮捕されるまでの非合法党活動の経験が役に立ち、獄中にいても党活動を継続できた。非合法活動というと、戦前の日本共産党のそれが、ハウスキーパーの話などとして面白おかしく語られてきたこと以外の知識はあまりなく、一から開発しなければならなかった。参考になったのは『レーニン全集』第六巻に収録されている「一同志に与える手紙」だった。これは文書による党活動を提起していて、私たちは逮捕される以前から、文書による党活動を展開していて、それによって党内公開性を保証していた。印象的な内容は「指導の中央集権化と党に対する責任の地方分散化」だった。これは、官僚制に対する批判としての意義をもっていた。詳しくは『序章』一四号(一九七四年)に掲載した拙著「国際共産主義運動の歴史的教訓(二)」一五三頁以下を参照してほしい(サイト「リベラシオン社」にはこの論文が掲載されている)。

このような非合法党の活動が定着していたので、検閲があるとはいえ、未決拘留の間は自由に手紙を出せるので、逮捕される以前の党活動がそのまま継続された。もちろん救援対策が必要で、私たちの仲間は素晴らしい救援活動を展開してくれた。手紙の回覧だけでなく、本の差し入れも即時に対応してくれて、私が約六年間いた京都拘置所では、私に差し入れられた膨大な本のために、当局は独房一室を書庫にしていた。

 このように獄中での活動は党活動にとってあまり制約はなく、武装闘争の総括作業も行うことができた。なお、この時の獄中の生活環境は、実は、それ以前の一九七〇年前後に逮捕された大量の左翼活動家の、獄内での処遇改善闘争のたまものだった。

 

七 出獄、武装闘争総括と信用論研究会

 私が出獄したのは一九八三年一〇月のことで、ソ連によるアフガン侵攻の後であり、ソ連がまた一つ人気をなくした時で、左翼の運動といえば三里塚闘争以外は、山谷と釜ヶ崎の寄せ場の闘争くらいであった。七〇年代に釈放された赤軍派の人たちは、これらの闘争にはせ参じたようだったが、私は獄中での理論活動の継続を考えていて、学習サークルに参加したかった。また、その時に、新しい党の条件として次の三つの課題を自覚していたこともあり、その時代に一番頑張っている大衆運動に参加するというところから何か党的展望が開けてくるとは考えられなかった。

① 一千万人の党員の書記長も、三〇名の党員の書記長も必要な資質は変わらない。

② 一人で党派を作れるメンバーが、七人集まって、一人の人間のように動けること。

③ 新しい党はできるときにはできる。

 なぜか、ロシア社会民主党も、中国共産党も、最初は七人くらいが集まって党を作ることを合意し、そしてその後急速に発展した、という記憶があって、このようなことを考えていたのだ。要するに時代の要請がないところでは、いくら頑張ってみても報われないのである。

 このような発想だったので、私は京都で旧友を訪ねた。京都大学出版会をやっていた(故)八木俊樹は、『序章』の編集をやっていた旧友で、獄中から世話になっていて『資本論の復権』や『ソビエト経済学批判』は彼が金を集めて出版してくれていた。同じく出版に協力してくれていた表三郎と一緒に信用論研究会を立ち上げた。

 あと、吉田山で白樺をやっていた(故)高瀬泰司にところへも行って、こちらでは、私が社会運動に転身するときの仲間たちと知り合うことができた。また泰司の兄が喫茶遊民を開いていて、ここはサークルの会場として使わせてもらった。そこでは資本論研究会やヘーゲル研究会を開くことができた。

 

八 この間の総括文書

 赤軍派は戦闘のたびに組織のトップが逮捕されることが多かった。それに対して私たちの場合は、一九七六年一〇月まで逮捕されることなく、武装闘争の敗北や失敗の経験を組織内部で議論し総括する機会に恵まれていた。だから、七・六事件の総括をはじめ、連合赤軍、そして私たち自身の武装闘争の総括についてはその都度決議として文章化してきた。

 七・六の総括については、当時の関西地方委員会で総括文書を出しており、『RG資料集』第二集に収録されている。該当箇所は、一二四~一二六頁である。なお、『RG資料集』第一集には、第一次RG関連資料が掲載されており、岡田論文当時の事情を知るうえでは必読である。連合赤軍の総括は『赤報』四号に掲載され、それは『共産主義』一六号に転載されている。

 私たち自身の武装闘争の総括は『共産主義』一八号にまとめられた。またそれに基づいた新しい提案が『共産主義』二一号でなされている(これらの文書は、サイト「リベラシオン社」で読める)。

 

九 今後の研究課題

 革命後の政治の可能性については、別稿「政治運動と社会運動とを横断する新しい大きな物語を紡ぎだそう」で詳しく述べた。ここでは武装闘争と統治にかかわるいくつかの問題について今後の研究課題として挙げておきたい。

 まず、ロシア革命と中国革命との違いについて。中国革命は、革命戦争の勝利によって民族解放を成し遂げたが、全国統一前から、共産党は赤色区で統治の経験を持っていた。その前のロシア革命の時には、ボリシェヴィキが統治の経験なしに権力を獲得し、導入した労働者自主管理が機能せずに、旧帝政時代の官僚と軍人、それにブルジョア専門家を登用せざるを得なかったこととの違いは大きい。しかし、資本主義の発達はロシアよりも遅れていて、毛沢東は「人民内部の矛盾の処理」という問題意識を持ちながらも、「資本主義復活」についての猜疑心があり、文化大革命の発動にいたる。この文革の評価は様々だが、それが軍以外のそれまでの統治システムを破壊したことによって、逆に、一九七八年からの改革・開放路線のもとでの、市場の導入、資本主義の育成と経済の高度成長をはかるための条件を形成したという現実がある。ソ連では、レーニンのネップの継承は、後継者スターリンによって否定され、全面的集団化へと向かうことになる。しかし、現時点で、中国が国家資本主義か市場社会主義か、という論点の決着のためにはネップの継承という観点は大事ではなかろうか。

 なお、ソ連が最終局面でペレストロイカを導入したのちに、共産党自体が思想的に崩壊し、党の政治的支配も終焉したが、中国の改革・開放路線では共産党の崩壊はなかった。この点に関してユーゴの専門家である岩田昌征の意見を紹介しておきたい。それは、ソ連では社会主義は党員の目標であったが、中国では民族解放が直接の目的であり、社会主義が実現されるかどうかという問題は、ソ連の場合ほど切実ではなく、したがって中国共産党の党員の場合には、ソ連の党員ほどには思想的危機が切実ではなかった、ということで、非常に説得力がある。

 スターリン主義と対抗し、自主管理を実現したユーゴは、他の東欧諸国と違って、パルチザン戦争を勝ち抜いて権力を獲得した。ソ連赤軍によって解放された他の東欧諸国との違いがここにある。また、資本主義がそれなりに発達していたユーゴでは、内戦期に自主管理を実現していた地域もあり、これがスターリン主義と対抗して自主管理を導入できた要因となっている。

 このような着想は、RGの武装闘争の敗北を、政治的・軍事的な見地から総括しようとする試みである。今回これらについて書き切ろうと構想していたが、構想のレベルにとどまっている。

 原稿を閉じるにあたって、私は、内ゲバ総括について何も述べていないことに気づいた。もちろん、紹介した過去の文章でそれぞれについての評価はなされているが、現在の私にとってはどうなのかという問題が残っている。最後にこの点について述べておきたい。

六九~七〇年代初頭の武装闘争の敗北を、当時の日本に革命戦争が発展するような条件がなかったことに求めるのはしごく当然なことである。しかし、あえて革命戦争を実現しようとし、敗北した者の総括としては、客観的諸条件の有無という問題よりは、むしろ、自分たちが革命戦争に賭けることになった、政治的・思想的内容の吟味こそが問われるだろう。この作業がないところで、敗北を客観的諸的条件のせいにするならば、そうすることで、未熟な闘争を提起した、あえて言えば、間違っていた政治的・思想的内容はそのまま維持されてしまうからだ。

 政治権力を奪取するところからしか、社会の変革はできないという理論にすがっている限り、現在展開されている新しい社会的政治運動と連帯することは不可能であろう。内ゲバの問題は、間違っていた政治的・思想的内容の帰結としてとらえ、革命後の政治創造の問題として考察してはじめて、積極的な総括としての意義をもつだろう。そしてこの革命後の政治、という言葉はそのままでは通用しないが、過渡期の社会に実現される、地域の自治だけでなく、企業の自主管理・自主運営まで含めた広がりを持つ統治(ガバナンス)の必要性として、その解明が多くの人々によって要請されている。あるブログに<「公」はガバナント発想、「共」はガバナンス発想>という書き込みがあった。日本語で統治というと、ガバナントの意味で理解されるが、ここではガバナンスという発想で理解している。共(コモン)のための新しい政治を求めて協働していくこと、このことが、現在の私にとっての内ゲバ総括である。