現代革命の根本問題――市場社会主義からコミュニズムへの移行の解明、商品という社会的象形文字の解読から見えてくる世界

                                        2019年1月20日

 

はじめに

 今から、『資本論』初版本文価値形態論を素材にして、商品という社会的象形文字を読む作業に入ります。別に『資本論』を読んでいなくても構いません。商品や貨幣(お金)は、私たちが毎日毎時つきあっているものであり、日常でありふれたものです。ただ、商品を社会的象形文字として読むには、いくつかの約束事があります。商品を社会的象形文字として解読するとは、言いかえれば、社会の中の市場に存在している商品と貨幣の関係を、文字として読むということです。その際に、貨幣も商品であり、したがって、まずは、貨幣が登場しない商品の関係を考えます。これは、例えば、1万円のシャツ5枚は、5万円の上着と同じ価格ですから、5枚のシャツ=一着の上着、と表現できますね。これが商品の価値形態の基本形です。

 価値形態論を始めて解明した、マルクスの、『資本論』初版本文の価値形態には、四つの種類があります。私は、この四つの価値形態に、新しく三つの形態を付け加えました。初版本文価値形態論では、貨幣形態は登場しないですから、交換過程での、人格が介在することでなされる貨幣の生成によって成立する、貨幣形態を第Ⅴ形態としました。そして、さらに、私のアイデアである、第Ⅳ形態を転倒したものを、第Ⅵ形態とします。最後に、第Ⅵ形態が、その進化過程で商品交換をのりこえた形を、第Ⅶ形態としました。再度確認しますが、マルクスが述べているのは第Ⅳ形態までで、あとの三つの形態は私が付け加えたものです。では、この七つの価値形態に即して説明していきましょう。その際、『資本論』で書かれている内容とはあまり重複しないかたちで、単に文字を読むという観点から考察します。

 

A)第Ⅰ形態(簡単な価値形態)

 X量の商品A=Y量の商品B

 

 先に述べたように、価値形態とは商品と商品との関係をあらわしたものです。等式を使っていますが、数学とは違って、等式の両辺にはそれぞれ意味があります。この場合、商品Aが自分の価値を商品Bで表現しているということで、左辺は相対的価値形態、右辺は等価形態と名付けられています。左辺の商品Aは、自分の価値を右辺の商品Bで表現している、ということなのです。平たく言えば、商品Aの価値は商品Bに値する、ということです。

 ここでの問題は、商品Aが、自分に商品Bを等置しているのか、それとも、自分を商品Bに等置しているのか、ということです。後者だと、商品Aは商品Bを同等化しているということで分かりやすいし、それはこの等式を、主語=述語という論理式として読んでいることになります。しかし、ここではそうではなくて、商品Aは、自分に商品Bを等置しているのです。いわば相手に判断をゆだねているのですね。つまり自分だけでなく、相手も主体として扱っているのです。

 ここのところは、今村仁司が『暴力のオントロギー』(勁草書房、1982年)で、商品Aが、自分を商品Bに等置していると読んで、これを暴力の始まりとみなしました。それは、初版の誤訳に基づくもので、商品Aは、自分を商品Bに等置しているのではなくて、逆に自分に商品Bを等置しているのだということは、私には、80年代からわかっていました。ところが、相手を主体として扱っているという理解には至らず、批判できないでいました。しかし、第Ⅰ形態が、自分の価値を相手に判断してもらうという関係、つまり相手を歓待する作法がそこにはあることが分かれば、ここは暴力の始まりではなくて分かち合いの関係なのですね。(このことに気づいたのも昨年末でした。今村説はおかしいと思っていましたが、30年ぶりに批判できました。)

 私は、この二つの読みの違いを言葉で表現しようと努力してきました。しかし、これは、無理な試みだったことが分かりました。商品Aが、自分を商品Bに等置する、という読みは、二つの商品のことなる使用価値が、同じものだという判断が含まれています。この判断は端的に誤りなんですね。他方、商品A が、自分に商品Bを等置している、という読みの場合は、異なる二つの使用価値とは別の共通なものをこの等式は表現しているのです。

 マルクスは第Ⅰ形態の分析では、この共通なもの、人間労働が、二つの商品の関係でどのように抽象化されていくかという事態抽象の仕組みを明らかにしているのですが、それは、実は、主体と主体との反照関係の分析でした。ここでは、読み方の違いを指摘して置くにとどめますが。

 

B)第Ⅱ形態(全体的な価値形態)

 X量の商品A  =Y量の商品B

         =Z量の商品C

         =W量の商品D

         =・・・・・・

 

 ここでは、商品Aは、さまざまな商品を主体として扱っています。そうすることで商品Aの価値が、さまざまな具体的労働で表現されていることになり、それらの労働の違いが、この事物相互の関係で抽象されて、商品Aが、この関係では、共通な抽象的人間労働として表示されていることが読み取れます。

 つまり、第Ⅰ形態の分析では、思考によって事態抽象の仕組みが解明されましたが、ここでは、商品を社会的象形文字として読むことで、事態抽象という仕組みが働いていることが分かるのです。

C)第Ⅲ形態(一般的な価値形態)

 Y量の商品B   = 

 Z量の商品C   =

 W量の商品D   = 

    Z量の商品E   =

   ・・・・・      =

image003.png

X量の商品A

 第Ⅱ形態を逆から見れば、この第Ⅲ形態となります。ここでは、商品A は、他のすべての商品の等価物であり、したがって、諸商品の一般的な等価物として表示されています。一般的等価物としての商品Aの表示は、商品A以外のすべての商品が、共同して商品Aを主体として扱っていることの結果です。また、ここで相対的価値形態にある諸商品は、商品Aを仲立ちにして、それぞれがつながり合えます。ここで諸商品は始めて、社会に通用する形態を獲得したのでした。『資本論』現行版の価値形態論では、次の第Ⅳ形態は、一般的等価物が、さまざまな商品から金に固定された、貨幣形態となっています。貨幣は、人格の関与のない価値形態論の領域で生成するという誤解が生じます。ところが、初版本文には、他には見られない、次の第Ⅳ形態が続きます。

 

D)第Ⅳ形態(初版本文第Ⅳ形態)

X量の商品A =Y量の商品B

       =Z量の商品C

          =W量の商品D

       =・・・・・・・

 

Y量の商品B =X量の商品A

       =Z量の商品C

       =W量の商品D

       =・・・・・・・

 

Z量の商品C =X量の商品A

       =Y量の商品B

       =W量の商品D

       =・・・・・・・

 この第Ⅳ形態は、『資本論』初版本文価値形態論にだけ登場しています。この社会的象形文字は、所有者が登場しない、商品の価値形態論の領域だけでは、貨幣は生成されず、商品の交換過程での人格(商品所有者)の登場を待つことで、貨幣が生成されるということを表示しています。つまり、すべての商品が、相手を主体として扱うと、商品世界の統一的秩序は生まれない、という意味を表現しているのです。

E)第Ⅴ形態(交換過程での貨幣生成)

X量の商品A =

Y量の商品B = 

Z量の商品C =

・・・・・  =

image003.png

 V量の金 

 第二章 交換過程、でマルクスは商品所有者を登場させます。この人格は、「自分の意志がそれらの物においてある定在をもつところの諸人格」(初版交換過程)です。交換過程に登場する商品所有者は、第Ⅳ形態を受けて、考える前に行動して、無意識のうちでの本能的共同行為に参加し、そのことで貨幣を生成します。人格が介在しなければ貨幣は生まれることはないのです。この点が、現行版『資本論』では隠されています。

 この、初版の貨幣生成論によれば、たとえば、トヨタが車に100万円の価格をつければ、その裏にトヨタがまったく自覚せずに、金を貨幣とする無意識のうちでの本能的共同行為に、参加していることが分かります。つまり、貨幣は、生産物が商品として交換過程で価格をつけて送り出されるつど、生成されているのです。ここから、貨幣を生成しないような人間の関与の仕方、を構想できるのではないでしょうか。私が付け加えた次の二つの形態はその素材です。

 

F)第Ⅵ形態(だれもが貨幣形態になりうる=地域通貨)

一枚の上着          = 

一〇ポンドの茶        =

四ポンドのコーヒー   =

・・・・・・・     =

image003.png

二〇エレルのリンネル

二〇エレルのリンネル =

一〇ポンドの茶    =

四ポンドのコーヒー  =

・・・・・・・    =

image003.png

一枚の上着

二〇エレルのリンネル =

一枚の上着      =

四ポンドのコーヒー  =

・・・・・・・・   =

image003.png

​一〇ポンドの茶

 現実には、第Ⅳ形態の矛盾は、交換過程での、商品所有者たちの無意識のうちでの本能的共同行為によって、貨幣生成の運動として、解決されています。しかし、第Ⅳ形態は、貨幣を生成しないもう一つの経済を暗示している、と読みとれないでしょうか。この観点から、第Ⅳ形態を転倒させて第Ⅵ形態を描いてみましょう。この形態で等価形態にある商品の所有者たちは、どのような社会的関係をもつのでしょうか。

その一つが地域通貨です。地域通貨の場合は、自分の生産物で、他の人の商品が買えますが、それは地域通貨のメンバーが、共同体を構成しているからです。ある意味で、地域通貨は共同体内部の人々が、それぞれ貨幣を創造することで成立している、と見ることができることが分かります。

 また、ここでは、主体相互が分かち合える関係の萌芽が、作り出されていると想定できないでしょうか。主体相互の分かち合いが可能な社会システムが、この第Ⅵ形態で示唆していて、それへの移行が展望できるのではないでしょうか。というのも、この形態は資本主義の下でも実現可能です。そしてこの形態の占める領域が拡大していけば、現在の主流である貨幣形態の占める役割が狭まっていくでしょう。

 また、金融インフラがIT技術の発展で、変貌してキャッシュレスが実現しつつあり、スマホが金融機関の端末として、利用されるようになってきています。また、アマゾンなどの大企業が発行するクーポンなど、銀行券に代わるツールが多様になってきています。まだまだ研究不足ですが、金融インフラの発展から新しい動きが始まりそうです。

G)第Ⅶ形態(貨幣形態をつくらない=労働に応じた分配)

Y量の財B                =

Z量の財C                = 

W量の財D      =

・・・・・・・     =

image003.png

X量の労働A

X量の財A          =

Z量の財C       =

W量の財           =

・・・・・・・     =

image003.png

Y量の労働B

X量の財A     =

Y量の財B     =

W量の財D     =

・・・・・・・    =

image003.png

Z量の労働C

 第Ⅳ形態を転倒させて第Ⅵ形態を描きましたが、これはまだ商品の関係でした。さらに、それを社会化された労働の関係として、第Ⅶ形態をたててみましょう。

 社会化された労働とは、共同体のメンバーになることで実現できます。そうすると、この形態は、マルクスが、コミュニズムの低い段階の分配様式として述べた、「労働に応じた分配」を表示していることが分かります。等価形態の位置にある、各種の労働提供者たちは、社会の総生産物から社会の維持に必要な諸経費(6項目)を差し引いた後の残りを、各人が社会に提供した労働に応じて、受け取ることができるのです。つまり、この第Ⅵ形態は、市場社会主義が、市場をのりこえる構想を描き出す際の素材としての意義、をもっているのではないでしょうか。かつての計画経済に代わる、次のシステムへの移行の構想を、ここに読み取ることができます。ここでは、一般的等価物は、ある特定の一商品ではなくて、すべての種類の労働提供が、そのポジションを得るということですが、それは、社会的労働の成立の特質であり、社会の構成員が、それぞれ主体として財を分かち合える関係の始まりを意味します。

 しかも、この第Ⅶ形態は、資本主義社会の胎内で産み出される第Ⅵ形態から、金融インフラの変革によって生成してくるだろうし、また、中国のように、国家が共産党の支配のもとにある社会では、この変革を容易にできるでしょう。

いずれにしても、第Ⅳ形態を転倒した第Ⅵ形態の形と、さらにそれを進化させた第Ⅶ形態まで含めたこの社会的象形文字の図一枚で、貨幣の生成と、貨幣生成のない社会の冨の仕組みが表現できます。伝統的な左翼の革命論である、権力奪取の発想からは、現実に存在している、市場社会主義からコミュニズムへの移行を構想できません。マルクスの時代には、市場社会主義は存在しておらず、またその構想もなかったのですが、しかし、『資本論』初版本文価値形態論には、その処方箋が描かれていたことになります。いまこそ、この処方箋を具体化していく時ではないでしょうか。