ラトゥールの『地球に降り立つ』の勧め  2020年4月11日 境 毅

 

  1.ラトゥールの『地球に降り立つ』の勧め

 ラトゥールの『地球に降り立つ』(新評論)は、現在進行中の新型コロナ恐慌の、終結以後の世界を解き明かすカギの一つを提供しています。しかも、それは、いま、ここで、誰にでもできる実践の提案です。その紹介を簡単にしましょう。

 私は、昨年末から、ラトゥールに注目していて、彼の本数冊を読んでいるところですが、最初に読んだ『社会的なものを組み直す』(法政大学出版会、2019年)で展開されているアクターネットワーク理論については、私が属する生活クラブ京都エルコープの研究会会報で紹介しました。

 彼の論旨は、これまでの社会学を始め自然科学も含めた近代科学への批判で、これからはあらかじめ作り出された理論で現実を解釈するのではなく、モノも含めたアクターのネットワークが存在していることを認め、そのアクターたちの運動や主張を記述することを、この入門書で提起しています(地球というモノも主張していると、ラトゥールはとらえています)。この原書は2005年に出版されたものなので、では、そういう方法論で現代世界をどのように捉えているのかが気になっていました。そして、2017年に書かれた『地球に降り立つ』(新評論)が昨年末に翻訳出版されていることを知り、読んでみました。

 異論がある論点もありますが、私が注目したのは政治についての次のような指摘です。

 「見た目とは違い、政治の要は政治意識ではなく、地球の形と重さなのである。政治の機能はそれに反応することだ。

 政治は対象、賭金、状況、物理的実体、身体、風景、場所につねに向けられている。いわゆる守るべき価値とは常に、あるテリトリーが抱える課題への反応である。そしてその課題を各テリトリーが記述できること、これが条件である。これこそ政治エコロジーが発見した確たる事実である。つまり、対象に適応させた政治ということだ。そのためテリトリーが変われば政治意識も変わる。」(『地球に降り立つ』、83頁)

 政治についてのこのような把握は、今日の一般的な統治システムである民主主義と政党政治に代わる新しい政治の提案であると私は考えました。というのも、本書のパート19で、ラトゥールは、テレストリアル(大地、地上的存在、地球)に居場所をつくっている人々に呼びかけて、その人たちとその人たちを取り巻くモノといった諸アクターのネットワークが作りだす生活のすべてを記述し、それにもとづいて政治をつくりあげることを提案しているからです。ここには統治システムに一票を行使することしか許容されていない現在の政治に対する代案があります。

 いずれラトゥールについては書くつもりですが、今や緊急事態ですので、とりあえずこの呼びかけを、みなさまに紹介します。

 

  2.ラトゥールについての補足的説明

 ラトゥールの主著『虚構の「近代」』(新評論)は、1989年のベルリンの壁の崩壊と、同年の地球温暖化対策の国際的会議の開催を、社会主義の崩壊と、資本主義が依拠する自然の崩壊による資本主義のもとで暮らす人々の生存の危機と捉えています。そしてその双方の危機を招いた原因を近代思想に求め、その誤りの指摘と新しい非近代の思想を提案しています。近代思想の自然と人間の二分法に対して、非近代としてのアクターネットワーク理論の発想を開示したのです。そして、その時点(1991年)での政治的提案は市民の議会(ヒトの議会)だけでなく、それと同等なものとしての「モノの議会」(『虚構の「近代」』、239頁)の開催でした。

 そして2005年に『社会的なものを組み直す』刊行後に書かれた『近代の<物神事実>崇拝について』(以文社、原書2009年)で、次のように、政治についての考え方を変えたことを告白しています。

 「絶対的な自由が一つの神話であるという理由で、疎外されたものを致死的な束縛から解き放つことを拒む人だろうか。それとも、ついに自立して自身の支配者となった主体を本当に疎外から解放すると言い張るが、その主体が自身に何かをさせることのできる他の人々との関係を結ぶための手段を――すなわち媒介を――その主体に与えない人だろうか。数年前であれば私は、紛れもなく前者であると即座に回答したであろう。今日では、恥じることなく白状するが、私は躊躇する。今後は私の憤慨は、二つの戦線で、反動主義者と進歩主義者を、反近代人と近代人を、同様に攻撃することを求める。諸々の結び付きを他の結び付きに置き換えると言う人々、不健全な繋がりを断ち切ることを主張するときには、自己の支配者としての主体には――それは今や文字通り客体を持たないものとなったのだから――決して注意を引き付けずに、救済的な別の繋がりを私に示す人々、そういう人々だけが私の関心を引き、私を安心させる。自由の身、解放、自由放任・自由通行といった言葉は、もはや『進歩人』たちの自動的な賛同をもたらしてはならない。常に掲げられた人民を導く<自由>の旗を前にしても、それ自体が結び付けるものである物事の中から、良い繋がり、長続きする繫がりを提供する物事を、注意深く選別することが望ましい。」(『近代の<物神事実>崇拝について』、127~8頁)

 ラトゥールが以前に表明した前者の立場(「絶対的な自由が一つの神話であるという理由で、疎外されたものを致死的な束縛から解き放つことを拒む人だろうか。」)の意味は、これだけではわからないので、その前の記述を簡単に紹介しておきましょう。ラトゥールは、煙草を吸ってくつろいでいる父親に、娘が「煙草に吸われている」と発話し、それを聞いた父親が、くつろいだ表情から、煙草がやめられないことを気に病む悩める人に転化し、やがて禁煙を誓って煙草を粉々に切り刻むシーンで終わるというマンガを素材に議論しています。ラトゥールは、このマンガを見かけ上の奥深さしかないと評し、その理由に煙草を吸うという物神事物崇拝の主体(ヒト)と客体(煙草)をひっくり返したところで物神事物崇拝の枠組み自体は維持されていることを挙げています。ラトゥールによれば、父親は最初は自分の行動を制御できると考えて行動し、次に自分が煙草という客体によって制御されていると考えて自分はなにもしない。このマンガをこのように解析した後、ラトゥールは次のように述べています。

 「これが、自由と疎外という二つの特有語であり、これらの特有語が、あなたも彼らも誰も支配していない事物をあなたにさせることのできる『物神事実』の奇妙な状況を、避けることを可能にしている。いかにして支配性というこの麻薬の中毒から回復するのか。これは驚くべき問であり、ほとんど矛盾する問である。つまり、いかにして解放という嗜好性薬物から自らを解放するのか。」(同書、127頁)

 このように、ラトゥールにとっての問題は、「解放」という概念自体が嗜好性薬物であるということで、ここからどのようにして自らを解放するか、ということのようです。ですから、彼の以前の立場とは、絶対的な自由が一つの神話であるという理由によってだけでは人々は解放され得ないという認識だということになり、だから「モノの議会」という提案の延長で思考していることになります。

 私は正直言って、1991年の時点での彼のこの提案には絶句したのですが、2005年の入門書『社会的なものを組み直す』の時点でもこの提案は維持されていたのでしょう。ところが『近代の<物神事実>崇拝について』が書かれた2009年に、先に引用した反省がなされたのです。この反省の成果として『地球に降り立つ』のパート19の提案がある、というように私はとらえました。

 私自身、1992年に設立された京都エル・コープの非常勤理事をしながら生活のためにいろいろなことをやっていましたが、その一つが有限会社スペースゆいを設立して、有機農業従事者への聞き取りを7冊の書籍として出版することでした。いまから考えれば、このような活動は、パート19の先行実施だったように思い、出版物のPDF化とネット上での公開を考えるに至っています。政治を、現在の民主主義という制度的枠組みにとらわれず、テレストリアルを陣地に、モノも含めた記述を武器に、新しい政治を組み立てる構想を一人一人が手にすることができる時代を招き寄せたいです。