新型コロナ後の世界に向けた思考     ラトゥール『地球に降り立つ』の解説  2020年5月6日 境 毅

 

はじめに

 ラトゥールの『地球に降り立つ』(新評論、2019年12月、原書2017年)は社会学や政治学、それに自然科学の従来の理論に異論を唱え、人類学の方法で、現代社会を分析しようとするこれまでの彼の諸著作を踏まえた現代社会に対する提言です。

そもそも人類学とは、大航海時代に地球上のいまだ知られていなかった大陸にヨーロッパ人が到達し、先住民を駆逐して植民地を作っていったときに、そこに住んでいた先住民の研究が民俗学的手法で始められたことに起源を持ちます。その対象は、前近代社会であって、決して現代社会ではありませんでした。現代社会には、経済学や政治学や社会学があり、最近では心理学が幅を利かせていますが、これら専門化された学問で事たれりとされていたのです。

 しかし、比較人類学から出発し、サイエンススタディーズに関わってきたラトゥールは、1989年のベルリンの壁の崩壊と、同じ年になされた気候変動に対応する国際会議をきっかけに、人間だけをアクターとする近代的な自然科学と社会科学の思想上の限界を突き出して、代わりに人類学的視点で、非人間やモノも含めたネットワークを分析する必要性を主張したのでした。『虚構の「近代」』(新評論、2008年、原書1991年)がその成果です。

 このラトゥールの提起はアクターネットワーク理論(ANT)と呼ばれていましたが、研究者を対象とした方法論が『社会的なものを組み直す』(法政大学出版局、2019年1月、原書2005年)にまとめられ、以降社会学の研究者の間で流行になっているようです。この入門書については、前号に掲載した、「世界という書物を読む四つの視点」の最後のところで簡単に紹介しました。私の印象では、この方法論を実際に使って成果を出せるような研究者はまれではないかというもので、実践家の果たす役割は大きいのではないかというものでした。また、ラトゥール自身がこの方法論でどのように世界を読むかについて興味を持っていました。そのようなときに『地球に降り立つ』が翻訳され手にすることができたのです。

 一読してみて、地球に足場を持たない人々が地球に降り立つときに、ローカルではなくて、テレストリアルだという主張と、テレストリアルに降り立って、その詳細な調査にもとづく新しい政治を提案していることがわかり、とりあえず、私が知っているテレストリアルの住民たちにこのラトゥールの提起を知ってほしいと考えて、「ラトゥール『地球に降り立つ』(新評論)の勧め」(前号に掲載)を書き、関係者に届けました。しかし、他方では、ラトゥールの独特の方法によってこの書は書かれていて、近代思想の一般的な理解にこだわっていると何を言っているのかわからないということになりかねない、という危惧も持っていて、理解するための解説が必要だと考えていました。

 先の文章を届けた後、新型コロナについて、彼がどう考えているかが気になり友人と議論していると、友人がラトゥールのHPを見つけ、そこにアンケートと小論文が掲載されていることがわかって、急遽、冒頭に掲載した文章を作成し、関係者にアンケートへの回答を依頼しました。そして今、解説に取り組もうとしています。まず目次が詳細なので、それを挙げましょう。

 

ラトゥール『地球に降り立つ』の目次

 

 この本には詳細な目次がつけられていますので、それをまず引用しておきます。全体の構成が理解できます。

 

1.政治的フィクションという仮説――規制緩和と格差の爆発的増大と気候変動の否認は同じ一つの現象である

2.米国がパリ協定の離脱表明を行ったおかげで、私たちはどのような戦争が幕を切って落とされたのかをはっきりと知るようになった

3.移民の問題はいまやすべての人にとっての問題となった。それが新たな邪悪な普遍性をもたらす。すなわち、誰もが足下の地面を失うということだ

4.プラスのグローバリゼーションとマイナスのグローバリゼーションとを混同しないように心がけなければならない

5.グローバル主義者の支配階級は連帯の重荷のすべてを少しずつ投げ捨てていくことに決めた。それはどのように決められたのか

6.共有世界の廃棄は認識論的譫妄状態を引き起こす

7.第3のアトラクターの登場が、ローカルとグローバルの二極に分断された近代の古典的組織を解体する

8.トランプ主義が発明されたおかげで、第4のアトラクター「この世界の外側へ」の存在を知ることができた

9.私たちがテレストリアルと呼ぶアトラクターを見出したことは、新たな地理政治的組織を確認することにつながった

10.なぜ政治的エコロジーの成功は、賭金に見合う成功に一度たりとも結びつかなかったのか

11.なぜ政治的エコロジーは、右派/左派の二分法から逃れることがそれほど難しかったのか

12.社会闘争とエコロジー闘争をうまくつなげるにはどうすればよいか

13.階級闘争が地理‐社会的立場間の闘争に変わる

14.ある種の「自然」概念が政治的立場を凍結した。そのメカニズムの理解を、歴史を通る迂回路が可能にする

15.右派/左派を二分する近代的視点によって「自然」は固定されてきた。その呪縛を解かなければならない

16.「物理的対象からなる世界」は「エージェントからなる世界」が備える抵抗力を持ちえない

17.クリティカルゾーンの科学は、それ以外の自然科学とは持っている政治的機能が異なる

18.生産システムと発生システムのあいだに生じる矛盾が増大している

19.居住場所を記述する新たな試み―フランスで実施された苦情の台帳づくりを一つのモデルとして

20.旧大陸を個人として弁護する

 

日本の読者への呼びかけ

 

 ラトゥールは、『地球に降り立つ』の日本語版で、日本の読者にこのタイトルにについて次のように解説しています。

 「ヨーロッパの人々は、いまや米国にも英国にも見放され、どこに帰属するのか、どの地に居住するのか、どこに降り立てばよいのかがわからず、実に不安な気持ちでいる。もし、『人新世(アンスロポセン)』(人間活動が生命圏全体の活動に匹敵する時代として地質学者が定義した新たな地質年代)が時間感覚の喪失をもたらすのであれば、それは確実に、ヨーロッパ人に対し空間感覚の喪失を同時にもたらしている。

 『新気候体制』がすべての政治的立場を決定するという小著の命題は、二年前に小著がフランスで出版されて以降、多くの裏付けを得ていまや揺るぎないものになっている。」(『地球に降り立つ』、1頁)

 ここで使われている「人新世」という地質学の時代区分は、2000年2月にメキシコのクエルナバカにおける地球圏・生命圏国際共同研究計画の会議の最中に、ノーベル賞を受賞した大気化学者パウル・クルッツェンが初めてこの呼び名を使ったと伝えられています(『人新世とは何か』、青土社、2018年、18頁)。

 スマホで調べればわかることですが、地質年代としては現在は完新世とされていて、この区分は1万1780年前から現在までです。その前の年代が更新世で、258万年前から1万年前で、この末期に霊長類から人類が分化しています。完新世は氷河期が終了して地球が温暖化していく時代でした。人新世という新しい地質年代の提案は、人間の活動が気候変動などによって地球環境に大きな影響を与えるようになった時代という意味です。

 ヨーロッパの人たちの孤立感、ということですが、EUを中心とするヨーロッパは、リーマンショックの際に、共通通貨ユーロの弱点である、通貨と各国の財政政策とが連動しないことが裏目に出て、各国の格差を拡大させて、疲弊したギリシャやスペインを生み出し、ドイツ一国の覇権が強まるという事態を生じました。その後のイギリスのEU離脱もあり、ヨーロッパ人の不安な気持ちは何となく理解できるのですが、もうひとつ移民の問題があることに気づきました。ラトゥールがこの書で移民の問題点に触れているので、移民について書かれたイギリスのジャーナリストダグラス・マレー『西洋の自死』(東洋経済新報社、2018年)を取り寄せてみました。それによれば、イギリスのロンドンで白人が少数派になるほどの事態が起きているのです。移民についてのヨーロッパの人々の危機意識を理解しておくことが大事です。この点について、ラトゥールは次のように述べています。

 「人々が表現する苦難の感覚がテリトリーという側面に密接に関連しているからでもある。実際、人々は『ホームレス』になったと痛切に感じている。もちろん以前は、ヨーロッパの人々のすべてが、近代化路線のおかげで自分たちはよりよい世界に向かっていると感じることができた。しかし、そこでは、世界の正確な形態、その物理的存在、温度、大気の組成、化学現象等が詳細に描き出されることはなかった。『進歩』こそが私たちの問題のすべてをいつの日にか必ず解決する、そう信じられてきたからだ。いま振り返るなら、それは夢やユートピアに過ぎなかったことがわかる。そうした夢やユートピアは、気候変動によって突然断ち切られたのだ。その結果、ヨーロッパ人は、深い淵の上の片持ち梁にただ引っかかっているだけの、空中に宙ぶらりんになっている自分自身を発見することになった。国家主義的で、その多くは人種差別的でもある政治への突然の転換は、ヨーロッパ人の感覚に、『ホームレスのような』、という一つの表現を与えることになったのである。」(同書、2頁)

 ラトゥールは、この本で、トランプやEU各国での極右政党などの、いわゆる「ポピュリズム」政党の抬頭に対して、新しい観点からの分析を自覚的に提案しています。そして、その新しい政治を登場させるためには「集団的な模索の方法」にもとづいて「世界中のすべての国や地域の人々がアイディアを共有する必要がある」(同書、3頁)ことに注意を促しています。私は、この本を読んだ後、ラトゥールのHPに気づき、そこで提案されているアンケートをダウンロードして関係者のみなさまにアンケートへの回答を呼びかけています。まさに、ラトゥールのこの日本語版序文の呼びかけへの私なりの回答です。

 

『地球に降り立つ』の概要

 

1.課題はどこにあるかーー現代世界の解読

 

「新気候体制」と「地球に降り立つ」のセットはなにを意味するか

 パート1.のタイトルは「政治的フィクションという仮説――規制緩和と格差の爆発的増大と気候変動の否認は同じ一つの現象である」ですが、ラトゥールは、気候変動を否定するトランプ大統領の登場によって、規制緩和と格差の爆発的増大という現実に、さらに気候変動を否定する組織的努力が加わったことで、新しい歴史的状況が始まったとみています。それは一部のエリート層が、地球はもう人類全体が繁栄していくということのためには狭すぎて、自分たちだけが、朽ち果てていく脆弱な世界から抜け出して生き延びようという決意を固めたとみるのです。1980年代以降、世界各国の支配者たちは気候変動に対して共同して対応していたのですが、エリート層の抜け駆けが始まったこの歴史的状況にラトゥールは「新気候体制」と名づけました。

 そしてこの「新気候体制」は一般にはポピュリズムの抬頭として語られているのですが、これは誤認で、もっとましな解決法があると考えて「新気候体制」のもとでの「地球に降り立つ」という共通の陣地を模索することを提起しています。

 「(一部のエリート層が抜け駆けをはじめて)共通の行く先を見失った状態に立ち向かうために、私たちは『地球に降り立つ』必要がある。どこかに着地して、身の処し方、自己定位の方法を学ばなければならない。」(同書、15頁)

 近代の思想は対象を外から見るという点で、自然科学も社会科学も共通していました。そういう宙吊りの視点から大地に降り立てば、近代思想では捉えられなかった新しい身の処し方(生活)、自己決定(政治)が見えてきます。

 

各国が近代化を進めるには複数の地球が必要だと分かった

 パート2.のタイトルは「米国がパリ協定の離脱表明を行ったおかげで、私たちはどのような戦争が幕を切って落とされたのかをはっきりと知るようになった」で、このパートの内容そのものを表現しています。米国のパリ協定離脱表明は、2017年6月1日のことでした。ラトゥールは、すぐさまこの本を書いたことになります。

 ラトゥールは、「新気候体制」への移行の契機を四つ挙げています。英国のEU離脱宣言、次いでトランプ大統領の就任(グローバリゼーションから米国孤立主義への転換)、「移民の再開、増加、爆発」(同書、18頁)、そして最後に2015年12月12日COP21でのパリ協定採択、がそれです。

 ラトゥールは、最後の契機はあまり議論されてはいませんが、この時に会議参加者たちが「各国がそれぞれの近代化プランに沿って突き進んだとしても、それを適える惑星はもはや存在しないということである。開発の希望のすべてを実現するには複数の地球が必要になる、しかし実際には一つしかない。」(同書、19頁)ということに気づいたことを、その後の戦いの幕が切って落とされる端緒とみています。その戦いとはどのようなものでしょうか。

 「問題の所在を否定するか、着地できる場所を探すかのどちらかである。今後はこの点が私たちを分ける。政治勢力として右派であるべきか左派であるべきかが私たちを分けるのではない。」(同書、20頁)

 ラトゥールは、この戦いの特徴は、気候変動への対処を認める立場に立って戦おうとしても、生活スタイルのすべてを変えるという試練に直面して対処法がわからないという不安に駆られることになり、結果として「何の対処もせずに最後にはすべてがうまくいく」というあきらめの心境の囚われてしまい、トランプを当選させてしまった、と述べています。実はこれが、ポピュリズム抬頭の根本原因なのです。

 

もともとのヨーロッパ人も移民の状態に直面している

 パート3.のタイトルは「移民の問題はいまやすべての人にとっての問題となった。それが新たな邪悪な普遍性をもたらす。すなわち、誰もが足下の地面を失うということだ」で、移民が新しい国で定着するにいたる苦労の数々が、いまやすべての人にとってのテリトリーの消失というかたちで問題になっている、とラトゥールは説きます。ヨーロッパにおける移民は旧植民地からの移民が多いようですが、1980年代以降は、労働力の不足を補填する意味で積極的に移民を受け入れてきた国々が、移民が定着するだけでなく、家族などを呼び寄せて増えていくという経過があって、大きな問題になっているようです。そして今日、もともとのヨーロッパの人々も、その移民たちと変わらない問題に直面していると言うのです。そして、ラトゥールは次のように課題を提起しています。

 「どうすれば同胞市民は安心感を得られるのか。守られているという感覚を彼らに感じてもらうにはどうすればよいのか。彼らのかつてのアイデンティティは、出自、元来の人種、堅固な国境、リスク全般に対する保険といった考え方の上に築かれていた。もはやそうした概念に頼ることはできない。

 彼らの安心を感じてもらうには、二つの相補的な行為を成功裏に同時進行できるよう、近代的な思考を組み直すことである。一方で小さな土壌に愛着を抱く、他方でグローバル世界に接触する。この二つは、近代化の厳しい試練によって対立関係に追い込まれてきたものである。これまでは、二つを同時に遂行するなど不可能で、どちらかを選択しなければならないと考えられてきた。この『明らかな矛盾』を、現代史が解消することになるだろう。」(同書、28頁)

 島国に住む日本人には、中・小国が陸続きでひしめくヨーロッパ人の心境は、理解の彼方にあるような気がします。現在日本は食料を輸入に頼り、自給はできていませんが、いざ食糧危機になれば打つ手はいくつもあるでしょう。都市から農村への大規模な移動が必要でしょうが、遮る国境はありません。ただ、ラトゥールが提起しているグローバル世界への接触は困難ですね。

 

グローバリゼーションの経済的側面についての筆者による補足

 パート4.のタイトルは「プラスのグローバリゼーションとマイナスのグローバリゼーションとを混同しないように心がけなければならない」です。

 「この50年間、『グローバリゼーション』と呼ばれてきた現象は実は二つの対立する事象からなっていた。それが体系的に混同されてきた。

 ローカルからグローバルへと視点を移すとはどのようなことなのか。もちろんそれは、視点を増やす、より多くの多様性を記述する、多数の存在・文化・現象・有機体・人間を考慮に入れる、といったことであるべきだろう。

 ところが、今日のグローバリゼーションはそうしたことを全く意味しない。」(同書、29~30頁)

 グローバルゼーションについて、経済的な側面からの掘り下げがないのが気になります。新自由主義は、国営企業の民営化と、市場の規制緩和の二本柱でした。前者は分かりやすいのですが、後者は少し複雑です。市場には性格の異なる三つの市場があります。商品市場と労働市場、そして金融市場です。これらのそれぞれに特有の規制がありました。新自由主義が求めた規制緩和には、商品市場だけでなく、労働市場と金融市場にも及び、労働市場では労働組合の存在が規制の役割を果たしているとして、労働組合の骨抜きと、労働者保護の法制を廃止し、その結果労働組合に組織されていない非正規労働者が増大していき、これは格差拡大の原因となりました。金融市場の規制緩和は、国境による規制を廃止しただけでなく、インターネットによる取引制度の電子化によって、さまざまな新商品が開発され、それが消費者の債務を証券化するという技術によって、もともと巨大であった、住宅ローンやその他の消費者ローンを根に持つ証券が債券市場で売り出され、しかもそれがグローバルな範囲で取引されるようになったのです。それだけでなく、この新たな金融商品が、企業への貸し付けにもとづく金融商品をはるかに凌駕する額にまで膨らみ、この負債経済という非資本主義的な領域に、資本市場が占領される事態になっているのです。その結果、現在の資本市場は、資本主義のための信用制度から、高利資本のための投機の場に変容しており、それが社会の疲弊を一層推し進めているのです。

 それはともかく、ラトゥールの立場は次のようなものです。

 「最終的には、グローバリゼーションに賛成か反対か、ローカルの賛成か反対かを知ることが重要なのではない。世界に帰属する方法をできるだけたくさん記録し、維持し、育成すること、それができているかどうかをよく把握しておくことが重要なのである。」(同書、34頁)

 地球はある意味では小さすぎ、別の意味では大きすぎる。「そのため、誰もが答えを持ち合わせていない」(同書、35頁)のだから、これは意志ある人々の共同作業で、これから産み出さなければならないというのです。

 

ポピュリズム抬頭の舞台裏

 パート5.のタイトルは「グローバル主義者の支配階級は連帯の重荷のすべてを少しずつ投げ捨てていくことに決めた。それはどのように決められたのか」ですが、グローバリゼーションのマイナスの側面によって地球環境にもたらした影響に対し、地球環境から力強い反発が起きていますが、向き合い方には三つのパターンがあるといって次のように述べています。

 「ある人々はきらびやかな亡命生活に逃げ込む。それが1%の富裕層に許された贅沢な選択だ・・・別のある人々は国境に執着する・・・最後に残った、最も悲惨な運命にある人々は国外追放という運命のなかを生きる。」(同書、41頁)

 現在の政治的な状況をこのように捉えることで、現実に進行している格差の驚異的な拡大、「ポピュリズムの波」、そして「移民危機」が生み出されている事情を理解できるというのです。ではどうすればいいのでしょうか。

 

問題の所在は近代特有の考え方(認識論)にある

 パート6.のタイトルは「共有世界の廃棄は認識論的譫妄状態を引き起こす」です。「認識論的虚妄状態」とは近代特有の認識論が、自然と人間をそれぞれ独立した極に切り離し、人間が自然を対象として取り扱う方法で、それはデカルトの「われおもうゆえにわれあり」という人間の規定に発します。これからすれば、人間のようには思考することのない自然は、主体ではなく、主体としての人間にとっては単なる利用すべき対象なのです。「自然もそれなりに思考しているのだよ」といえば、詩的言語として鑑賞の対象にされるか、オカルトだということで小馬鹿にされるでしょう。ところが、ラトゥールは自然をもう一つの主体として扱い、その言葉を聞き分けることを提案しているのです。そしてこのことを妨げているものが、近代特有の「認識論的虚妄状態」だというのです。

 「真実性を証明する知識は、それ自体で自立して存在しているわけではない。もうすでにおわかりのはずだが、事実は共有文化、信頼できる制度、まあまあ堅実な社会生活、比較的信頼できるメディアに支えられて初めて堅牢になる。」(同書、44頁)

 これはシェイピンらの『リヴァイアサンと空気ポンプ』(名古屋大学出版会)に依拠して、『虚妄の「近代」』第2章でラトゥールは、ボイルが真空の実験の結果を普及させるために、実験に名望家の立会人を臨席させ、その結果について報告させることを続けることで、実験結果の世間への浸透を図っていったことを記述していますが、それを念頭に置くと分かりやすいでしょう。ボイルは実験室という人工空間での人為的な実験の結果を、自然の普遍的法則として定式化したのですが、それは共有文化を作り出すことによってそうしたのです。

 「となると、問題は認識能力の欠陥を直すことでも、その治療法を探すことでもない。同じ世界に住み、同じ文化を共有し、同じ危機に挑み、共に探求できる景色を知覚し合うこと、そうした営為をどのように実践するのかが問題なのである。ところがここで私たちは、いつもの認識論上の愚行に陥ってしまう。共有すべき実践の欠如を、知的欠陥に起因する問題と捉えてしまうのだ。」(同書、47頁)

 そこで、ラトゥールは、『虚構の「近代」』で試みた認識論の批判や治療法ではなくて、共有すべき実践を作り出すことを求め、そして、この実践の欠如という問題に気付いていないことを新たに問題にしているのです。

 

2.課題の解決に向けて

 

◯  ラトゥールの近代論

 パート7.のタイトルは「第3のアトラクターの登場が、ローカルとグローバルの二極に分断された近代の古典的組織を解体する」です。

 「グローバル、ローカルの二極が示されれば、近代化の最前線をたどることが可能になる。最前線は近代化指令が描くラインである。近代化指令は、人々がいかなる犠牲をも厭わず前に進むことを要求する。故郷を離れ、伝統を捨て、習慣を断つように促す。『前進したい』なら、開発計画に乗りたいなら、最終的に世界から利益を得たいなら、犠牲を払うことである。」(同書、49頁)

 ラトゥールによれば、近代とはグローバルとローカルという二極で理解可能です。前近代はローカルにうずもれていましたが、近代によってグローバル志向が生み出され、前方に向かって際限なく進むことを指令されているのです。

 「突如として、すべての場所で同時に、第三の極(第3のアトラクター)が姿を現した。それはベクトルの脇方向に向きを定め、葛藤の原因となった対象のすべてをくみ上げ、自身のなかに吸収した。そのため、古い飛行経路に沿った方向づけのすべてが無効になった。

 今日私たちが立っているのは歴史のこの地点、この節目である。いまや方位もわからない。古いものから新しいものへと至る軸、ローカルからグローバルへと至る軸に沿って様々な立場を配置することもできない。この『第3のアトラクター(引力)』に名を与え、位置を特定し、簡単な記述を与えることすらまだできていない。

 ただ政治の新たな方向づけは、脇に踏み出すこの一歩にすべてがかかっている。誰が助けとなり誰が裏切るのか、誰が友人となり誰が敵に回るのか、誰と同盟を組むべきで誰と闘うべきなのか。それをしっかりと見極めなければならない。その間に、私たちは、まだ地図に描かれていない方向を目指す。」(同書、56~7頁)

 ラトゥールにとっての第三の極(第3のアトラクター)の発見は決定的でした。近代思想の批判や事実物神崇拝について研究していた段階から、新しい政治の創造に向けて舵を切れるようになったのです。つまり、共通の実践の土台を見つけ出したのです。

 

◯ トランプの第4のアトラクター

 パート8.のタイトルは「トランプ主義が発明されたおかげで、第4のアトラクター『この世界の外側へ』の存在を知ることができた」です。

 ラトゥールにとっての決定的な発見は、トランプ登場によって、彼が第4のアトラクターを作り出したことで、その反対方向に引力を想定することによってなされました。

 「トランプ支持者の抜け目ない作戦とは、要するに、気候変動を組織的に否定し、それを土台に過激な運動を展開することである。

 トランプ大統領は『第4のアトラクター』を見出したようだ。このアトラクターに名前を付けるのは簡単だ。『この世界の外側へ』でいいだろう。地球の現実と手を切った人々が目指す地平だからである。」(同書、59頁)

 トランプが、第4のアトラクターを作り出したことで、この対極にある第3のアトラクターの存在が明確になってきました。

 「米国は『前進』するのを単純に拒否している。少なくともしばらくのあいだは。

 それが実情なら、誰にでも正気を取り戻すチャンスはある。だから期待をつなぐことができる。気候変動の脅威だけでは無関心と勝手放題の壁は崩せなかった。しかしいまなら打ち壊せるかもしれない。」(同書、64頁)

 一部の富裕層が抜け駆けを始めたことで、気候変動だけではなくて、政治のテーマが拡大したとラトゥールはとらえこれをチャンスと見ています。

 

◯ テレストリアルの発見

 パート9.のタイトルは「私たちがテレストリアルと呼ぶアトラクターを見出したことは、新たな地理政治的組織を確認することにつながった」です。

 では、このテレストリアルとは一体何なのでしょうか。

 「私たち近代人は、これまで自分たちの行為の一般原則についてまったく理解してこなかった。自分たちの歴史の総体的方向さえわかっていない。」(同書、65頁)

 ラトゥールの近代批判は、自然科学は自然の普遍的な法則を研究し、科学技術が作り出した人工的自然が人間社会に与える影響についての考察は考慮の外にあると考え、他方で社会学や政治学は、科学技術には立ち入らない、というように完全にすみ分けていると見る点にあります。ところが近代社会は自然と人間だけでなく、その間に中間的なハイブリッド(人工的自然)を巨大に作り出し、それが環境破壊を生み出しているのですが、近代の二分法では、このハイブリッドについて分析し判断することができないというのです。

 そこで、今回明らかになってきた、第3のアトラクターに名前を付けることによって、共通の実践的基盤の確立に向けて進んでいます。その名前は、テレストリアル(大地、地上的存在、地球)で、本当に大切なのはごく薄い表土であるクリティカルゾーンです。クリティカルゾーンについては、パート17で取り上げられています。

 「今日、私たちが陥っている方向感覚の喪失状態は、どう見ても、応答を返してくれる人間以外のアクターの登場によって起きている。人間以外のアクターは今後も人間行為に応答し続けるだろう。近代化に向かう人々はいま見当識を失った状態にある――いまどこにいるのか、いまどの時代なのか、とくに自分たちが今後どのような役割を果たすべきなのか、まったくわからないのである。」(同書、68頁)

 人間の言葉とはまったく異なる言葉で自然が語っています。それは、多数の力学的・化学的・地質学的・気候的な変化として人間に迫ってきています。

 「地球システムは80億、90億になる人類の活動にどのように反発してくるのか。この地球の反発に人類は対処しなければならない。これまでいかなる社会集団もそのような課題に見舞われたことはない。」(同書、72頁)

 バッタの大群やネズミの大群が暴走して自死していくというシーンはありました。また古代の都市が緑を失って砂漠化するという経験もありました。いま人類に求められているのは、いままで課題としては取りあげなかった地球の反発に対処することだ、というのです。

 「状況がいかに未曾有なものなのか。それを私たちが正しく評価できていないとすれば、それは現代政治の真空状態について私たちが恐ろしく無知だからだろう。」(同書、72頁)

 現代政治の真空状態とは、政治が科学技術の制御という課題には無力なことを指すのでしょう。だから現実の政治は、ラトウールにとっては「政治的フィクション」だったのですね。今日の政治家の語る言葉は、環境問題に関しては、おとぎ話のように現実離れしているのです。

 

◯ 政治的エコロジーの限界

 パート10.のタイトルは「なぜ政治的エコロジーの成功は、賭金に見合う成功に一度たりとも結びつかなかったのか」です。

 ここで、ラトゥールは、始まってからかれこれ50年になるエコロジー運動の限界について考察しています。

 「政治的エコロジーはすべてのテーマに活発な論争を呼び込んだ――それは牛肉から気候変動にまで及ぶ。・・・政治的エコロジーは、どの物理的対象にもそれ自体の『エコロジー的側面』があることを示したのである。」(同書、74~5頁)

 まずは、政治的エコロジーの果たした役割について積極的に評価しています。ところが、ここからもう一歩進めなかったのですね。

 「政治的エコロジーは、これまで社会生活の通常の懸案でなかった対象を、自らの『粉砕機』に放り込んで政治問題化させることに成功してきたまた、社会とは何かという問いをめぐる過度な制限的定義から政治を救うこともできた。つまり、公共領域で注目されるべき問題の内容を一変させたのである。

 近代化かエコロジー化か。確かにそれは重大な選択である。誰もがそれを認める。それでもなおエコロジーは行き詰まる。このことについてもまた、誰もが認める。

 世界中どこへ行っても、緑の党は周辺的勢力としての立ち位置を抜け出すことができないでいる。何を足場にして前に進むのか、どうすればよいのか、彼らにはわかっていない。人々に働きかける際、緑の党が『自然』の問題を取り上げると、古典的政党は人権擁護を盾に対抗する。緑の党が『社会問題』を取りあげると、古典的政党は『それが君たちに何の関係があるのか』と食ってかかるのである。

 ただ、緑の闘士たちによる50年の歴史があったおかげで、右のような二、三の不甲斐ない例外を除き、人々は次の三つの項目、すなわち経済とエコロジーの項目、開発の要求と自然の要求の項目、社会的不公正の問題と生物界の活動の項目について、それぞれの対峙関係を捉えることができるようになった。」(同書、75~6頁)

 エコロジストが何を足場にし、どうすればいいのかということがわからずじまいだったとすれば、何が問題だったのでしょうか。

 「エコロジストたちはこれまで右派にも左派にもなろうとしなかったし、時代遅れ的でも進歩的でもなかった。ただし、近代人が作り出した時間の矢という陥穽から抜けだすことはできなかった。」(同書、76頁)

 時間の矢という陥穽を共有している限り、エコロジストも近代人だった、というのですが、これだけでは理解できませんね。時間の矢の陥穽の克服は、循環という概念の復活でしょうが、有機農業者たちは循環の意義を知っていたはずです。政治的なエコロジストがそれに気づかなかったということでしょうか。

 「これまで多くの政党、運動組織、利益集団が『第三の道』を見出したと宣言してきた。第三の道はリベラリズムとローカリズムのあいだ、開かれた国境と閉じた国境のあいだ、文化的解放と市場経済との間に位置する。ただ、どの試みも失敗に終わっている。新たな座標システムを描き出すことができなかったからだ。以前の座標軸は人々の能力を端から奪うものだった。」(同書、77頁)

 右派/左派の座標軸にこだわる限り、政治的に失敗すると見るラトウールは、新しい座標軸を据えることで新しい政治を創り出そうとしています。

 「人々はそうした分類が陳腐化していることを知ってはいる。それでも事態は変わらない。代わりになるベクトルがないため、昔ながらの分類をただ使い続けているのである。」(同書、78頁)

 このある意味での真空状態を認めること、それではダメだと気付くこと、これが新しい政治への出発点でしょう。

 

3.新しい政治の提案

 

三つのアトラクター(引力)の図式(こちら)

 

 

 『地球に降り立つ』10~11頁に掲げられている六つの図うちの三番目の図を掲げておきます。

◯ 新しい政治の特徴

 パート11.のタイトルは「政治的エコロジーは、右派/左派の二分法から逃れることがそれほど難しかったのか」で、新しい政治を提案しています。

 冒頭の図で、ラトゥールは、①ローカル、②グローバル、③テレストリアル、の三つのアトラクター(引力)が働いている場を想定し、近代人には①と②の座標しかなかったが、③のアトラクターを登場させることで、政治の場の位置づけを変えることを図式化していました。そして、トランプの登場によって、新たに第四の、この世界の外へというアトラクターが生じ、これが「新気候体制」を作り出しているとみるのです。

 図式でいえば、第四の引力が現れたことで、第一のローカルも第二のグローバルも葛藤に悩み、第三の引力であるテレストリアルに向かうように交渉する、それが新たな政治の課題だというのです。

 「見た目とは違い、政治の要は政治意識ではなく、地球の形と重さなのである。政治の機能はそれに反応することだ。

 政治は対象、賭金、状況、物理的実体、身体、風景、場所につねに向けられている。いわゆる守るべき価値とは常に、あるテリトリーが抱える課題への反応である。そしてその課題を各テリトリーが記述できること、これが条件である。これこそ政治エコロジーが発見した確たる事実である。つまり、対象に適応させた政治ということだ。そのためテリトリーが変われば政治意識も変わる。」(同書、83頁)

 ラトゥールによる新たな政治は、反動派/進歩派、さらには右派/左派、という従来の分類と、第三の道のようなその乗り越えの試みが失敗に終わっているという認識のもとに、近代/テレストリアル、つまり近代に、テレストリアルという力の場を対立させることで、二つの派に分類されていた敵対者を説得し、転向させようという試みであり、そのためには「何より優先すべきは、見捨てられたと感じている人々に語りかける方法を見出すことだ。」(同書、84頁)と述べています。そしてそれらの人々は安心できる暮らしを求めてローカルに向かっているが、それをテレストリアルの方へと方向転換させることが必要だというのです。では、ローカルとテレストリアルの違いはどこにあるのかについては次のように述べられています。

 「ローカルの支持者とテレストリアルの支持者との間の交渉――兄弟の契り?――は、土地への帰属の重要性、正当性、必要性をめぐるものとなる。ここに難しさの全容がある。『ローカルが付け加えたもの』(すなわち民族的同質性、世襲財産、歴史主義、郷愁、非真正的な真正性)と『土地への帰属願望』とを早々に混同しないことが重要である。」(同書、84~5頁)

 これは日本では、レイチエル・カーソン『沈黙の春』や有吉佐和子『複合汚染』での告発にこたえて有機農業を志し、新しく大地に着地した新参の農家たちが、在地の共同体との間に様々なもめ事を体験したことを思い起こさせます。しかし、ラトウールが述べている「混同」は今もって解消されてはいないでしょう。これをどのようにして解消していくのかは大きな課題です。

 「テレストリアルは大地や土地に結びついている。またテレストリアルは世界化(世界とつながる)の方法でもある。テレストリアルは境界を持たず、すべてのアイデンティティを超える。」(同書、86頁)

 農家が国境を超える、というときに不耕起栽培を実践した福岡正信の例があります。また、最近では塩見直紀の「半農・半X」が国境を超えていますが、誰もがそうできるようにはなってはいないでしょう。

 「とはいえ、今後築くべき同盟関係がどのようなものであれ、既存の政治意識、政治感情、政治的熱意、政治的立場を話題にしている間は真の同盟関係など絶対に築けない。政治意識、政治感情等を作り出してきた現実世界そのものが完全に変貌してしまったからだ。」(同書、86~7頁)

 昔の政治的活動家だけでなく、その同伴者たちにもしみわたっている既存の政治意識、その持ち主たちは、今日運動が行き詰まっていることは認めるのですが、それをみずからの政治意識のせいとは考えないのですね。

 「エコロジー政党の出現が遅れた理由もここにある。エコロジー政党は右派と左派のあいだのどこに自分を位置づけたらよいのか戸惑い続けた。右派/左派の二分法を『超越しよう』ともした。しかし超越をイメージするのに適した場所が見つからなかった。一歩脇に踏み出せばよいものをそれが思いつかず、グローバルとローカルの二つのアトラクターのあいだに閉じ込められてきた。そのうち現実感覚を失い、最後はもぬけの殻となった。エコロジー政党でさえ行く当てもなく漂流する――それは決して驚きではないのである。」(87頁)

 これは厳しい評価ですが、近代思想の虚妄性を認識しているラトゥールらしいです。そしてラトゥール自身の思想は、やっとこの本で政治的表現を得たのですから、これは、いたるところから同調者が出てくる兆しかもしれません。

 「重要なのは、新たな同盟関係という舞台装置を想像することを通して、袋小路を脱する力を身につけることだ。『君はこれまで左派であったことがない?いやそんなことはどうでもよい。私も同じだ。私も君のように、根っからのテレストリアル主義者だからね』。私たちは様々な立場からなる新しい全体的配置を学ばなければならない。しかも極近代の闘志たちが舞台を破壊し尽くす前に、それを学ばなければならない。」(同書、88頁)

 結局、だれか大知識人の思想に頼るのではなくて、テレストリアルの住民自身が政治的表現をするすべを学ばなければならない、とラトゥールは呼びかけているのです。

 

◯ エコロジー運動の課題

 パート12.のタイトルは「社会闘争とエコロジー闘争をうまくつなげるにはどうすればよいか」です。いよいよ新しい政治創造のための課題の提起に入ります。

 「これまでのエコロジー運動は、至上の『政治的アクター』であるテレストリアル(大地、地上的存在、地球)に的確な定義を与えてこなかった。というのも、エコロジー運動は、賭金に見合う規模の人員を確保する方法についてまったく理解していなかったからだ。」(同書、89頁)

 エコロジー運動は、自らが立脚するテレストリアルが政治的アクターであるということについての理解が欠け、従来の政治的枠組みのなかで居場所を占めることにとどまって、その枠組みを超えた政治を打てなかった、とラトゥールは見ています。

 「社会主義からエコロジーへのエネルギーの伝達はいっさいなされなかった。社会主義とエコロジーは力を効果的に結集する方法を見出すことができなかった。歴史の流れを変えようと共闘はしたが、歴史の歩みを多少穏やかにしたに過ぎなかった。彼らの力が及ばなかったとすれば、それは彼らが、社会問題かエコロジー問題かのどちらに焦点を合わせるべきか、その選択に直面していると思い込んでいたからだろう。実際には、単なる焦点の選択ではなく、政治の二つの方向性をめぐるより根源的な選択が問題だったのである。根源的な選択肢の一つは、社会問題を狭すぎる定義に閉じ込めたままにしておくという道、もうひとつは、生存の危機を定義する際に人間と非人間との違いをアプリオリには導入しないという道である。言い換えれば、社会は社会的なつながりだけから構成されるとする狭隘な定義を取るか、社会は人間と非人間の連合(それは共同体<collective>と呼ばれる)から構成されるとする、より広い定義を取るかの選択である。」(同書、90頁)

 では、その既成の政治的枠組みから抜け出すには何が必要なのでしょうか。ラトゥールの主張はただひとつ、テレストリアルという非人間と人間の連合として、社会をとらえ直すことです。というのも既成の政治的枠組みは、それがなされる場としての社会を、人間だけのつながりとしてしか把握していないからであり、社会を人間同士のつながりはもちろんこと、非人間同士のつながり、及び人間と非人間とのつながり、というようにとらえ直せば、政治の働く場の変容によって、政治自体が変わらざるを得ないのです。

 「ならば、問いは次のようになる。社会運動はどうしてエコロジー運動の危機を社会運動自身の危機として認識しなかったのか。認識していれば自らの陳腐化を免れただろうし依然、弱体だったエコロジー運動に力を添えることもできた。質問の相手を変えるなら、問いはこうなる。政治的エコロジー運動はどうしてバトンを社会運動の側から引き継いで、前に進むことができなかったのか。」(同書、91頁)

 ソ連の崩壊によっていったんは地に堕ちた社会主義ですが、しかしその後の資本主義が、資本家のための利益の増大を求めて、資本家が階級闘争を始めるという新自由主義を登場させることで、それに対抗する社会運動を生み出しました。その社会運動も、2011年には、スペインの15Mやアメリカのオキュパイウォールストリートのような新しい展開を見せながらも、やはり既成の政治の枠組みから抜け出せていません。

 「エコロジーは政党の名前ではない。人々を不安にさせる何かでもない。それは方向転換を求める呼び声である――『テレストリアルに向かおう!』」(同書、92頁)

 やっと、ラトゥールが、テレストリアルという非人間と人間とのつながりとして社会をとらえ直し、そこから新しい政治を構想することを呼びかけました。

 

◯ 階級闘争から地理‐社会的立場間の闘争へ

パート13.のタイトルは「階級闘争が地理‐社会的立場間の闘争に代わる」です。ここれは、ラトウールは、非人間をアクターとして取り込むことで、従来の社会理論の枠組みがどのように組み替えられるかということについて論じています。

 「社会階級とは、『生産プロセス』のなかで資本家と労働者が占める特別な位置に依存する概念である。」(同書、93頁)

 現代の資本主義が支配的な社会の階級とは、主要な生産関係である、資本家と労働者の階級関係であり、ここからほかの諸階層についても、この関係との種差として論じられてきました。この認識の変更が求められています。

 「したがって問いは次のように変わる。階級闘争に、より現実に根差した定義を与えるにはどうすればよいか。新たな唯物論――新たな物質性、テレストリアル(大地、地上的存在、地球)に向けて舵を切ったときに取らなければならない唯物論――を考慮に入れたらなら、定義はどう変わるのか。

 ポランニーは、市場化に抵抗する社会の潜在力を過大評価した。それは彼が人間アクターの支援だけを頼りにしたからである。人間アクターは商品や市場の限界をよく理解していると考えた。しかし人間アクターだけが反乱を起こすわけではない。ポランニーは、抵抗勢力には強力な加勢があることを予測できなかった。加勢の主は階級闘争に入り込んで危機の姿を一変させる力を持っている。重なり合う配置のなかで、すべての反乱者が戦闘任務を背負ってはじめて、論争の結末を変えることができるのである。

 かつての社会階級の定義は生産システムにおける人間の位置のみによって決められていた。実に狭すぎる定義だったのである。」(同書、96頁)

 ポランニーが引き合いに出されていますが、彼が『大転換』(原書、1944年)を書いたほぼ同じ頃、ハイエクが『隷従への道』(原書、1944年)を書きました。ポランニーは、資本主義の問題点を、土地や貨幣や労働力までもが商品になっていることに求め、市場を悪魔のひきうすと捉えて、その廃止を近未来の出来事として描きました。しかし、歴史はそのようには進まず、逆にハイエクが証明しようとした計画経済の不可能性についての議論が自由主義の擁護として評価され、新自由主義の潮流の結集が、1947年のハイエクらのモンペルラン協会の結成から始まり、それが1980年代の新自由主義思想による英・米の政治権力の獲得へと進むのでした(ハーヴェイ『新自由主義』、作品社、16頁ほか参照)。

 ラトゥールは、ポランニーの肩を持ちながらも、彼が味方を人間アクターだけに限定していて、すでに反逆しているテレストリアルという非人間をアクターとして味方につけることを考えなかった、というのです。

 「しかし『階級利害』に『階級文化』をいくら加えても、この社会階級というグループが物理的テリトリーを持つ存在として定義されていたわけではない。だから、『このテリトリーにはすでに人や動物などの定住者が実際にたくさん住んでいて、そのおかげで階級グループは(地理‐社会的な)場の現実を一体化することができ、自己意識も芽生えさせることができるのだ』とはならないのだ。階級の定義はあくまで社会的なまま(労働者と資本家という、人間同士の関係として定義されているにすぎない)、あまりにも社会的なままだったのである。

 実際には階級闘争の下部には他の分類法があり、『最後の例』の下部にはもう一つの例があり、物質の下部にはさらに幾重もの物質があるのである。」(同書、96~7頁)

 ラトウールは、新たな階級概念を、階級闘争に非人間をアクターとして加勢させることができるような概念に組み替えることを試みる必要があるとみています。「19世紀は社会問題の時代だった。21世紀は新しい地理‐社会問題の時代になる。」(同書、99頁)というわけです。しかし、これは大変困難な作業です。

 「難しさは原理原則を見つけることである。原理原則を使って新しい階級を定義し、相反する利害をめぐる彼らの闘争の行方を追う。とにかく、これまでの物質の定義、生産のシステム、そして時間空間の参照点を疑問視すること、これを覚えなくてはなない。」(同書、99頁)

 原理原則が必要だというのですが、ラトゥールは、それを定式化しているのでしょうか。いままでのところまででは、それはなされているようには思えません。

 「実際、近代という時代の奇怪さは、物質的とはいいがたい物質の定義を、ましてやテレストリアルとは到底言えない物質の定義を私たちが延々と使い続けてきたところにある。」(同書、99頁)

 このような問題提起も、原理原則というよりは方法論的懐疑ですね。ここから原理原則にいたる途を進めるのかどうかに注目して次に進みましょう。

 

◯ 自然疑念の呪縛とは

パート14.のタイトルは「ある種の『自然』概念が政治的立場を凍結した。そのメカニズムの理解を、歴史を通る迂回路が可能にする」です。ラトゥールは、まず自然概念の呪縛を解くことから始めます。

 「近代体制では、政治的プレーヤー(物理的対象から引き離された存在)と物理的対象とが同盟関係を結ぶことができない。」(同書、101頁)

 近代体制では、テレストリアルという非人間との同盟関係を結べないとしたら、別の体制が必要だということでしょうか。

 「しかし科学をどう捉えるかは十分に検討していく必要がある。お定まりの認識論を鵜呑みにしたままでは、従来の『自然』概念の呪縛からは逃れられないし、『自然』概念の政治化も不可能である。そもそも『自然』概念は、疑問の余地のない『普遍的な自然法則』に訴えるために作り出された。この概念は、人間行為を制限するために発明されたといってもよい。一方に自由(=偶然)を置き、他方に完全な自然(=必然)を置くという二つの方向づけはこうして可能になった。」(同書、102頁)

 これは、ラトゥールが、『虚構の「近代」』で解き明かした事柄で、先にあげた『リヴァイアサンと空気ポンプ』が取り上げた、ホッブスとボイルの間になされていた、すっかり忘れられてしまっていた論争に注目して、ホッブスが国家という人工物から、ボイルの実験を排除しようとし、同時に、ボイルが実験で作りだした人工物から自然法則を導く過程から政治を排除しようとしたことをもって、近代の二分法的思考の始まりとして、双方の考え方を虚構と批判したのでした。現実には近代社会は膨大な人工物(ハイブリッド)を作り出しながら、政治も自然科学も、二分法的思考によって、その中間にあるこれらの人工物の役割をとらえることができないからでした。

 「私たちは科学の力に最大限依存する必要があるが、その力に付随する『自然』のイデオロギーとは決別しなければならない。また、私たちは唯物論者、合理主義者でなければならない。近代人が捉えようとしてきたそうした性質を正しい土台の上に置く必要がある。

 そこでの難しさは、テレストリアルの場がグローブの場とはまったく異なる場を指していることにある。二つの場所で、同じようなやり方で、唯物論者や合理主義者であることは不可能である。」(同書、103頁)

 ラトゥールは科学自体を否定はしません。近代科学が独特の自然概念と結びついていることを問題にしているのです。その自然概念の問題点は、テレストリアルとグローブとの違いをもとに次のように論じられています。

「二つの極はほとんど同じで、違いはただ一つ、グローバルの方はすべてのものを遠く離れた視点から捉える。対象が人間社会の外側にあるかのように、また対象が人間の関心事とは完全に無縁であるように捉える。対して、テレストリアルの方は同じ対象をずっと近寄った視点でとらえる。対象は私たちの共同体の内側にあって、人間行為に対し敏感に速やかに反応する。」(同書、104頁)

こうして近代の自然概念が、ここでは自然と遠く離れた視点からみることと規定されています。

 「研究者がどれほど遠くに思考を送っても、足は地面にしっかり繋ぎ止められている。

 それでも宇宙を眺める特別な視点――『どこからでもない視点』――を取ることが新たな常識となった。『合理性』や『科学的』という言葉までしっかりとそれに結びつけられた。」(同書、106頁)

 研究者は実際には大地に足をつけてはいても、自然の観察に関しては遠くからしか見ないのですから、近代思想にとっての自然概念は「知るとは外側から知ることである。」(同書、106頁)ということで、外側とはシリウス的視点であり、「宇宙から見た自然」だというのです。それに対して、テレストリアルは、「地球のなかで見た自然」を要求するのです。でもこれだけではまだ呪縛は解けませんね。

 

◯ 自然概念の呪縛を解く

パート15.のタイトルは「右派/左派を二分する近代的視点によって「自然」は固定されてきた。その呪縛を解かなければならない」です。ではそのお手並みを拝見しましょう。

 「リアルなもの(客観的、外的、認識しうるもの)と、リアルでないもの(主観的、内的、認識しえないもの)の二分法が、悪名高き近代化のベクトルに重ね合わされた。・・・重ね合わされた時点で、『グローバル』は肯定的意味、否定的意味の二つに完全に分離した。

 客観の側は近代そして進歩的なものに結びつけられた。主観の側は古来のもの、時代遅れのものと結びつけられた。外側からものを見るとは、意味ある形で現実を把握する唯一の方法とみなされ、何よりそれは、未来に向けて自分自身を方向づける唯一の方法とされた。反対に内側からものを見るとは、伝統的、親密、古来のという価値以外は意味を持たないものとされた。」(同書、110頁)

 まずは、外側から自然を見るということが自然認識の唯一の方法であるとされてきた流れが、客観と主観の二分法にもとづくことが明らかにされます。このような近代の思考によると、自然認識は次のような二重のものとなります。

 「私たちは『自然』について語ることができる。ただそれを語ると『自然』は遠くに離れてしまう。ではもっと近くに寄ろうとするとどうなるか。そうなると感情的な面でしか自然を表現できなくなる。」(同書、112頁)

 ではどうすればいいのでしょうか。ラトゥールは至って簡単だとして次のように述べます。

 「今や次の問いに答えるのは至って簡単になった――なぜ土地への愛着をめぐる葛藤が正確に記述できないのか。なぜローカルとグローバルという二つのアトラクターに含まれた『自然』概念を脱神秘化しなければならないのか。」(同書、112~3頁)

 もともとの課題は、自然概念の呪縛を解き明かせるような原理原則でしたが、この時点でもまだ方法論に終始しているように感じられます。

 「宇宙としての自然にはどのみち政治沸かせる力などない。・・・熱気を帯びる地球の活動をずっと近くから観察し、できるだけ多くの冷徹な知識を獲得することが重要なのである。」(同書、114頁)

 ラトゥールの切迫感はよく理解できるのですが、ここでの提起は新たな政治のための行動原理ですね。しかし、共有の実践が課題だとするラトゥールにとっては、これが原理原則にあたるのでしょうか。

 

◯ ラブロックのガイア論の先駆性

パート16.のタイトルは「『物理的対象からなる世界』は『エージェントからなる世界』が備える抵抗力を持ちえない」です。ここでは従来の階級概念の土台であった生産システムの特徴がまず述べられます。

 「私たちが生産システムと呼ぶ場では、人間というエージェントを労働者、資本家として定義する方法があって、それとは別に、人工的なインフラを機械、工場、都市、アグロビズネスとして定義する仕方があった。・・・そうしたなかでは近代科学以降に『自然』となった存在を、自分たちと同等の重要性を持つエージェント、アクターすなわち動的存在、作用的存在と見なすことは到底できなかった。」(同書、115~6頁)

 そして、このような生産システムについての認識からは決して到達できない、自然をエージェントとみなす考え方を提示した研究者としてラブロックのガイア仮説を取りあげています。

 「ラブロックによれば、地上に存在する生物は地球の化学的状況の生成プロセスに参加している。またある程度は地質学的状況の生成プロセスにも参加している。ラブロックはそのように考えなければならないと主張する。

私たちが呼吸する空気の組成が生物の活動に依存しているなら、大気はもはや生物にとっての環境――生物をそのなかに入れ進化させる入れ物――ではない。大気はある意味で生物の行為の結果になる。そうなると、一方に有機体があって他方に環境があるとは言えない。両社は相互生成の関係にあるからだ。そこではエージェンシーは再配分される。」(同書、117~8頁)

日本でも一時期は、ラブロックの、地球を一つの生命体とみるガイア仮説や、フリッチョフ・カプラの『タオ自然学』は流行し、カプラは日本にも来ました。一緒に映像作成作業をしましたが、大きな男なのに、隣に座っていても存在の気配がなかったことを記憶しています。ひょっとして、テレストリアルの住民だったのでしょうか。

「ラブロックについてのこうした解釈を是非採用すべきだといっているわけではない。自然科学は人間の生存に関わる活動全体を網羅するものである。そう捉えることが政治の転換につながっていく。それを理解することが重要なのである。」(同書、119頁)

ここで原理原則の展開がみられるとすれば、否定形の問題提起で、自然概念の呪縛に囚われ、自然と物理的対象としてしかとらえないなら、それが人間の生存に関わる活動全体を網羅しているという認識は生まれるはずもなく、したがって、政治的力を引き出すこともできない、ということでしょうか。

 

◯ 地球生命圏としてのクリティカルゾーン

パート17.のタイトルは「クリティカルゾーンの科学は、それ以外の自然科学とは持っている政治的機能が異なる」です。

 クリティカルゾーンとは、物理的環境と生物活動が濃密な相互作用を展開する、地表表層の数キロの薄い膜で、バイオフイルムとも呼ばれ、生物が生息することのできる環境のことです。ラトゥールのHPに掲載されている新刊『クリティカルゾーン。地球上陸の科学と政治』のサマリーに次のような記述がありました。(翻訳は大賀英二文化知普及協会会員)

「層序学(地層配列と層序を研究する地質学の分野)という学問分野を一般に知らせるためにジャン・ザラシエヴィチ(Jan Zalasiewicz)ほど、多くの努力をした人はいない。彼が招集して指導した研究グループによって、これまで実現されていなかった地質学の歴史への人の介入度合を測定するための尺度が提供された。しかも実際に、『人新世では、ほとんどすべてが地質学になる』(ザラシエヴィチ)。この悲しい美しさを有する人的介入に関するザラシエヴィチの要約のおかげで、地質学的計測をメートル尺を用いて達成できるようになった。この尺度によれば、バイオフイルム(原文はバイオマスですが、ラトゥールの表現に合わせました)が1㎡あたりたった5キロの重さであるのに対して、瓦礫、廃墟、土壌など、人類が産み出した塵は50キロもの重さになる!私たちは、『人間がすべてのものの尺度だ』とは知っていたが、その計測用の棒が驚くべき程の長さであることまでは知らなかった。」( http://www.bruno-latour.fr/ )

地球生命圏であるバイオフイルムの重量が、1㎡あたりたったの5キロであるのに対して、人類はその10倍もの塵を排出していたのです。

 「クリティカルゾーンは教室ではない。研究者と一般の人々とのあいだに、純粋な教授法を前提にして出来上がった関係があるわけではない。」(『地球に降り立つ』、123頁)

 クリティカルゾーンに対する研究は始まったばかりですが、農学部の問題意識を持った研究者にはおなじみのものですね。ラトゥールは、テレストリアルの住民と研究者との共同作業を構想しているのでしょう。

 「政治に関連した本質的な要点はこうなる。すなわち、人間行動に対する地球の反発は、地上世界がガリレオ的物体で構成されていると信じる人々には異常事態と映り、ラブロック流のエージェントの連結で構成されていると考える人々には自明と映る。」(同書、124頁)

 あまりにも自明な事柄が、世間一般には通用しない、という現実、ラトゥールは、世間一般の自然認識の呪縛を指摘しましたが、それだけでは物足りないですね。

 「今後はテレストリアルを通じで、多数のエージェントが織りなす連結行為について理解していなければならない。クリティカルゾーンの科学がそれを可能にする。この科学の周りには相矛盾する利害を持った無数の関連団体が存在する。そのそれぞれが、異なる実証的知識の体系を持つ。クリティカルゾーンの科学はそれらと競い合い、正当性と自立性の獲得を目指して奮闘する。テレストリアルは文字通り、もう一つの世界を描き出す。それは『自然』とも異なるし、『人間世界』あるいは『社会』と呼ばれるものとも異なる。『自然』『人間世界』『社会』は三つの政治的実体である。しかしそれらは、テレストリアルのもとではこれまでのような土壌の占有、『土地の収奪』を生み出すわけではない。」(同書、124~5頁)

 ラトゥールのこのような主張は、テレストリアルを何かしら未来像のようにとらえているように感じられます。果たしてそれでいいのでしょうか。

 

◯ 生産システムから発生システムへの発想の転換

パート18.のタイトルは「生産システムと発生システムのあいだに生じる矛盾が増大している」です。ここではじめて発生システムの解明がなされます。少し長いですが引用しましょう。

 「『自然』を離れ、テレストリアル(大地、地上的存在、地球)へと注意を向けるならば、気候的脅威の出現以来私たちが陥ってきた政治的立場の断絶に終止符を打てるかもしれない。断絶こそが、いわゆる社会闘争とエコロジー闘争との連携を危険にさらしてきた。

 社会闘争とエコロジー闘争の関係の再構築は、生産システムに焦点を当てたこれまでの分析から発生システムに焦点を当てた新たな分析へと移行することに関わっている。生産と発生の二つのシステムの違いは大きく分けて三つある。まず何よりも原理が異なる――前者では『自由』(解放)が、後者では『依存』が原理となる。第二に、人類に与えられる役割が異なる――前者には『中心的役割』が、後者には『分散的役割』が与えられる。最後に関心の対象となる運動の種類が異なる――前者では『機械的作用』が、後者では『発生』が関心の対象となる運動である。

 生産システムにおいては、科学の役割と、自然に関する特定の概念――すなわち物質主義(唯物論)――がその基礎におかれている。また生産システムにおいては、政治に対して自然とは異なる機能が与えられている。生産システムの原点には人間アクターと資源との区別がある。根本のところで、自然は単なる背景、その前で人間は自由を享受する存在として捉え、人間と自然にはそれぞれ明確な境界をつくる固有性があり、その境界は特定可能だと捉える。

 一方、発生システムにおいては、エージェント(行為能力を発揮する存在)やアクター(他に影響を及ぼしうる存在)といった動的存在が互いに対峙しあっている。これら地上的存在(すなわち複数のテレストリアル)のそれぞれが別個の反応能力を持つ。発生システムとは、生産システムが形づくる物質概念から派生したものではないから、生産システムとは認識論も政治の形態も異なる。また発生システムは、人間のために資源を利用したり商品生産したりすることには全く興味を持たない。地上的存在(複数のテレストリアル)を発生させることだけに興味を持つ。地上的存在とは人間だけでなく、すべての存在を指す。さらに発生システムは、愛着の醸成(愛着を持って互いに結びつきを深める)という考え方を土台に据える。しかしそれを作用させることは実は大変難しい。なぜなら、動的存在は近代化の最前線によって制限を加えられているわけでも、一方の側に押し込めているわけでもないからだ。動的存在はつねに何重にも重なり合い、互いに入れ子状になっている。」(同書、127~8頁)

 ついにここでラトゥールは、原理原則に接近します。それは「生産システム」を退けて「発生システム」の原理にしたがうということです。生産システムの原理は、①拘束からの自由(解放)、②人間中心主義、③自然と人間の関係は機械的関係、としてまとめられるでしょう。他方で、発生システムの原理は、①あらゆるものの依存、②自然と人間の分散的役割、③宇宙圏での万物の発生が対象、となります。簡単に言えば、自由・人間・機械的関係としてある生産システムの原理から、依存・分散的役割・万物の発生、という発生システムの原理への転換です。しかし、ここでの「発生システム」の説明もなかなか理解しがたいですね。

 「『私たちは地上との絆に縛られた存在だ。私たちはテレストリアルのただなかにいるテレストリアルである.』こう主張することは、『私たちは自然の中にいる人間である』と主張するのとは異なる政治をもたらす。二つの主張は同じ布で織られてはいない。あるいは同じ泥からできていないと言った方がいいだろう。」(同書、133~4頁)

 ラトゥールは、生産システムと発生システムの違いを、テレストリアルの絆に縛られた人間による自己認識か、自然と区別された人間の自然認識か、というようにも説明していきます。

 「発生システムにおいては、すべてのエージェントが、すなわちすべての動的存在が人類の祖先と子孫に関わる問いを投げかけてくる。私たち人類の系統的つながりを招来も長く維持していくためには、その系統についてよく理解し、その系統のなかに自身をどう位置づけるべきかをよく検討しなければならない。」(同書、135頁)

 なるほどここまでかみ砕かれると、なんとなく理解が進みます。人間、非人間、物質、等々がすべてエージェントとして、発生システムを構成しているのです。

 「生産システムに囚われると、人間だけが革新の力を持つように思えてくる――もっともこのシステムのなかでの革新はいつもあまりにも遅まきなのだが。一方、発生システムのなかにいると、大惨事になる前に人間以外の多くの抗議者が声を上げる。また声を上げることが可能になる。発生システムにおいては、視点だけでなく生命の地点自体も増殖するからだ。

 生産システムから発生システムへと移行することで、不公正にたいして反旗を翻す根源的要素も増やすことができる。結果的に、テレストリアルへと向かう闘争を共に戦う潜在的同盟者との出会い、その範囲を大きく広げることができる。」(同書、136頁)

 発生システムの原理とそれによる世界の解読は何となく理解できますが、しかし、これを世間の常識にするにはまだまだ課題があります。とりあえずは、生産システムが地球を台無しにしているにもかかわらず、それに囚われた人びとはそのことが理解できない、ということを発生システムの原理に立てば、誰しも人間の生産活動に対する反逆心と怒りが巻き起こるでしょう。でもこの怒りをどうすればつなげていけるのでしょうか。

 「生産システムから発生システムへの転換を図るには、経済中心の統治から抜け出す方法を学ぶ必要がある。まずはシリウス的視点を離れることだ。」(同書、137頁)

 ラトゥールの提起はまずは視点の変更です。それによって、生産システムの原理にたもとをわかち、発生システムの原理にしたがうことです。

 

◯ テレストリアルの政治の基本としての調査

パート19.のタイトルは「居場所を記述する新たな試み――フランスで実施された苦情の台帳づくりを一つのモデルとして」です。

まずは、「苦情の台帳づくり」について、ラトゥールの説明を要約しておきましょう。時代はフランス革命前夜の1789年1月から5月にかけて、財政危機と天災不安のなかで国王の要請で実施されたフランスの全住民を参加させた調査で、「法令、土地区画、特権、税金等の一つひとつが詳細かつ正確に記述された。」(同書、148~9頁)ものでした。

 ラトゥールは、この調査が、同年7月に幕が切っておろされるフランス大革命での政権交代時での政策作成に大いに役立ったというのです。そして、現在、まさしく「資本主義に取って代わる体制を構築するにはどのような問いを立てればよいのか。」(同書、148頁)と考えているラトゥールは、フランスの故事にならって、今現在、革命前夜での調査の必要性を提起したのでした。ではその調査はどのようなものでしょうか。

 「第3のアトラクター(テレストリアル)が取り立てて魅力的に映らないのは事実である。だからテレストリアルにはこれまで以上に十分な保護と注意、時間、外交が求められている。依然、グローバルは光り輝き、自由を人々に与え、熱狂を呼び起こしている。危機に気づかずにいることを許し、人々を解放し、永遠の若者の印象さえ与えている。ただ一つ、問題なのは、グローバルが実際にはどこにも存在していないことだ。一方のローカルは、人々を安心させ、穏やかにし、アイデンティティを与えている。しかしここでも唯一問題なのは、ローカルもまた、どこにも存在していないことだ。

 小著の冒頭で問題にした事実は相変わらずそこにある。しかし、今やその捉え方は大きく変化した。『昔の自分に帰るのでもなく、国境の防衛に向かうのでもないとしたら、どうすれば守られているという感覚を養うことができるのか』。いまその答えを返すことができる。『近代化によって矛盾と決めつけられた(グローバルとローカルの)二つの相補的活動を同時に行うことです。土壌それ自身への愛着を育むとともに、世界に愛着を抱くのです』。

 テレストリアルと名づけたアトラクターは、明らかに『自然』とは違う。それは惑星地球の全体ではなく、その表層にあたるクリティカルゾーンの薄いバイオフィルム(生命の薄膜)である。それが土壌と世界という対立する二つの存在を結びつける。土壌はローカルの視点とは何のかかわりもないし、世界はマイナスのグローバリゼーションの視点とも惑星の視点とも全く似ていない。

 第3のアトラクターは土壌から物質性、異種性、厚み、埃リ、腐植土、連続した層、地層、そしてそれらに必要な注意深いケアを引き継ぐ。つまりシリウス的視点では見えないものすべてを引き継ぐ。それは開発計画や不動産計画が奪取してきた土地区画とは正反対のものである。テレストリアルにおいては地面、土壌の収容が不可能である。人々はテレストリアルに帰属する。しかしテレストリアルは誰にも帰属しないのである。」(同書、141~2頁)

 まず調査対象であるテレストリアルについてこのように説明しています。すでに述べられてきたことの要約です。しかし、ここで印象的なのは、グローバルもローカルも「どこにも存在しない」つまりユートピアだったと断言していることです。つまり、人々がグローバルやローカルに託している内容が、虚妄であって実在していないというのです。この虚妄を信じてしまうのは、近代人の物神事実崇拝によるのでしょうか。ラトゥールの『近代の<物神事実>崇拝について』(以文社)はこのことの考察ですが、ここでは立ち入るのをやめておきます。

 「テレストリアルによる政治の再組織化とは、このきわめて実際的な意味をさす。つまり、居場所を構成するそれぞれの動的存在が、ローカルとは何か、グローバルとは何かを認識する独自の方法を備え、また自己と他者のもつれた関係を定義する独自の方法を備えているということだ。」(同書、143頁)

 テレストリアルからの政治の再組織化に必要なことは、それ以外のアトラクターである、ローカルとグローバルについての批判的認識が前提となります。それらがユートピアだったとすれば、政治の再組織化のための問題の解明はどのようにしてなされるのでしょうか。

 「テレストリアルを手に入れるには、グローバルもローカルもなんの助けにもならない。そのことが今日、絶望が蔓延する理由である。広大でかつ狭小な問題群に対し、グローバルとローカルに一体何ができるというのか。実に落胆すべき状況なのである。

 では何をすればよいのか。第一に、これまでとは違う記述を作り出すことだ。地球が私たちのために用意してくれたものをすべて調査し、目録を作る。それが『人間』であるなら一人ずつ、それが『モノ』であるなら一つの存在ごとに、一センチ一センチ測って詳細に記録を残す。記録をつくらずして政治行動に訴えることなど、どうしてできようか。目録なしでも要領よく意見は述べられるはずだし、それなりにちゃんとしている世間的価値を守ることはできる――そうかもしれない。しかしそれだと、私たちの政治感情は虚空をむなしく撹乱するだけで終わる。

 見えなくなった居住場所を記述し直そう。そういう提案をしない政治はすべからく信頼できない。(記述抜きの)予定表だけの提案はどんな政治的虚言よりも恥知らずなものだ。

 もし政治の中身が枯渇し存在していないとすれば、それは底辺にいる人々の声なき声を政治のトップが一般的、抽象的な形でしか表象してこなかったことを意味する。底辺とトップに共通の物差しが存在しないそうした状態では、政治が代理機能を失ったと非難されても当然である。」(同書、144~5頁)

 ラトゥールにとっては政治はフィクションであり、自然概念の呪縛に囚われた自然科学も虚構でした。ですから、彼の政治の再組織化のための作戦は、まず居場所の記述と、それが要求している諸問題の政治化でした。そのためには、居場所の記述のための調査票づくりからまずは始める必要があるでしょう。これは個人の作業を超えていて、さまざまな学会や研究会の共同作業が必要でしょう。

 「懸案は、第3のアトラクター(テレストリアルのアトラクター)の登場について記述し、政治行為に意味と方向性を与えることだ。世界秩序と呼ばれるこれまでの枠組みは崩壊へと向かっている。ローカルへと向かう一目散の大逃走劇も開始されようとしている。そうした状況が招く大惨事を未然に防がなくてはならない。これまでとはまったく別の、世界秩序らしき新たな秩序を築くには、何よりも状況調査に基づく記述を丹念に続け、シェアが可能な世界像をなんとか描き出すことから始めなければならない。」(同書、151頁)

 ラトゥールは、新型コロナのパンデミックによるヨーロッパの都市封鎖に際して、アンケートを作成しています。これも一つの参照事例としつつ、状況調査に取り組みましょう。この調査は、基本的には政府が取り組むべき課題です。最終的には日本政府の調査活動として実施されるように働きかける必要があるでしょう。

 

◯ ヨーロッパへのラトゥールの想い

パート20.のタイトルは「旧大陸を個人として弁護する」です。この最後のパートで、ラトゥールは、次のようにヨーロッパへの想いを述べています。

 「ヨーロッパにとっての現状は、潜在的移民と百年契約を結んだに等しい。私(ヨーロッパ)はあなたの許しを得ずにあなたの土地に入った。あなたも私の許しを得ずに私の土地に入るだろう。それはギブ・アンド・テイクの関係だ。それ以外の道はない。ヨーロッパはすべての民族の土地を侵略した。今度は、すべての民族がヨーロッパにやって来る番だ。」(同書、158頁)

ヨーロッパは日本の明治維新以降に日本が学んだ先進諸国でしたが、第二次大戦後、アメリカの世界的覇権が確立し、日本はアメリカの核の傘に入って、軍事的にはアメリカ極東軍の支配下にあります。また経済的・文化的にもアメリカがお手本でした。そういう雰囲気のなかで、私もヨーロッパ現代史については十分な注意を払わずに過ごしてきました。今回ラトゥールの提起を受け止めようとして少し調べ始めたばかりです。だからこのようなラトゥールの想いは素晴らしいとは思いますが、実現可能な目標であるのかどうかわかりません。ただ、1789年にフランス革命によって以降の資本主義への道を切り開いたフランスが、21世紀に、資本主義の退路を断つ調査事業に、国家として取り組む可能性はゼロではないでしょう。フランス政府が調査に取り組むことを始めれば世界は変わる、と大いに期待するところです。