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                  緊急の課題 榎原均

   テーゼ
 (1)既成の党派(旧左翼・新左翼を問わず)の政治は、全て、最小限綱領のレベルの要求で大衆運動を組織することを土台にしていた。従って左翼の意識性は、この土台に制約されているが、この意識性の狭さが80年代における左翼諸党派の運動の後退をつくりだした根本的要因である。

 (2)今日、自然発生的な大衆運動の多くは、最大限網領のレベルの要求で自己を組織している。それゆえ、最大限網領のレベルの要求で大衆運動を組織することを土台にした新たな政治が問われている。そして、この新たな政治こそが、今日の活動家たちがもたねばならない意識性の内実なのである。

 (3)最大限綱領のレベルの要求にもとづく大衆運動は、最小限網領レベルの要求にもとづくそれとは、その運動の質、発展法則が異なっている。活動家たちは、最大限網領のレベルの要求で大衆運動が自己を組織していることを認めるだけでなく、自分たちの意識性を確立するに当たって、この相違に注目しなければならない。

 

  【解説】

 (1)最大限網領は社会革命の網領であり、政治的には階級の廃止であるが、商品・貨幣・資本関係の廃絶をその根本内容としている。他方、最小限網領は、一般に当面の要求として理解されているが、その根本は民主主義である。従来の左翼の意識性は、民主主義的要求で組織した大衆運動を、ブルジョア国家権力の打倒へと導くことにおかれ、社会革命の諸要求で大衆運動を組織することはその視野に入ってはいなかった。
 そして革命運動の歴史的経験は、民主主義革命においてブルジョア階級を打破り、プロレタリアートの国家を樹立し、ブルジョア階級を収奪するところにまで進んだものの、商品・貨幣関係の廃絶については、その展望さえ明らかにすることができなかった。こうして死滅すべく組織されたはずのプロレタリアートの国家が変質して、官僚が階級に成長し、悪い意味での民主主義を社会の経済的関係にも徹底させ、民主主義の止揚に抵抗を試みることを許してしまうという苦い事態が生じている。

 (2)この革命運動における困難を打破する唯一の道は、商品・貨幣関係の廃絶の実践的展望を明らかにすることから開かれよう。そして、この実践的展望の解明は、最大限網領のレベルの要求での大衆運動を組織することを土台とした、新たな政治運動を展開することを可能とするために、活動家に必要とされる意識性の要諦なのである。

 (3)商品・貨幣関係の廃絶の展望は、それらがどのようにして成立しているかを解くことから導かれてくる。そもそも貨幣は、諸商品に意志を宿した商品所有者たちが交換過程に直面して、本能的に単一の商品金で自分たちの商品の価値を表現するという共同行為を行うことによって生成され、そして、貨幣が生成されることによって商品関係は社会的に妥当なものとなり得たのであった。だから、所有者が自らの所有物に価格をつける、という行為が貨幣関係を日々再生産しているのであり、このように所有者の行為によって日々再生産されているがゆえに、それを廃絶することも可能なのである。ところが、貨幣生成の共同行為は、なるほど商品所有者たちの意志行為ではあるものの、商品という物象に意志を支配された行為であり、社会的本能にもとづく行為であって、自由な人格間の自由な意志行為ではありえない。だから当事者たちにとってこの共同行為は、無意識のうちになされているのであり、それゆえ彼らの意識にあっては、貨幣がすでに存在しているから自分たちの商品に価格をつけていると観念されていて、自分たちの共同行為が貨幣を生成させているという現実は意識されはしない。

 (4)物象による意志支配からどのように逃れるか、という問題は、今日では大衆がいだいている一般的な関心となっている。だからこの問題に対しては多くの思想家たちがとりくんできた。しかし、現代の思想家の誰もが問題そのものをきちんと把握していないのであって、その解法がデタラメなものにならざるをえなかったのも当然のなりゆきであった。問題を商品・貨幣関係の廃絶としてたてること、これが思想界の混乱から抜け出るための出発点である。資本関係の方はどうするのか?という質問があるかもしれない。これについては、資本関係の廃絶は歴史上の経験があると答えるだけでよい。今日世界の資本関係がいまだ存続しているのは、その廃絶の実践的展望が明らかではないからではなくて、さらに進んで商品・貨幣関係の廃絶の実践的展望が不明なために、革命運動が自然成長的に得ている力を社会革命の力へと転じることができていない、ということによっているのだから。

 (5)物象による意志支配とは、根源的には貨幣生成のための本能的な共同行為に始まる。したがって、そこから逃れるためには、本能的な共同行為を廃絶すればよい。ところが、例え社会的なものであるとはいえ、本能的な行為を意識でもって統制しようとする試みは直接的には失敗せざるをえない。この共同行為は、法律的、あるいは行政的措置の手におえない領域にあるのであって、このことはプロレタリアートの独裁の下においても変わりはない。実際、プロレタリアートの独裁が、法律的、あるいは行政的働きかけでもって、商品・貨幣関係を廃絶しようとする試みが破産したということは、歴史上の現実なのである。

 (6)この歴史上の現実はまた、ブルジョア社会が成熟しない時点での試みであり、従って、革命運動は、自らの試みを実現する物質的及び精神的諸条件をもち合わせていなかったこととして理解することができる。本能的な共同行為を直接に意識的に統制することが背理であるとしても、ブルジョア社会が成熟し、階級が成熟して、プロレタリアートの自然成長的な力量が増大しているもとで、大衆運動が最大限網領のレベルの要求で自己を組織するようになってくると、この本能的共同行為を不必要とする物質的・精神的諸条件を形成することが実践的に可能となってくるのである。貨幣を生成する本能的な共同行為は、直接には統制できないが、しかし、この共同行為を不必要とする諸条件を形成さえすれば、迂回的に統制することができる。そして、これが、商品・貨幣関係の廃絶のための実践的展望の解明の手がかりなのである。

 (7)今日展開されている大衆運動は、自然発生的に商品・貨幣・資本関係の批判へと進んでいる。このことは、大衆運動が最大限網領のレベルの要求で自己を組織していることの帰結である。しかしながら、この自然発生的な社会批判は商品・貨幣・資本関係を使用価値の側面で捉えて、これを批判する、ということにとどまっている。使用価値は千差万別であるので、使用価値批判にとどまる限り、大衆運動は課題別に分散化し、相互に対立しあうことになって、社会革命に不可欠な、運動の統合をもたらしえない。こうして大衆運動は、最大限網領のレベルの要求をかかげていながらも、その自然発生的な展開においては、その要求を実現すべき運動の統合へと到ることが出来ないので、社会改良の道へと収れんされてしまうことになる。今日の大衆運動の多くは、資本に組織された社会と文明に対する使用価値批判(大規模工業批判や食品添加物批判や公害批判等々)に留まっているので、資本の文明に対抗する社会改良の運動という側面が全面化し、その運動が最大限網領のレベルの要求にもとづき、社会革命を展望している、という側面は隠されてしまうことになる。

 (8)今日の大衆運動にあって、活動家たちが運動を統合することを意図しながらも、現実には運動の分散化と相互間の対立が進行していること、このことは運動の自然発生性が優位であることの帰結である。もし、活動家たちが、使用価値批判からさらに進んで、商品・貨幣・資本関係を、この社会と文明を価値批判として批判するならば、それは、この社会と文明の統合原理を批判することを意味し、使用価値批判から出発した自然発生的な大衆運動を統合する思想的核心を獲得したことにはならないだろうか。

 (9)新社会の形成要素は、旧社会のうちですでに根を張っていなければならない。商品・貨幣関係の廃絶の展望が商品所有者たちの本能的共同行為を不必要とする諸条件を形成することによって与えられるとすれば、さしあたって問題となるのは,協同体である。ブルジョア社会においても、商品・貨幣・資本関係を排除した小協同体を形成することは可能である。しかし、この協同体の連合がそれ独自でブルジョア社会を転覆する普遍的な運動体に成長するという実践的展望は夢想にすぎない。貨幣生成の共同行為を不必要にする諸条件を経済的に形成する、というこの試みは、商品・貨幣・資本の価値批判にもとづく新たな文化形成のネットワークとして自己を位置づけたとき、意義あるものとなろう。ブルジョア社会における新社会の形成要素で、今日決定的に不足しているものは価値批判の文化である。この文化こそが、貨幣生成の共同行為を不必要にする諸条件のうちのブルジョア社会に根を張ることの可能な主要なものである。今日の大衆運動の戦線が、商品・貨幣・資本関係の廃絶の実践的展望としてある文化の形成を自己の課題とするとき、社会革命をめざした運動の統合は現実のものとなるであろう。

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