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         気候変動に対応できる政治を求めて  2020年7月 境 毅

はじめに

 新型コロナによる自粛要請に続く梅雨の時期の豪雨被害の続出、これは日本では数年間続いている異常気象ですが、日本だけでなく世界的なもので、現に現在中国の豪雨で、4500万人が被災したと報道されています。気候変動に対応できる政治が求められているのですが、ちょうどタイムリーに『社会運動』が7月号で、また『現代思想』が3月号で気候変動をテーマにしています。しかしこれらを読んでもまだ確たる回答はありません。また、これらの特集で、ラトゥールの『地球に降り立つ』が、一つの論文を除いて全然取り上げられていないことにも違和感があります。

 その一つの論文、土佐弘之「気候正義の政治」(『現代思想』3月号)も、ラトゥールについて「正直言って、彼の分析は不明瞭というか些か混乱している印象があると同時に隔靴搔痒といった感が否めない。」(156頁)と述べています。もっとも土佐が言うように「ラトゥールなどに見られる非還元主義的な多元論的一元論に先に依拠してしまうと、社会/自然の搾取関係と人間社会内の搾取関係との相互関連を捉えることができなくなってしまう危険性がある。」(161頁)という側面があることは私も否定はしませんが、ラトゥールの分析が「不明瞭」であるとか「混乱」であるといった印象は、払拭しなければならないでしょう。

 ラトゥールの提起については、私は賛同し、すでに会報295号で「ラトゥールの『地球に降り立つ』の勧め」で紹介しました。というのもこの書での「新しい政治」とは、大地(テレストリアル)に足を踏まえた人びとへの政治参加への呼びかけであり、しかもその政治が、代議制を前提としたものではなくて、テレストリアルの詳細な調査とその報告を社会的空間で行うことで世論を形成していくというものだったからでした。この呼びかけは、実は私たち協同組合の組合員への呼びかけでもあったのです。

 当初の予定では、第二回目は、デジタル経済とモバイル革命の成果を踏まえた日本での地域づくりについての考察を報告することにしていましたが、たまたま7月11日に「新型コロナ後の知とは」というテーマで、NPO法人きょうと介護保険にかかわる会の研修会で、ラトゥールについて報告していますので、その時の報告から主としてラトゥールの『虚構の「近代」』について話した内容を掲載することにします。

 ラトゥールはもともと地味な研究者で科学論を比較人類学の方法で研究していて、ベルリンの壁崩壊に際して問題提起したこの本の内容は、それまでの研究から見れば突然変異のようなものです。この書は、近代の科学と政治の誕生の時期にさかのぼってその虚構性を暴こうというもので、科学論の専門家には理解の彼方にあるような気がしています。また政治学や社会学の研究者もきっとついていけていないでしょう。そしてこの書でのラトゥールの提起を受け止めることなしには、突然彼が「新しい政治」を提案した『地球に降り立つ』も理解不可能でしょう。それでは私が道案内しますので、「不明瞭」で「混乱」していると評されているラトゥールの提起について整理していきましょう。

 

第1章 中世から近代への過渡期と知の変動の様相

 

1.アクターネットワーク理論(ANT)とは

 今から、ラトゥールの『虚構の「近代」』(新評論、2008年、原書1991年)で彼が述べている近代知の虚構性について紹介していきます。ラトゥールは、なぜか「近代知」という用語を使いません。単に「近代」という用語で表現していますが、それは社会を人間と非・人間とが織りなすネットワークとみるところから、問題を思想に限定したくないからだと思われます。しかし、私は問題を「宗教知」から「近代知」への変遷と捉えた方が分かりやすいと考え、ラトゥールの「近代」という包括的な把握を「近代知」に翻訳したいです。

まず簡単にアクターネットワーク理論(ANT)についてまとめ、その上でラトゥールがこの本で依拠しているシェイピン・シャッファー『リヴァイアサンと空気ポンプ』(名古屋大学出版会、2016年、原書初版、1985年)に直接あたって、ホッブズとボイルの論争を追ってみます。そしてその後で、ラトゥールの解釈について言及します。

 ラトゥール自身は、2005年にアクターネットワーク理論の入門書を出版しています。『社会的なものを組み直す――アクターネットワーク理論入門』(法政大学出版局、2019、原書、2005年)がそれですが、これは研究者向けの入門書です。この本ではあまりにも整理され過ぎているので、それに至る書物から、端的にその特徴を記述している箇所を引用しましょう。まず、1999年に出版された『科学論の実在』(産業図書、2007年、原書1999年)では次のように述べられています。

 「私は、読者に対して、本書は新たな事実に関する書物でもなければ、厳密には哲学書でもないことを警告しておくべきだろう。私は、本書において、きわめて基本的な道具のみを用いて、主体と客体の二分法によって取り残された空っぽな空間の中に、人間と非・人間のペアのための概念的舞台背景画を提示しようと試みているだけである。」(『科学論の実在』、ⅱ頁)

 ラトゥールは、この目論見を実現しようと手を変え品を変えて試みていますが、この本では結論には至っていません。ある意味さまざまな方法で、人間と非・人間がとりなすネットワークとしての社会を活写しようとしているのですが、確たる概念的舞台背景画はこの書では未確立なのです。では、何がこのような試みを彼に強いているのでしょうか。それについては、ベルリンの壁の崩壊があり、また、気候変動抑止のための国際会議が初めて開催された1989年に閃いた発想である、虚構の近代を乗り越えるための次のような目標でした。

 「『ハイブリッドの存在を公式に認めることで怪物の増殖を遅らせ、生産を制御し、発展方向を変えることができる』。これこそ私たちが達成すべき目標だろう。」(『虚構の「近代」』、29頁)

 つまり、ラトゥールは、近代知の虚構性を暴き、人間と非・人間がおりなすネットワーク(ハイブリッド)を知覚し理解できる概念的方法を確立することで、気候変動に対応できる政治や政策を生みだそうと考えたのでした。

 ところが、入門書では次のような記述があります。

 「社会科学者の役目は、もはや、何らかの見方を押し付けたり、受け入れ可能な事物の範囲を定めたり、アクターたちにアクター自身が何をしているのかを教えたり、アクターたちの盲目的な営為に何らかの反省性を付け加えたりすることではない。ANT生まれのスローガンを使えば、『アクター自身に従うこと』が必要である。つまりは、この世のすべての存在がアクターの手のなかでどうなっているのかをアクターから学び、そうした存在をうまくかみ合わせるためにアクターがどんな方法を練り上げてきたのかをアクターから学びアクターが打ち立てざるをえなかった新たな関連を最もうまく定義できるのはどのような説明なのかをアクターから学ぶために、アクターによるたいていは野放図なイノベーションを追いかけていくことが必要なのである。」(『社会的なものを組み直す――アクターネットワーク理論入門』(法政大学出版局、27~8 頁)

 この叙述は、『科学論の実在』での目論見と比較すれば、後退しているように思えます。というのも「アクター自身に従うこと」ということで、概念的舞台背景画については、アクター任せにしているからです。これはある意味後退ですが、私は、『科学論の実在』と、同じころに書かれた『近代の<物神事実>崇拝について』での概念的舞台背景画の作成の試みとその挫折があったとみています。私としてはこの挫折を乗り越える提起をしたいと考えていますが、これは今後の課題です。そして、これは『現代思想』で疑問を投げかけた土佐論文への回答ともなるでしょう。

 ところで、ラトゥールは、この入門書で終わらずに、2017年には『地球に降り立つ』を書きました。これは、概念的舞台背景画が描き切れてはいないという限界をもちつつも、新しい政治についての提案をしています。ここには新型コロナ後の知のあり方を模索するにあたって有用な様々な提起がなされています。したがって、最後の章では、『地球に降り立つ』の問題提起を受けて新たな知についての構想を描き出したいと考えています。

 ところで、ラトゥールは、パンドラの箱が好きです。『科学がつくられているとき』(産業図書、1999年、原書、1987年)の序章は、パンドラのブラックボックスを開く、で、この本と対になっている1999年の『科学論の実在』の結論が、どんな工夫がパンドラの希望を解放するのか?でした。

 ラトゥールのパンドラの箱は、最初は素朴な実験装置であり、ハンドメイドで高価であったものが、技術の発展で普及して行って安価なものとなったときに、その中身はブラックボックス化している、その箱を指してもいます。ダイアルを回す電話機は、その構造についてなんとか推測できますが、スマホになると素人では中身がわかりません。

 ブラックボックスは人間と非人間とのネットワークの産物でこれをこじ開けることが自分の使命だと感じていると共に、神話にある、すでに開けられてしまったパンドラの箱に残っているとされている「希望」を掴みたいという意図もあります。「希望」を求めて、彼と一緒に束の間のさすらいの旅に出ましょう。

 

2.ホッブズとボイルの時代

 『リヴァイアサン』(Leviathan)は、トマス・ホッブズが著した政治哲学書で1651年に発行されました。当時のイングランドは政情不安定で、ホッブズはフランスへの亡命を余儀なくされてもいます。中世のローマ教会支配のもとでは、聖職者の大学支配があり、近代の幕を切り拓いたガリレオ、コペルニクス、ニュートン等々の自然科学者、デカルト、スピノザ等の近代哲学者は時代のものすごい圧力に抗して実験し思考したのです。ローマ教会からの圧力は書籍の出版をためらわせるほどのもので、無神論者でも著書には神についての記述を加えています。

ホッブズと同時代人のデカルトは大学を選ばず、オランダの義勇軍に参加し、書物に学ぶのではなく社会に学ぶという問題意識をもっていました。戦闘に参加したという記録はありませんが、有名な「われ思うゆえにわれあり」は兵舎で思いついたのです。(小泉義之『兵士デカルト』参照)。

 ホッブズも裕福な貴族の家庭教師をし、当時何度か政権交代(クロムウエルによる王政の打倒と後の王政復古)を経験し、亡命を余儀なくされています。ホッブズの『リヴァイアサン』は国家を社会契約による人工物とみなしましたが、それは万物を創造したのは神だというローマ教会の教えへの反逆でした。

 ボイルは、ニュートンと同じく錬金術師でしたが、1657年、オットー・フォン・ゲーリケの空気ポンプについて目にし、ロバート・フックを助手として自ら空気ポンプの製作を始めました。1659年に空気ポンプを完成させ、一連の空気についての実験を始め、空気ポンプを使った研究成果を1660年に出版しています。

 ところで、このお互いに有名な二人の間で、空気ポンプをめぐって激しい論争がありました。これはすっかり忘れ去られていましたが、シェイピン・シャッファーは、『リヴァイアサンと空気ポンプ』でその論争の全貌を明らかにしたのです。この書にあたってその概要を紹介し、その上で、ラトゥールの解釈について見てみましょう。

 

3.ボイルが実践したこと:実験のみならず

 ボイルの実験になぜホッブズが目くじらを立てたのでしょうか。中世の科学技術の担い手であった錬金術師たちは、密室で実験していました。ところがボイルは、実験に立会人を立てて、その実験の報告を依頼したのです。ローマ教会の教えではなく、新しく実験によって得られた知見、これをいかに事実として世間に認めさせていくか、という問題意識を持っていたのでした。

 「ボイルが提案したのは、事実を確立するのは個々人がもつ信念の集積だということだった。・・・事実とは、ある人が実際に経験し、自分自身にたいしてその経験の信頼性を請けあい、他の人々に、彼らがその経験を信じることには十分な根拠があると保証するプロセスの結果としてえられるものなのであった。このプロセスのうちで根本的だったのが、目撃情報を増加させることであった。」(『リヴァイアサンと空気ポンプ』、53頁)

 このようなある意味政治的な発想で実験に取り組んだボイルの同時代には、人々の知覚の向上をさせる様々な科学器具が生み出されていました。

 「新しい科学器具である顕微鏡、望遠鏡、そして空気ポンプの真価は、知覚を向上させ、新しい知覚の対象を構成する能力のうちにあった。」(前掲書、63頁)

 ところでボイルが空気ポンプの実験で、空気にバネがあることを世間に認めさせようとしたのですが、その際に、事実と原因とを切り離し、原因については語ることはなかったのです。「彼(ボイル)が行うのは空気のバネの妥当な原因を挙げることではなく、空気がバネをもつことを明確にしめし、それの効果のいくつかを論じること」(前掲書、75頁)でした。

 「ボイルの考えでは、実験が事実を生みだす力をもつのは、単にその実験が実際におこなわれるからではなかった。むしろ決定的であるのは、実験がほんとうに報告されたとおりにおこなわれたと、関連する人間集団が保証することであった。」(前掲書、79頁)

 ボイルは実験の結果を集団的に保証するために、立ち上がりつつあった実験コミュニティにかかわったのです。そして、実験を社会空間のうちでおこなうことを実現したのでした。

 

4.ホッブズの問題意識:人工物たる国家の安定

 他方でホッブズは、神が万物を創造したというローマ教会の教えに反逆して、国家を社会契約による人工物ととらえました。そしてこの国家を安定させる方策について思索をめぐらせていたのです。ホッブズの時代には、国家と聖職者への二重の貢納がありました。教会の十分の一税の根拠は、「王たちは司教からさずけられたものによって統治する」(前掲書、113頁)というところにありましたが、ホッブズは、「二重貢納の帰結は内戦と混乱であった」(前掲書、113頁)ので、二重の貢納の否定の論拠を打ち立てようとしたのです。

 ホッブズは、旧世界の思考方法である、「物質と霊とのあいだの序列をともなった区分」を破壊することをめざしました。

 「その序列を破壊して物質の側に立つことによって、世俗的な主権者の勝利が保証された。『リヴァイアサン』が唯物論的で一元的な自然哲学を提示したのはこの目的のためだったのだ。」(前掲書、115頁)

 ところで当時の政治の研究は、まだ政治学や社会学といった分野に区分されておらず、探究者たちは、神学の素養はもちろんのこと自然哲学や自然科学にも通じていました。ホッブズは、自然哲学の分野において真空論を認めず充満説に依拠していました。

 「世界は物体で充満している。物体でないものは存在しない。そして真空はありえない。」(前掲書、115頁)

 この充満説に固執し、ボイルの真空説に反対し論争を挑んだのは、ボイルが実験の結果を実験コミュニティを通じて社会的な空間で事実として確定しようとするその政治的な振る舞いが、国家の安全にとっては無視できないと考えたからでした。

 「真空に反対する論拠は、政治的な発話状況のなかでしめされたのだ。公共の平和を確かなものにするためにホッブズは、真空であるにせよ非物体的な実体であるにせよ、物質でないものが入り込む余地を残さない存在論をつくりあげ、展開したのであった。彼がみずからの唯物論的一元論を推奨したのは、それが社会秩序を確保することに寄与すると思われたからである。」(前掲書、115頁)

 これはどういう意味かと言えば、実験室で得られた事実に対する知識は、つど変化しうるものですから、そのような事柄を国家の原理に据えれば、国家は実験結果の変化するつどその秩序の変更をせまられることになります。ですから人工物である国家にとってはこの要因をひきいれることになれば、不安定なものとなるからでした。

 

5.ホッブズが依拠したものは幾何学的推論

 ボイルの『自然学的・機械学的新実験』が1660年の夏に出版されました。これに対してホッブズも著作で対抗します。

「ホッブズは今や、自然哲学探究のたんなる有用な付随物としての実験ではなく、十分に発展させられた自然哲学のための実験プログラムと対峙していた。・・・(ホッブズは)すぐさま応答した。すなわち『空気の本性についての自然科学的対話』を1661年の夏に出版したのである。」(前掲書、125頁)

 この時点で、ホッブズの反論について要約的にまとめると次のようになります。

 ①実験の実施の公的性格について懐疑を表明しました。②実験プログラムを無駄なものとみなしました。プログラムでなくて、一つの実験でいいというのです。③実験プログラムから得られる成果が哲学の地位をもつことを否定しました。というのも、原因から結果の帰結の証明、あるいは結果から原因を推論するというような作業がなされてはいないと見たからでした。④実験によって発見された規則性を観察することとその原因を見極めることとの間に境界線を設けることに対して拒否しました。⑤哲学にこだわったホッブズは、実験主義者たちの仮説と推測を、そういうものとしてではなくて、その原因に対する言明として扱ったのです。⑥ボイルの、実験によって得られた現象が真空論であるという事実の説明に対して、ホッブズは充満論でもっとうまく説明できると考えました。⑦最後に、実験の結果にはあとから無効化される可能性があること、実験にはさまざまな前提があり、それらの前提にはつねに懐疑的になるべきことを指摘しました。(前掲書、125~6頁の要約)

 ホッブズの警戒心は、実験が公的性格をもち、そこで得られた現象から導かれた事実を社会契約のなかに持ち込めば、実験自体が可変なものであるから、絶えず社会契約を変容させるという思いがあったのでしょう。人工物である国家の基礎となる社会契約には、もっと普遍な原理を求めるべきだと考えたのでしょう。そこでホッブズが拠り所にしたものが幾何学でした。

 「人々はみずからがつくったものを真に理解することができる。そしてそれは幾何学においても全く同じである。人びとは定義、図形、そして空間という幾何学の基体をつくるのであって、またそれらのものが彼らによりそうつくられたものだということはしめされうる。だから幾何学と政治哲学は同等のものなのである。」(前掲書、162頁)

 「リヴァイアサンがコモンウェルスの法をさだめ、執行するさいにもちいる力は、それゆえ、幾何学的推論の背後にある力と同じものなのである。」(前掲書、163頁)

 絶えず変動していく実験による自然科学的事実ではなくて、人がつくったものである幾何学を社会契約の背景にある力とする、このように考えて、ホッブズは、台頭しつつあった自然科学の実験コミュニティの政治的抬頭にたいして歯止めをかけたのでした。そして、『リヴァイアサンと空気ポンプ』の著者たちは、執筆当時の科学技術の恥知らずな振る舞い、例えば、後にベックが1986年のチェルノブイリ原発事故後に出版した『危険社会』(法政大学出版局)で指摘した、科学技術が開発した商品が政治の関与なしに社会に登場するという「サブ政治」がありますが、科学の歴史を専門とする著者たちは、1980年代半ばのイギリスでの科学の独走という現状を踏まえて、このホッブズの立場に軍配を上げたのです。

 

第2章 ラトゥールによる近代の虚構性の発見

 

1.ラトゥールの解釈の観点

 ラトゥールは、著者たちとは違って、もっと別の観点からホッブズとボイルの論争に分け入ります。『リヴァイアサンと空気ポンプ』(名古屋大学出版会)は「社会という状況とそれから完全に離脱した自然とが、実は同時に創造されたということを明らかにしてくれた。」(『虚構の「近代」』、35頁)というのです。このラトゥールの観点を把握するためにまず彼の近代知への批判を紹介しておきましょう。

 『虚構の「近代」』では、ラトゥールは、近代の「憲法」という用語で、一般に憲法と呼ばれている法律ではなくてもっと広く様々な分野での近代になって以降の決まり事を表現しています。私はこの「憲法」も近代知と翻訳します。

 「近代は人本主義(ヒューマニズム)の観点から定義されることが多い。一方で人間の誕生が祝され、他方で人間の死が告げられる。こうした習慣はアシメトリカル(非対称的)なもので、いかにも近代らしい。つまり、『人間』と同時に『非人間』(モノ、対象、野獣)が誕生していること、神が格下げされ、奇妙な『なかば抹消された神』に変貌していることが見落とされている。人間、非人間、なかば抹消された神を同時に生産すること、そうした同時生産を隠蔽しつつ三つを独立したコミュニティとして扱うこと、分離した扱いの産物として、水面下でハイブリッドを増殖し続けること――以上三つの実践から近代は成り立っている。人間と非人間の分離、水面上で起きていること水面下で起きていることの分離、この二重の分離が近代人として私たちがどうしても維持しなければならなかったものである。」(前掲書、32頁)

 第1章の冒頭で、主体と客体の二分法によって取り残された空間に存在している人間と非・人間のペアというように整理されている後の理解を紹介しておきましたが、ここでは人間と非人間との分離、そしてなかば抹消された神、これらが三つのコミュニティとして完全に分離しつつも、下部ではハイブリッドが増殖されている、というように説明され、三つの分離のほかに、水面上と水面下との分離というように、二重の分離として複雑に説明されています。そして、ラトゥールは、この分離が生み出されてきた歴史的過程として、ホッブズとボイルの論争を位置づけたのでした。

 両者の論争についてはすでに『リヴァイアサンと空気ポンプ』から紹介していますので、ここでは、ラトゥールの解読の要約をしておきましょう。

 

2.ボイルとホッブズの違い

 『リヴァイアサンと空気ポンプ』について、ラトゥールはその概要を次のようにまとめています。

 かの名著は、ボイルに「科学の外に政治を運び出す言語」(前掲書、36頁、『リヴァイアサンと空気ポンプ』から重引)を実験によって語り普及させる役割を与え、そしてこの発想を批判しようとしたのですが、ラトゥールは、ボイルの批判ではなくてボイルの政治活動を掘り起こしたことを評価しました。つまり、「ボイルとホッブズがいかに戦い、科学と社会的コンテクストを、そしてその両者の境界を以下に創造するにいたったのかを明らかにしたのである。」(『虚構の「近代」』、37頁)「ボイルには科学だけでなく政治理論を、ホッブズには政治理論だけでなく科学を帰属させたのである。」(前掲書、38頁)

 二人は「すべてに一致し、不一致が一点だけある」(前掲書、38頁)「(トリチェリ実験において)ボイルは、それを真空であると解釈した。ホッブズは、国家の平和というマクロ的な立場から真空の存在を認めるわけにはいかなかった。真空の存在を認めてしまえば、実験室という、国家が関与できない社会的空間の存在を、そしてそこでの知識生産を当然視することになり、半ば構築した国家秩序はまたもや崩れかねないからである。」(前掲書、39頁)

 このようにラトゥールは、二人の間の違いをただ一点に求めました。それは、真空説と充満説の違いでした。

 

3.ホッブズと人民

 ボイルは、空気ポンプ実験による真空の創造を、見学者(当時の高名な人々を選んだ)の同意に求めました。

 「彼は、論理学、数学、または修辞法ではなく、超司法的隠喩に主張の根拠を求めたのである。実験の場に集まった信頼できる裕福な証人たちが、まさにその場で起きている事実について証言する。」(前掲書、40頁)

このボイルの行動は、実験そのものではなくて、その結果を世間に広めるための政治活動でした。そして、ホッブズにあっては、別の政治的立場からボイルの政治的動きが気になったのです。

 「ホッブズは、ボイルが用意した立証の舞台を一蹴する。」(前掲書、41頁)

 「ホッブズは市民を創作者とし、市民の代理で行為する者を国家身体と定義した。彼は国家身体による統合という考えに取り付かれていたのである。そうした統合があれば超越者など必要ではない。」(前掲書、42頁)

 ホッブズが求めている人工物としての国家身体の権威は、実験による事実とは別のものでした。それは幾何学的推論だったのですから。

 「ホッブズにとっての権威とは知識である。市民戦争を終わらせるには唯一の権威、唯一の知識しか存在しない状況をつくることが必要である。彼はそう明言した。」(前掲書、42頁)

 「ホッブズは、国家についての彼自身の学問を超越性祈願に変えてしまわないようにと心を砕いた。科学的成果に到達するのに見解、観察、発見ではなく、数学的証明を常に経由させるように尽力した。それこそ万人の同意を得る唯一の方法だったからである。」(前掲書、43頁)

 ボイルに対するホッブズの立場をこのようにまとめたうえで、ラトゥールが注目するのは実験室における非・人間の証言です。

 

4.非・人間による証言

 ラトゥールは、ボイルとホッブズの立場の対立の背景に何があるかを解明しようとします。

 「ボイルは空気抜き器、ガスケット、クランクを含む装置の汚れた細部を通して議論が進むように仕向けた。それに対し、ホッブズは全く逆に実験に関わるすべてのことを迂回しようとした。同様に、科学哲学者や思想史家も、実験室の世界や概念を瑣事まみれにしてしまうおぞましい『台所』を回避したいと考えていた。」(前掲書、46頁)

 実験について細部までこだわり、その帰結を社会的空間に広めていくというボイルの立場の背景にはいったい何があったのでしょうか。

 「不活性な非人間は確かに意志や偏見を持つことができない。しかし、信頼できる証人の前で実験装置に走り書きをし、記録を残し、合図を送り、何かを指し示すことはできる。非人間は、魂は持たないが意味を授けられる。そして、並の人間よりもはるかに信用できる。意志を持つとはいえ、人間は信頼できる仕方で現象を表示するのが得意ではない。『憲法』によれば、疑いがある場合、非人間に訴える方が賢明である。」(前掲書、50頁)

 つまり、ボイルの実験は、非・人間による証言の言語化だったという解読がそれです。非・人間が、人間に認識をせまるその様態、これがラトゥールにとって決定的でした。

 「真空ポンプのそれぞれの型式がヨーロッパ中で再生産され、続いて、そう信頼できるわけでもない高価で複雑に入り組んだ装置が徐々に廉価なブラックボックスに改変されていき、やがては広まって、すべての実験室の標準装備になっていく。シェイピンらはそのような事実経過を辿ることで、物理学の一法則が普遍的に適用されていく過程を明らかにしたのである。つまりその過程を、標準化した実践のネットワークのなかで取り戻したわけだ。空気バネについてのボイルの解釈は間違いなく伝播していく。ただその伝播の速度は、実験装置が各所に導入されて実験者のコミュニティが形成されていく速度にぴたりと符合する。実践のネットワークから抜け出すことができる科学などどこにも存在しない。」(前掲書、51頁)

 このような解読は、それまでの科学論で、まずブラックボックスを開くという課題を掲げていたラトゥールだからこそ気づくことができたものでしょう。このような読解のもとにラトゥールはホッブズに軍配を上げた著者たちの批判に移ります。

 

5.『リヴァイアサンと空気ポンプ』の問題点

 まず著者たちが、ホッブズとボイルの見解の間にある非対称性を十分には広げておらず、これを広げていくことが課題とされます。これは著者たちがやらなかった作業ですが、ラトゥールは、著者たちがボイルに対して取った批判的態度をホッブズに対しては留保しているとみなしているのです。つまり、シェイピンらの限界は、社会的状況をどう扱うかでためらいがあるとみているのです。

 「(二人は)結局、ホッブズに対するボイルの反論よりも、ボイルの科学にマクロ社会的な説明を与えたホッブズの解釈に説得力がありと軍配を上げてしまう。」(前掲書、53頁)

 このように考えるラトゥールはホッブズ批判を展開します。ホッブズがつくった権力について議論するための道具には、代理、君主、契約、財産、市民、などがあり、他方、ボイルがつくった自然についての概念には、実験、事実、証拠、同僚、などがありました。では、「ホッブズは間違っていた」とみるラトゥールは、どのようにしてホッブズの道具を批判するのでしょうか。

 「ホッブズは計算を行う裸の市民を作り出した。そこでの市民の権利とは、所有の権利と君主という人工的制度に代理を委ねる権利である。ホッブズはまた、権力と知識を同一化する言語を生みだした。権力イコール知識という等式が、近代の現実政策の根底にある。さらに彼は、人間の権利を分析するための一連の用語を提供した。」(前掲書、54頁)

 ラトゥールは、今日社会学全般の基本用語となっているホッブズの用語の批判的検討こそが重要だと見るのです。そして著者たちに対する批判を次のように述べています。

 「シェイピンとシェイファーは空気ポンプの進化、浸透、大衆化に関しては達人の域の解体作業を見せておきながら、“権力”や“支配力”の進化、浸透、大衆化に関しては解体の気配すら見せない。それはどうしてなのか。“支配力”には、空気バネほどの問題はないと考えているのだろうか。自然と認識論が超歴史的実体によってつくられたのではないとしたら、歴史や社会学だってそのようには作られていない。」(前掲書、55頁)

 このような批判を提起したラトゥールは、ではホッブズが端緒的に示した近代政治の原理に対してどのように批判するのでしょうか。

 

6.科学における代理性と政治的代理性の分離

 ラトゥールは、先にあげたホッブズ批判の論点にもとづいて次のように述べています。

 「ボイルは科学の言説だけを作り出したわけではない。ホッブズもただ政治の言説を書き連ねたわけではない。ボイルは同時に、政治を排除する政治的言説を産み出し、ホッブズは彼なりの科学政治をイメージして、実験科学をそこから排除すべきだと主張した。つまりそれは二人が近代世界を創り出したということだ。実験室を媒介とした“モノ”の代理制と社会契約を通した市民の代理制が永久に交わることのない世界を創り出したのである。」(前掲書、56頁)

 ラトゥールは、このように、近代知の特有の構造がここで作り出されたとみなします。ハイブリッドを認識できない知の構造がホッブズとボイルの論争を通して形づくられたと見るのです。ここでの問題は、次に述べられているような分離です。

 「事実という人工物と身体政治学という人工物との間に、直接的な関係を打ち立てることができなかった」(前掲書、56頁)

 つまり、自然科学の解明する事実と政治的課題との間に分離があり、例えば気候変動といった事実の問題に、政治は対応できないという現在の問題点の発端がここにあるというのです。

 「一方に社会の勢力、権力があり、他方に自然力、自然のメカニズムがある。一方に法の主体がいて、他方に科学の対象がある。政治の代理人が無数の市民――計算を行う議論好きな市民――を代表する。科学の代理人が無数の対象――無言の物質的存在――を代表する。前者は多過ぎて一度には語れない主役たちを翻訳し、後者は誕生のその時から無言のままの構成要素を翻訳する。前者を欺くことは可能だし、後者も惑わすこともできる。」(前掲書、58頁)

 ラトゥールによれば、ホッブズとボイルの論争は二つの代理制間の争いであり、結果は認識論と政治学の反対方向への分岐であったというのです。

 

7.分離によって見失われたものは何か

 ラトゥールは、この分離によって、近代のパラドックスが生み出されたとみています。

 「ハイブリッド化を考えるならば、私たちは自然と文化の混合物のみを扱っていることになる。一方、純化の働きについて考えるならば、私たちは自然と文化の全面的分離に向き合うことになる。この二つの働きの関係こそ、私が理解したいと望んでいるものだ。」(前掲書、59頁)

認識論と政治学との分離によって見失われてしまった、人間と非人間とのハイブリッドという領域をどのようにすれば取り戻せるのか、という問題についてまずは近代人の普通の思考を出発点にしています。

 近代人は、人工的自然を創り出しながら、人々は自然の超越性を信じ込み「私たちは自然の秘密を暴いているにすぎない」(前掲書、60頁)と考えています。自然と切り離し得ない社会に関しては、「人間が、ただ人間だけが、社会を構成し、自身の運命を定めることができる」(前掲書、60頁)と考えます。この二つを別々に扱うことによっては両者を理解できないし、「自然と社会を分離せずに一緒に捉えると、二つの保証が表裏一体であることがわかる。」(前掲書、61頁)のです。

 ボイルは自然の超越性を直接に主張したのではなくて、実験室で自然法則を創り出し、それを翻訳して自然の超越性について表示しました。ホッブズは社会が人工物であることを主張しますが、他方で、産業や技術や発明を不可欠のものとみています。にも拘わらずなぜハイブリッドの認識が失われてしまうのでしょうか。

 「ボイルとその無数の後継者たちは自然を人工的に創造しながら、それを発見したのだとひたすら言い続ける。ホッブズと新たに定義された市民は、計算と社会権力だけでリヴァイアサンを構築したと言いながら、実はそれを維持するために大量のモノを補充し続けている。」(前掲書、62頁)

 それは、近代知がもっている次のような前提にあるでしょう。自然界と社会的世界には完全な分離が成立していて、ハイブリッド化の働きと純化の働きの間には完全な分離が成立しているという問題です。

 ラトゥールは、「近代憲法」と言いますが、それを「近代知」と翻訳しておきましょう。そうすると近代知の強固さは次の事情にあるでしょう。

 「近代憲法をめぐる肝心な点とは、それがハイブリッドを集積させる『媒介』の働きを不可視化し、想像も表現もできなくさせるということである。では、表現しないとことが媒介の働きになんらかの制限を与えるのだろうか。たぶんそれはないだろう。ハイブリッドが生産されていなければ、近代世界それ自体が即刻機能しなくなるからだ。他のすべての共同体同様、近代世界はハイブリッドの調合を通して維持されている。逆に、近代憲法はハイブリッドの爆発的な増殖を可能にし、それでいてハイブリッドの存在もその可能性も同時に否定するのである。超越性と内在性の間を行き来し、それを三つの列のそれぞれで繰り返すことで、近代人は自然を動員し、社会を客体化し、神の霊的な存在を感じながら、なお自然が人間を超越するという状況を堅持し、社会を自分たちの創作だとし、さらに神の干渉を一切排除することができる。このような機構に誰が抵抗できようか。」(前掲書、66頁)

 近代知の虚構性をこのように暴き出せるとしても、ある意味無意識に操られているような近代知を超えることは可能なのでしょうか。

 私は先に示唆しておいたように、『科学論の実在』と『近代の<物神事実>崇拝について』でラトゥールが試みた人間と非・人間のペアのための概念的舞台背景画が、その時点では描ききれていないことを指摘し、この欠陥に対して文化知の立場から問題提起しようと考えていますが、彼はこの作業が未完のままで『地球に降り立つ』で「新しい政治」を提案しました。次章ではこの提案を手掛かりに近代知を超える試みに挑戦します。

 

第3章 新型コロナ以降の知は、近代知を超えることが問われている

 

1.現代は、近代によって超えられた中世末期状態とみる

 中世末期の宗教知の揺らぎ、万物は神が創造したという教義をフィクションとして批判した近代知でしたが、ラトゥールによれば、これもまたフィクションだというのです。万物は神の創造物という教義に代えて、自然と社会を二分し、自然法則と人工物とに区分けし、双方に分解するという近代知が、実は、キリスト教の教義同様にフィクションだったという証拠に、そのほころびが至る所で確認されているのではないでしょうか。大学の研究者や政治家が気候変動に対して有効に対応しえていないことをはじめ、資本主義自体の制御もできていません。事例は多くあげられますが、現代の政治に対する批判も実は近代知に囚われているというのが、ラトゥールの提起です。

 

2.近代知の整理と人類学の課題

 ボイルの実験は、自然法則の解明だと理解されていますが、そうではないというのがラトゥールの主張でした。実験自体人工物だから、そこから導かれた法則も人工的な構築物だというのです。他方、人工物とみなされている社会自体も、社会契約を結んだ人間だけでなく、自然物(非・人間)に満ち溢れています。近代知は自然科学による自然法則の解明と、社会契約による人工物としての社会の解明をめざす社会科学という二つの科学によって構成されていますが、この中間にあるものの認識が完全に欠落しています。しかし、この中間項の認識こそが大事で、そのためには人類学的方法を採用して現代社会を分析するしかない、とラトゥールは主張しています。

現代社会を二分してしまうのではなく、人間と非・人間とのネットワークとして私たちが自分自身を認識するにはどのような方法が必要なのでしょうか。近代知がフィクションだったということになると、そもそも私たちは近代を経験していないということになり、私たちは決して近代人ではないのだから、現代の社会も歴史的に古い社会同様、人類学の研究対象なのだ、とラトゥールは主張しています。この人類学から「新しい政治」の構想が立ち上げているのです。

 

3.『地球に降り立つ』での「新しい政治」

 

①テレストリアルの発見

 まず、ラトゥールが描いている図を見てください。これまではローカルとグローバルという二つの引力が作用し、近代になってグローバル化が進んできました。現在、コロナ禍でグローバルが禁止され、世界はローカルに分断されているという現状がありますが、コロナ後の世界はまたグローバルに戻るのでしょうか。ラトゥールの図はコロナ禍以前に作成されたものですが、コロナ禍の後の世界をどうするかという課題の解決に対しても大いに示唆するものがあります。このような観点から、ラトゥールの「新しい政治」について紹介していきましょう。

 この図自体は、アメリカでトランプが大統領になり、従来のアメリカのグローバリズムを退けてアメリカ第一を掲げ、しかもパリ協定から脱退したという事件を受けて、着想されたものです。ラトゥールは、トランプが気候変動を認めず、自分たち富裕層だけが生き残ろうとして、グローバルでもなくローカルでもない「この世界の外側」に脱出しようとする第4のアトラクターの位置にいるという閃きにヒントを得て、それと対抗する第3のアトラクターの存在に気づいたことによります。実際、『地球に降り立つ』を書いたときには気づいたばかりであることを次のように述べています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「突如として、すべての場所で同時に、第三の極(第3のアトラクター)が姿を現した。それはベクトルの脇方向に向きを定め、葛藤の原因となった対象のすべてをくみ上げ、自身のなかに吸収した。そのため、古い飛行経路に沿った方向づけのすべてが無効になった。

 今日私たちが立っているのは歴史のこの地点、この節目である。いまや方位もわからない。古いものから新しいものへと至る軸、ローカルからグローバルへと至る軸に沿って様々な立場を配置することもできない。この『第3のアトラクター(引力)』に名を与え、位置を特定し、簡単な記述を与えることすらまだできていない。

 ただ政治の新たな方向づけは、脇に踏み出すこの一歩にすべてがかかっている。誰が助けとなり誰が裏切るのか、誰が友人となり誰が敵に回るのか、誰と同盟を組むべきで誰と闘うべきなのか。それをしっかりと見極めなければならない。その間に、私たちは、まだ地図に描かれていない方向を目指す。」(『地球に降り立つ』、56~7頁)

 ラトゥールにとっての第三の極(第3のアトラクター)の発見は決定的でした。近代思想の批判や物神事実崇拝について研究していた段階から、新しい政治の創造に向けて舵を切れるようになったのです。つまり、共通の実践の土台を見つけ出したのです。

 そして、今回明らかになってきた、第3のアトラクターに名前を付けることによって、共通の実践的基盤の確立に向けて進んでいます。その名前は、テレストリアル(大地、地上的存在、地球)で、本当に大切なのはごく薄い表土であるクリティカルゾーンです。

 

② 政治的エコロジーの限界

 ラトゥールは、始まってからかれこれ50年になるエコロジー運動の限界について考察しています。新しい政治を提案する以上、従来の政治運動に対する批判は欠かせません。

 「政治的エコロジーはすべてのテーマに活発な論争を呼び込んだ――それは牛肉から気候変動にまで及ぶ。・・・政治的エコロジーは、どの物理的対象にもそれ自体の『エコロジー的側面』があることを示したのである。」(前掲書、74~5頁)

 まずは、政治的エコロジーの果たした役割について積極的に評価しています。ところが、ここからもう一歩進めなかったのですね。

 「政治的エコロジーは、これまで社会生活の通常の懸案でなかった対象を、自らの『粉砕機』に放り込んで政治問題化させることに成功してきたまた、社会とは何かという問いをめぐる過度な制限的定義から政治を救うこともできた。つまり、公共領域で注目されるべき問題の内容を一変させたのである。

 近代化かエコロジー化か。確かにそれは重大な選択である。誰もがそれを認める。それでもなおエコロジーは行き詰まる。このことについてもまた、誰もが認める。

 世界中どこへ行っても、緑の党は周辺的勢力としての立ち位置を抜け出すことができないでいる。何を足場にして前に進むのか、どうすればよいのか、彼らにはわかっていない。人々に働きかける際、緑の党が『自然』の問題を取り上げると、古典的政党は人権擁護を盾に対抗する。緑の党が『社会問題』を取りあげると、古典的政党は『それが君たちに何の関係があるのか』と食ってかかるのである。

 ただ、緑の闘士たちによる50年の歴史があったおかげで、右のような二、三の不甲斐ない例外を除き、人々は次の三つの項目、すなわち経済とエコロジーの項目、開発の要求と自然の要求の項目、社会的不公正の問題と生物界の活動の項目について、それぞれの対峙関係を捉えることができるようになった。」(前掲書、75~6頁)

 エコロジストが何を足場にし、どうすればいいのかということがわからずじまいだったとすれば、何が問題だったのでしょうか。

 「エコロジストたちはこれまで右派にも左派にもなろうとしなかったし、時代遅れ的でも進歩的でもなかった。ただし、近代人が作り出した時間の矢という陥穽から抜けだすことはできなかった。」(前掲書、76頁)

 時間の矢という陥穽を共有している限り、エコロジストも近代人だった、というのですが、これだけでは理解できませんね。時間の矢の陥穽の克服は、循環という概念の復活でしょうが、有機農業者たちは循環の意義を知っていたはずです。政治的なエコロジストがそれに気づかなかったということでしょうか。

 「これまで多くの政党、運動組織、利益集団が『第三の道』を見出したと宣言してきた。第三の道はリベラリズムとローカリズムのあいだ、開かれた国境と閉じた国境のあいだ、文化的解放と市場経済との間に位置する。ただ、どの試みも失敗に終わっている。新たな座標システムを描き出すことができなかったからだ。以前の座標軸は人々の能力を端から奪うものだった。」(前掲書、77頁)

 右派/左派の座標軸にこだわる限り、政治的に失敗すると見るラトウールは、新しい座標軸を据えることで新しい政治を創り出そうとしています。

 ラトゥールによる新たな政治は、反動派/進歩派、さらには右派/左派、という従来の分類と、第三の道のようなその乗り越えの試みが失敗に終わっているという認識のもとに、近代/テレストリアル、つまり近代に、テレストリアルという力の場を対立させることで、二つの派に分類されていた敵対者を説得し、転向させようという試みであり、そのためには「何より優先すべきは、見捨てられたと感じている人々に語りかける方法を見出すことだ。」(前掲書、84頁)と述べています。そしてそれらの人々は安心できる暮らしを求めてローカルに向かっているが、それをテレストリアルの方へと方向転換させることが必要だというのです。では、ローカルとテレストリアルの違いはどこにあるのかについては次のように述べられています。

 「ローカルの支持者とテレストリアルの支持者との間の交渉――兄弟の契り?――は、土地への帰属の重要性、正当性、必要性をめぐるものとなる。ここに難しさの全容がある。『ローカルが付け加えたもの』(すなわち民族的同質性、世襲財産、歴史主義、郷愁、非真正的な真正性)と『土地への帰属願望』とを早々に混同しないことが重要である。」(前掲書、84~5頁)

ラトウールがここで述べている「混同」は、今もって解消されてはいないでしょう。これをどのようにして解消していくのかは大きな課題です。

 それとは別に、エコロジー運動は、自らが立脚するテレストリアルが政治的アクターであるということについての理解が欠け、従来の政治的枠組みのなかで居場所を占めることにとどまって、その枠組みを超えた政治を打てなかった、とラトゥールは見ています。

 では、その既成の政治的枠組みから抜け出すには何が必要なのでしょうか。ラトゥールの主張はただひとつ、テレストリアルという非・人間と人間の連合として、社会をとらえ直すことです。というのも既成の政治的枠組みは、それがなされる場としての社会を、人間だけのつながりとしてしか把握していないからであり、社会を人間同士のつながりはもちろんこと、非・人間同士のつながり、及び人間と非・人間とのつながり、というようにとらえ直せば、政治の働く場の変容によって、政治自体が変わらざるを得ないとみているのです。

 

③ 新しい政治の原理としての「発生システム」
 ラトゥールは、初めて政治運動を組織しようとしているのですが、いま紹介したように、従来の政治の土台である代表制とそこでの右派と左派という政治の枠組みそのものの組み換えを提案しています。テレストリアルに向けて右派も左派も巻き込もうというわけです。そのためには確かな政治の原理が必要でしょう。そこでラトゥールが提案するのは、従来の政治が依拠してきた生産システムから、発生システムへの転換です。

 「『自然』を離れ、テレストリアル(大地、地上的存在、地球)へと注意を向けるならば、気候的脅威の出現以来私たちが陥ってきた政治的立場の断絶に終止符を打てるかもしれない。断絶こそが、いわゆる社会闘争とエコロジー闘争との連携を危険にさらしてきた。

 社会闘争とエコロジー闘争の関係の再構築は、生産システムに焦点を当てたこれまでの分析から発生システムに焦点を当てた新たな分析へと移行することに関わっている。生産と発生の二つのシステムの違いは大きく分けて三つある。まず何よりも原理が異なる――前者では『自由』(解放)が、後者では『依存』が原理となる。第二に、人類に与えられる役割が異なる――前者には『中心的役割』が、後者には『分散的役割』が与えられる。最後に関心の対象となる運動の種類が異なる――前者では『機械的作用』が、後者では『発生』が関心の対象となる運動である。」(前掲書、127頁)

 生産システムの原理は、①拘束からの自由(解放)、②人間中心主義、③自然と人間の関係は機械的関係、としてまとめられるでしょう。他方で、発生システムの原理は、①あらゆるものの依存、②自然と人間の分散的役割、③宇宙圏での万物の発生が対象、となります。簡単に言えば、自由・人間・機械的関係としてある生産システムの原理から、依存・分散的役割・万物の発生、という発生システムの原理への転換です。

 「一方、発生システムにおいては、エージェント(行為能力を発揮する存在)やアクター(他に影響を及ぼしうる存在)といった動的存在が互いに対峙しあっている。これら地上的存在(すなわち複数のテレストリアル)のそれぞれが別個の反応能力を持つ。発生システムとは、生産システムが形づくる物質概念から派生したものではないから、生産システムとは認識論も政治の形態も異なる。また発生システムは、人間のために資源を利用したり商品生産したりすることには全く興味を持たない。地上的存在(複数のテレストリアル)を発生させることだけに興味を持つ。地上的存在とは人間だけでなく、すべての存在を指す。さらに発生システムは、愛着の醸成(愛着を持って互いに結びつきを深める)という考え方を土台に据える。しかしそれを作用させることは実は大変難しい。なぜなら、動的存在は近代化の最前線によって制限を加えられているわけでも、一方の側に押し込めているわけでもないからだ。動的存在はつねに何重にも重なり合い、互いに入れ子状になっている。」(前掲書、128頁)

 ラトゥールは、生産システムと発生システムの違いを、テレストリアルの絆に縛られた人間による自己認識か、自然と区別された人間の自然認識か、というようにも説明していきます。人間、非・人間、物質、等々がすべてエージェントとして、発生システムを構成しているのです。

 発生システムの原理とそれによる世界の解読は何となく理解できますが、しかし、これを世間の常識にするにはまだまだ課題があります。とりあえずは、生産システムが地球を台無しにしているにもかかわらず、それに囚われた人びとはそのことが理解できない、という現実があります。それに対抗して発生システムの原理に立てば、誰しも人間の生産活動に対する反逆心と怒りが巻き起こるでしょう。でもこの怒りをどうすればつなげていけるのでしょうか。

 

④ テレストリアルの調査が新しい政治の土台

 発生システムの原理に立てば、テレストリアルも新しい相貌をもって現れるでしょう。

 「第3のアトラクターは土壌から物質性、異種性、厚み、埃リ、腐植土、連続した層、地層、そしてそれらに必要な注意深いケアを引き継ぐ。つまりシリウス的視点では見えないものすべてを引き継ぐ。それは開発計画や不動産計画が奪取してきた土地区画とは正反対のものである。テレストリアルにおいては地面、土壌の収容が不可能である。人々はテレストリアルに帰属する。しかしテレストリアルは誰にも帰属しないのである。」(前掲書、141~2頁)

 まず調査対象であるテレストリアルについてこのように説明しています。

 「テレストリアルを手に入れるには、グローバルもローカルもなんの助けにもならない。そのことが今日、絶望が蔓延する理由である。広大でかつ狭小な問題群に対し、グローバルとローカルに一体何ができるというのか。実に落胆すべき状況なのである。

 では何をすればよいのか。第一に、これまでとは違う記述を作り出すことだ。地球が私たちのために用意してくれたものをすべて調査し、目録を作る。それが『人間』であるなら一人ずつ、それが『モノ』であるなら一つの存在ごとに、一センチ一センチ測って詳細に記録を残す。記録をつくらずして政治行動に訴えることなど、どうしてできようか。目録なしでも要領よく意見は述べられるはずだし、それなりにちゃんとしている世間的価値を守ることはできる――そうかもしれない。しかしそれだと、私たちの政治感情は虚空をむなしく撹乱するだけで終わる。

 見えなくなった居住場所を記述し直そう。そういう提案をしない政治はすべからく信頼できない。(記述抜きの)予定表だけの提案はどんな政治的虚言よりも恥知らずなものだ。

 もし政治の中身が枯渇し存在していないとすれば、それは底辺にいる人々の声なき声を政治のトップが一般的、抽象的な形でしか表象してこなかったことを意味する。底辺とトップに共通の物差しが存在しないそうした状態では、政治が代理機能を失ったと非難されても当然である。」(前掲書、144~5頁)

 ラトゥールにとって政治はフィクションであり、自然概念の呪縛に囚われた自然科学も虚構でした。ですから、彼の政治の再組織化のための作戦は、まず居場所の記述と、それが要求している諸問題の政治化でした。そのためには、居場所の記述のための調査票づくりからまずは始める必要があるでしょう。これは個人の作業を超えていて、さまざまな学会や研究会の共同作業が必要でしょう。

 

⑤ 現場から新しい「知」の実践と社会化による「新しい政治」

 私たち協同組合の現場は、発生システムとして見れば、生活の土台そのものです。また私たちが直面している地域づくりに目を向けますと、介護者、被介護者、その他の利害関係者、またさまざまな用具や環境を構成する非・人間、が地域の生活世界にあります。人間だけでなく、これらもアクターとして認識してそのネットワークを調査し、それぞれのアクターから学び、その成果をまとめあげることが前提となるでしょう。

かつてのローマ教会の「万物を創造した神」を覆したホッブズとボイル。しかし彼らが切り開いた近代は、人間だけを主体と見做して、主体と対象(自然)を完全に分離し、中間のネットワークを見失ったのです。中間のネットワークをよみがえらせる新たな「知」には、社会的空間が必要です。協同組合をテレストリアルの実情を社会に発信していくための社会的空間として利用することが問われています。デジタル化とモバイル化によって、一人一人が知識人となれる時代で、近代知に毒された「学識専門家」の知への支配を覆す試みが、始まることを期待したいです。

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