現在の廃墟の中で  ヴィジャイ・プラシャド著、脇浜義明訳

                 原典:“In the Ruins of the Present”, The Tricontinental, 2018

 

  「斧が森に入ってきたとき、樹木たちは言った:その柄は私たちだ、と」

                         - トルコのことわざ

 

 ハイチの映画製作者ラウル・ペックの『若きマルクス』(Der Junge Karl Marx, 2017)のオープニング・シーンは、農民たちがプロシアの森で落ちた木の枝を集めている場面だ。腹をすかし寒さに震えている農民たちだ。遠くから馬の蹄の音が聞こえ、やがて番兵と貴族が現れた。森の中のものは落ち葉にいたるまですべて私有財産だと告げに来たのだ。農民たちは逃げようとしたが、衰弱したものは倒れた。貴族の鞭と槍が農民を襲い、番兵たちが殴打した。農民の何人かは死んだ。落ちた枝を拾うことは窃盗犯罪になるのだった。

 1842年ケルンの新聞社にいた若きマルクスはこの話を聞いてびっくりした。農民は枝を拾うているところを見つかると罰を受けることを知っていたし、現に殴られ、殺された。しかし、どんな罪で罰せられたのかは、彼らは知らなかった。何の罪で罰せられるのか分からないままに罰せられたのだ、とマルクスは書いた。

 ペックがこのジレンマで映画を始めたのは賢明であった。それは、ものの道理が分かる人間なら誰もが問いかける問題だからである。現在も世界の貧しい人たちが苛酷な罰を受けているが、彼らはどんな罪を犯したのだろう。貧困と戦争は飢えと爆撃によって難民を作り出す。難民は逃げ場所もなく窮地から脱する術もない。彼らは自分たちが罰せられている ― 恥辱、飢え、死に直面していることを知っているが、何故そういう罰を受けるのかが分からない。いったい、自分たちが何をしたというのだ?

 ドミニカ系米国人作家のジュノ・ディアズは2010年大地震の後のハイチを訪れ、「大参事」(Apocalypse)と題する論文の中で、ハイチは「資本主義が新ゾンビ―段階に入った」ことを我々に教えている、と書いた。「経済的錬金術によって全国民が半死状態nなっている。昔のゾンビ―は一日中休みなく働かされた。新ゾンビ―はどんな仕事も期待できない ― ただ死ぬのを待つだけだ。」これがハイチの人々への罰である。しかし、彼らがどんな罪を犯したというのか?

 

 構造―人間の国際的分割

 

 私たちは生き物だった。大変な苦労をしてやっと人間になった。

    ― アクバール・イラハバディ(1)

 トランプ大統領は北朝鮮、イラン、ベネズエラを絶滅させるぞと脅している。この3国は新しい悪の枢軸である。2002年にジョージW. ブッシュが悪の枢軸と言ったとき、ベネズエラはなくてイラクが含まれていた。そのイラクを2003年に破壊した。その後リビアを破壊し、ハイチなど他の国を荒廃させた。ハイチは実質的に米国と国連の占領下にある。米国は手負いの竜のように尾を振り回し、人々に火を吐く ― 国々を破滅させ、気に入らない者を敵として打ち破る。手負いと言っても物理的負傷ではなく、戦略的なものだ。米軍はまだ世界最強で、どの国でも空爆や大量破壊兵器を使って破壊することができる。しかし、その戦力の使い方は必ずしも米国の望みの役に立っているとは限らない。米国は神ではなく、たくさんの欠陥を抱えている。服従でなく人間としての尊厳を選択する人々は、その欠陥を詳しく研究するだろう。

 帝国主義の精神には鉄のような無情さがある。巨大な武力を人間に対して用い、しかもそれが産み出した悲惨さに無頓着で、都合よく忘れるのである。1945年に日本に原爆投下したことに何らの良心の呵責を感じていないし、1950年代に朝鮮半島を無差別爆撃したことや、1960年代~70年代のベトナム攻撃、そして現在も行っているアフガニスタン戦争、 イラクやリビアの破壊に関して、責任感も罪の意識もまったく持っていない。鉄の無情さが帝国主義にしっかり埋め込まれているから、今も平気でアフガニスタンの民衆に大量破壊兵器を使用するのだ。アフガニスタンの地方自治体も米国と中央政府の圧力で、治安を口実にして外国人ジャーナリストを殺戮現場に行かせない。しかし、現場で被害を体験した人々が語る。彼らの言葉は背筋を凍らせる。「大地が嵐の海の中の船のように揺れた」、「まるで空が落ちてくるようだった」とモハメド・シャザード。ナンガルハル州アチン地区のナヴィード・シンワリ市長は「ISISが残忍でここの住民に残虐行為を行ったのは間違いない。しかし、何故米軍はISISと同じように私たちを攻撃するのだ。空爆はテロ行為だ。世界の終わりだと思うような激しい空爆だった」と語った。実際、世界は資本主義がもたらす気候混乱と核戦争脅威の瀬戸際で、まさに終わらんとしているようだ。絶滅の時代のように思える。

  従って、ここで絶滅恐怖を経験した人々の言葉を思い起こすことが適切ではなかろうか。ヒロシマの被爆者廣中トラコ(2)の絵と言葉を紹介しよう。「体が溶けて後に残った焼けこけた作業着」、「着物が焼けた裸婦」、「『アメリカのバカ』と泣き叫ぶ裸の少女」、「爆風で散乱した西瓜畑」、「ネコ、ブタ、ヒトの死体、死体、死体」、「水をくださいと泣く声」「この世の地獄」・・・

 広島逓信病院の蜂谷道彦院長は『ヒロシマ日記』で原爆投下後の有様を書いている。歩ける人々は遠くの山の方へ放心したように歩いている。どこから来たのだと問うと市の方を指さして「あっちから」と言う。どこへ行くのだと問うと市と反対の方を指さして「あっちへ」と言う。虚ろに、ただ機械的に歩いているだけであった。外部から来た人は人々の虚ろな反応に驚いた。横に広い平坦な道があるのに、人々は、まるで亡霊の列のように、狭い凸凹の小道をふらふらと歩き続けている、と報告している。外部から来た人は、自分が目撃しているのは、被災者たちが夢の領域の中で脱出している情景だということが理解できなかった。

 絶滅危機が差し迫っている現在にとって、被爆者の言葉は極めて重要である。それは無頓着に対する警告であり、鉄の無情さと憎悪の残酷さに対置する人間的生存の暖かさの表現である。

 破壊的自然現象 ― ハリケーンや海面上昇など ― が我々の心を捉えている。カリブ海の島々は暴風雨や洪水で破壊され、南太平洋の島々は海中に没し始めている。資本が人間生活と夢を溺死させようとしているように、大雨と海面上昇が大地を溺死させている。国際的諸機関のデータによると、正規雇用が夢のまた夢になる人々が数百万人いる。仕事はある。軍隊の仕事だ。戦争が続いているからだ。無慈悲な未来が若い世代を待っている。人間性への信頼がますます脆くなるばかりである。

 国際的人類分割がある。人々を隔てる壁があるようだ。戦争と悲惨の渦中で暮らす人々は、平和と幻想の中で暮らす人々 ― 即ち他国の戦争と悲惨を作り出しながら手を汚していないと思って生活している人々 ― に分割されている。

 失業、絶滅危機、貧困、気候破壊、戦争の世界をいかに理解すべきか。この複雑な現実を理解するために必要な概念はいかなるものであろうか。少なくとも北アメリカの実証主義(positivism)から生まれる思考様式 ― ゲーム理論、回帰分析、マルチレベル・モデル、推計統計学 ― ではないことは確かだ。それらは我々が置かれている状況を説明する一般理論を提供しない。権力の見方が通俗的であるし、世界のエリートに対する見方も非科学的で単純である。個々の些末な事象を説明できるかもしれないが、グローバリゼーションから発生する風土病的危機、ネオリベラリズムではその危機を管理する能力がないこと、そういう現象に対してネオファシズムがある意味で大衆的コンセンサスを得て台頭していることなど、そういう関連性を説明することができない。ブルジョア的社会科学が提供する架空世界・観念的世界ではなく、現実世界の研究に不可欠な概念 ― 例えば「帝国主義」 ― がないのだ。彼らの理論では、何故NATOがある国を爆撃するのか、何故IMFがある国から1ポンドの肉の切り取りを要求するのかが分からない。何故世界の国々が社会的財の生産よりは抑圧武器の生産の方により多くのカネを使うのか、何故ソーシャルワーカーや芸術家の姿よりは警官の姿の方が街中に多いのかは、彼らの理論では説明できない、

 

グローバリゼーション

 

 一人当たりの国民所得なんて、どこで稼ぐことが出来るんだ?それを知りたがっているのは飢えに苦しむ人だけではないだろう。

    ― エドゥアルド・ガレアノ(3)

 

 世界の社会生活乾燥化の説明に使われる概念はネオリベラリズムである。ネオリベラリズムは基本的にIMF や世界銀行やそれを取り巻く知識人が作り出す綱領である。この知識人たちは、歴史を作るのは人類の社会的労働ではなくて企業の創意工夫力であるというブルジョア的論理を身に着けた人々である。企業が雇用を創出し、経済を動かすので、企業の要求に応じることが大切だ、と彼らは主張する。資本 ― 企業と起業家 ― が歴史の原動力だと見做す。社会的労働 ― 厳しい労働によって現在を高める物資を生産し、未来を形成する労働者 ― を歴史の原動力とみないのだ。

 ネオリベラル政策に批判的な研究者はマーガレット・サッチャーやロナルド・レーガンの政治を使って、ネオリベラリズムが世界を変えたことを説明する。そういう政治家がまるで魔法の呪文で無から国家政策を呼び出したかのような印象を与える。彼らが保護されてきたコモンズの民営化や社会的資源のカニバリズム(人食い)を支持する。確かにその通りであるが、何故そうするのか? 何故民営化やカニバリズムへ向かうのか?

 観念主義的歴史研究は適切ではない。ネオリベラリズムは無から生まれたのではない。グローバル生産様式の構造的変化が産み出す実際的問題を処理するためにサッチャーやレーガンの政府が誕生したのだ。資本主義は常に世界市場を求め、個別国家が課す諸規制から解放され、低コストで財を生産するために新資源や新技術を追い求め、財を高く売るために新しい市場を探し求める。しかし、それは技術的な限界 ― 例えば世界各地の情報をリアルタイムで集めることが不可能であること ― があるために抑制されていた。しかも、労働者階級の運動が国家に資本の我儘を抑制せよと働きかけたことも障害だった。しかし、1970年代に入った頃には、技術的限界もある程度克服され、労働者階級も比較的弱体化した。おかげで資本は勝ち誇って戦車馬車に乗り、世界を上から見下ろせるようになった。実際、人工衛星を使って世界を監視し、コンピューターで情報を集積し、安価な労働力と高く売れる市場を見つけることができるようになった。このように資本が神のようになったことからグローバリゼーションが始まったのだ。技術開発が進み、労働者が洪水のようにグローバル工場へ押し寄せ、弱小国家の政治的反対にもかかわらず資本の利益を擁護する新しい知的財産制度が発展した。一時期労働者や農民を保護した国家権力は今や全面的に資本家擁護に回った。まさに国家はブルジョアの雑用執行委員会のようになってしまった。西側金融システムが第三世界の債務危機を誘発し、それによってグローバリゼーションの政治的条件が設定されたのだ。1979年の米国の利上げ ― ヴォルカー・ショックと呼ばれた(4)― が第三世界の経済を揺るがした。ヴォルカ-の金融政策はインフレを米国から世界へ輸出することだった。ドルの利子高が意味するのはロンドン銀行間取引金利(LIBOR)が急騰することである。第三世界の国々は、自分に落ち度がないのに、商業銀行や西側諸国からの債務の元利合計がうなぎ登りに上がった。15か国を例にとって見てみよう。1970年これら15か国の対外公的債務総計は179億ドル(GNPの9.8%)であった。1987年 ― 債務危機の真っただ中 ― にその額は4022億ドル(GNPの47.5%)に膨れ上がった。利払いだけでも途方もない額となった ― 28億ドル(1970年)から手に負えない363億ドル(1987年)になった。元利合わせた対外債務は1兆4000億ドルとなり、それはそれらの国の輸出総額の126.5%に相当した。つまり、銀行や西側政府への債務は財やサービスの輸出で得る額よりも大きいのだ。当然、これらの国は国民に対する社会財供給の力を失った。ユニセフは、債務危機の結果、失われた10年と言われる1980年代に平均所得が25%も低下したと報告している。国民の健康に関する一人あたりの支出を25%、教育に関する支出を50%も減らした国が37か国になるとも報告している。ユニセフの関心は子どもである。ユニセフによると、債務危機がなければ予防できたはずの病気で死亡した子どもが50万人。換言すると、金融システムのために1日につき4万人の子どもが死んだことになる。当時タンザニアのジュリウス・ニエル大統領が「借金を払うために子どもを餓死させなければならないのか」と言った。

 債務危機はアジア、アフリカ、ラテンアメリカの多くの国の自信を喪失させた。企業が「自由貿易圏」とか他の優遇措置を求めてきても、まともに対応する交渉能力を失った。ポスト植民地国家の交渉力を弱め、民族主義的指導者たちの政治信念や文化的自信を弱めたのは、債務危機であった。自立を失うと依存しかない。「あなたに餌を与える者があなたを支配する」とブルキナファンのトーマス・サンカラ(5)と言ったが、その通りになった。

 死んだ子どもの墓と第三世界の弱体化の上に建てられたのが新グローバリゼーションであった。三つの要因がそこに働いていることが見て取れる。新技術発展、独占企業の蓄積戦略に奉仕する労働群の調達、新知的財産体制の成立の三つである。

 第一の技術発展。例えば人口衛生通信、コンピューター化、コンテナ船化は地球的規模でリアルタイム・データの処理や、製品やパーツの早急な移動を可能にする力を企業に与えた。企業は工場を分割して幾つかの国や地域に分散して、同時操業した ― 生産の分節化。個々の工場は製品の一部の生産に特化した。独自のデータベースに基づいて企業は、どれがどこで最も安く生産できるかに関して詳しい情報を得て、生産分節化を行うのである。工場を市場の近くに建てたり、大規模工場にする必要はなかった。そんな時代は終わっていた。資本は投入原価が最も安くつく場所を選んで、あちらこちらに小さな工場を作った。運送手段発達のおかげで、資本は製品や部品を早急に安価に移動させることができ、完成品を比較的容易に市場へ移動させることができた。生産活動をグローバルに広める技術的手段が資本の手に入ったのだ。

 第二の労働力調達。10月革命、中国革命、第三世界の民族解放運動が作り出した資本への障壁が、1980年代以降になると、ソ連崩壊、中国の外国資本への開放政策、第三世界債務危機のために、音を立てて崩れ始めた。かつては資本の毒牙からある程度保護されていた労働者が、今や資本主義的市場の餌食となった。分節化された工場が生活の中に入ってきた。

 第三の知的財産制度。GATT(関税貿易一般協定)のウルグアイラウンド(186~1994)で資本は最終段階に入り、知的財産が社会的所有でなく資本家の所有になることを確立させた。以前は、商品化された財(品物)が知的財産を宿すのでなく、品物を作り出す過程が知的財産であって、社会的所有であった。そのおかげで人々はそれなりに工夫を交えて品物を作り、それによって科学・技術を向上させてきた。リバース・エンジニアリング(分解。解析)を通じて貧しい国の製薬会社は貧しい人々の命を救う薬品を生産することができた。1994年にGATT最終ラウンドがWTO(世界貿易機構)を設立して終わってから、知的財産に関する考え方が変わった。生産される品物自体が特許で保護されることになり、いくら自分のイノベーションで同種の品物を作っても、特許を持つ資本にレントを支払わなければならなくなった。その特許の形をとる知的財産権は資本の中心領域 ― 北米と西欧 ― 以外の場所にも適用され、自由に生産できない体制となった。ナノテクノロジーやゲノミックスや遺伝子組み換えなど特許の知的財産枠組みによって、大食品企業は土地支配を超える新しい力を農業に対して持つようになった。またそれは情報産業企業に「デジタル植民地化」(digital colonization) ― 消費者監視を通じて消費者に関するあらゆる情報を盗み出し、他方では西洋文化を世界中に浸透させる ― を推進する基盤を提供した。「ネット中立性」を徐々に窒息させるのだ。社会インターンネットも基本的には「デジタル植民地化」の一形態と言える。

 これは生産の分節化体制構築を支える新規の法的枠組みといえる。エコノミストのオマール・タヒが名付けた「グランド・バーゲン」(一括交渉、大取引)の結果としてWTOが生まれた。グローバル南のほとんどの国は債務危機のために、農産品と天然原材料の輸出と引き換えに独自の産業政策や自国労働者や自国市場の保護を断念した。工業と農業の両面において経済主権が失われたのである。

 技術発展、潜在的労働者の存在、知的財産制度のおかげで企業は地球的規模で操業できるようになった。彼らは二つの異なる戦略を使って財とサービスを生産、グローバル商品連鎖体制を作り上げた。一つは、海外の生産過程全体を一つの国に移すことで、海外直接投資(FDI)アウトソーシングと呼ばれる。この場合多国籍企業は投資国に生産インフラを建設するために資金を投資する。もう一つは単に下請け業者を雇って生産させるだけのやり方。外国の下請け会社はお互いに競争しあい、薄利で操業する底辺への競争を展開する。これは政治経済研究者ジョン・スミスが「アームズレングズ・アウトソーシング」と呼んだもの(6)で、これによって多国籍企業は生産過程に資本投入をしないですんだばかりでなく、ほとんどリスクも負わなくてすんだ。どちらの場合でも、本国と第三世界の賃金差から「鞘取り利益」を資本が得る点は同じである。南の世界の安価で未組織の労働者を使うことで、資本は北と南の社会を空洞化した。

 この新しい生産の地理学は、労働者の力を作る二つの制度的枠組み ― 労働組合と国営化 ― を不可能にするので、労働者の力は弱くなる。アームズレングズ下請け経営者が少ない利益の中でいつでも取り換え可能な奴隷労働を行っている状況の中では、とても労働組合結成は無理だし、万が一労働者階級向きの政権を獲得できたとしても、国が商品生産の全過程を管理していない中で、部分的な生産過程の国営化なんかできるはずがない。それに、そもそも、労働者のための組合も政権も存在しないのだ。かつて労働者階級の抱負としてあった世界変革への活動は、輸出加工地区(EPZ)」やマキラドーラ工場(保税輸出加工工場)の強制収容所のような性格によって窒息させられた。

 アームズレングズ・アウトソーシングのおかげで、企業はもう資本を生産過程へ投資しなくてよくなった。ナイキ、アップル、その他同種の企業は、資金を投入して工場を建設しない。ブランドを貸すだけである。アウトソーシングした工場から取るブランド使用料(レント)は天文学的数字になる。しかもその利益の大部分は生産へ再投資されない。だからこれらの企業は大金の上に座っていると言われるが、もっともなことである。乃至はその大金のかなりの部分が非生産的な金融博打へ注ぎ込まれる。生産的事業や社会財へ投資されないで、生産という回路を経ないでカネから直接カネを生み出す金融取引に回されるのだ。だからそういう企業の経営者がたいていの人が眉を顰めるほどの天文学的大金を貯め込んでいるのは不思議なことではない。オックスファムの調査によれば、たった8人の人が人類の半分の所得総額に相当する額の財産を所有しているという。分節化生産や金融取引などによるアームズレングズ・アウトソーシングの直接的結果として貯め込んだ財産である。

 富者と大企業は莫大な富を貯め込んだばかりでなく、同時にその富を出し惜しみする ― 特にこの40年間はそれが顕著であった。北米の企業は国内に1兆9000億ドル、オフショア(海外)口座に1兆1000億ドルを貯め込んでいる。さらに米国銀行に手元資金として1兆ドル遊ばせている。それで合計4兆ドル。これにヨーロッパと日本の企業の内部保留金や銀行に預けているカネを合わせると、資本家が遊ばせているカネは7兆3000億ドルになる。この額には、ルクセンブルグ、スイス、シンガポールなどの銀行に隠されている「ブラックマネー」が含まれていない。その金額は、全米経済研究所や国際決裁銀行などの計算によると、推定5兆6000億ドル(2007年)になるという。今述べたオフショア資産はグローバルGDP総計の約10%に相当する。このような莫大なマネーが遊休しているということは、富豪と企業が世界の中心部に経済低迷(stagnation)をアウトソーシングしているということだ ― つまり、社会的労働世界に投資することを拒否し、生活水準の低い労働者・農民を保護するための国家支出の削減を要求しているのだ。これは構造的便秘であり、「投資ストライキ」である。

 このような現実に基づいて、「税金ストライキ」という概念を通用させてよいだろう。資本所有者、資産管理者は、事実上納税に対してストライキをしている。彼らは巨大な財力を利用して、財産隠しや財産を保護するような税制を実行させる。カネを保護するばかりで生産的な方向に使うことはない。カネを使うときは、それは株価を吊り上げたり、種々の資産バブルを作り出すなどの、金融博打をするときだけであった。

そのおぞましい例は2007~8年ウォール街が作り出してはじけた資産バブルによる住宅市場の大混乱である。住宅ブーム最盛期に米政府が銀行に供与した流動性デリバリーは有名である。「グリーンスパン・プット」(7)と呼ばれたもので、住宅価格などの資産バブルを膨らますための資金を市場へ放出したのだ。きちんとした社会保障や年金制度がない米社会なので、退職年齢を控えた中産階級や労働者階級上位層の人々は、住宅価格上昇に期待・依存した。彼らが持っている重要な資産はローンで買ったマイホームだけで、その価格が上昇していたのだ。だからグリーンスパン・プットを歓迎し、喜んだ。グリーンスパンの住宅価格バブル政策は彼らのアメリカン・ドリームを実現するように思えたのだった。彼の金融流動性デリバリー政策のおかげで、住宅を担保にして銀行が気前よく融資してくれるので、収入以上の贅沢な消費生活ができた。米国市場は世界からのあらゆるモノとサービスと資源を吸い込み続けるので、米国は「最後の頼みのバイヤー」であった。米国人口は世界人口の5%なのに、世界のエネルギーの4分の1を消費している。もし世界の人々のすべてが米国人と同じ水準の生活をするようになったら、それを維持するために少なくとも地球が4つ必要になるであろう。グリーンスパン・プットと国際銀行システムを通して煽られて膨れ上がった米国消費者は、中国からメキシコにいたる世界の製造業者にとって、極めて重要なものとなった。だから、資産市場インフレーションと安易な銀行融資が米国消費者部門で顕著になることは、このシステムのもとで完全に合理的なのである。それは意図されたもので、その合理性が危機から危機、混乱から混乱を社会に持ち込んでいるのだ。

住宅バブルがはじけたとき、主流マネタリストのグリーンスパンは「ショックだった」と言った。2008年下院公聴会でヘンリー・ワックスマン議員(民主党カリフォルニア選出)から鋭い質問を受けたときだ。

 

グリーンスパン:私は、銀行など各事業体の自己利益擁護機能が働いて、株主の利益と債権を守るという前提でいました。それが間違いでした。

ワックスマン:言い換えると、あなたの世界観、イデオロギーが正しくなかった、それが機能しなかった、ということですね。

グリーンスパン:まさしくその通りです。だからショックだったのです。何故なら、これまでの40年以上の間、自分の理論が実際に機能してきた実績に基づいてやってきたからです。

 

 グリーンスパン理論に欠陥があり、それで彼がショックを受けたにもかかわらず、経済学とそれを前提とする公共政策は何の影響も受けなかった。マネタリズムはこの危機を無傷で潜り抜けた。テクノクラート官僚たち相変わらずマネタリズムのマクロ経済学に依拠し、それに関して何ら政治的議論は不必要だと主張した。自分たちは政治を越えた学問的理論に基づいて行政をやっている(グリーンスパンが間違ったと認めたにもかかわらず)だけだと涼しい顔。ギリシャの元財務相ヤニス・ヴァルファキスは「現在のクーデターはタンク(軍)ではなくバンク(金融)から発する」と言ったが、見事な指摘である。報酬たっぷりなロビイストと行儀正しい銀行家が民主主義を鎖で縛るので、軍事クーデターなんかは、一部の国々を除いて、必要でないのだ。

 税金ストライキによって巨額の社会的富を私有化する個人が出てきた。その人や世帯では消費できない富だから、一部慈善へ回され、何かぞっとするような慈善美徳礼賛が生まれている。富豪寄付者が時代の英雄となった。医療関係に寄付したビル・ゲイツや救貧慈善をやる富豪男女が英雄としてもてはやされた。こういう「英雄」たちが、民主主義的に提起される社会政策に反対するのである。今や公共政策は民主主義制度から生まれるのでなく、慈善寄付者の私的提案に左右されるようになった。アフリカン・フェミニスト・フォーラムのサラ・ムカサが言ったように、「経済と開発を非政治化しようとする企みに警戒しなければならない。これ(新開発)を慈善事業寄付者の言うがままになるのを防ごう。」

 税金ストライキと併存するのが政治家の財政バランス(大資本の支援を得た)主張である。資本が国庫への納入を拒否しているときに、公的支出のバランスを保たなければならない。これが意味するのは、社会福祉制度を維持する財源を得るために公的資産を売却する(民営化)か、乃至は社会福祉そのものを削減するかのどちらかをやることだ。税金ストライキと財政バランス責任の抱き合わせは、政府財源の貧窮化である。見えざる手が破壊するものを見えざる心が修復している ― グローバリゼーションの社会的費用は社会の疲労と絆の弱体化だが、それを辛うじて修復しようとしているのが、労働者家庭の女性であるというのが、現実である。

 

ネオリベラリズム

 

  絶望社会の哲学。人が人を喰う社会。まともな人間がIMFのような白人協会や補助金を企画できるはずがない。我々は乞食のように両手を差し出し続けるばかりだ。

  ーカラマシャカ・ニ・ワカティ(ケニア人ミュージシャン)

 

 国民が継続的な闘いで約束を勝ち取ったこともあって、近代国家は社会的給付を容易に廃止するわけにいかない。育児、教育、交通、大気汚染対策、福祉、年金 ― これらは国民が政府にきちんと供給せよと迫ってきたもので、現代の文明国家として果たさなければならない最低限の義務である。ネオリベラリズムを生み出したのは税金ストライキ、財政責任、国民の社会的財産要求の絡み合いである。換言すると、ネオリベラリズムはグローバリゼーションの危機に対するブルジョア的公共政策的解決の産物である。ブルジョア政府には国民政府としての義務を果たす手段がなかった。公共資産やまだ商品化されていない部分の自然を競売にかけて財源を得ようとした。そういう民営化措置を通じて近代国家としてのか細い財政を支える財源を得ようとしたのである。しかしIMFや国際的商業銀行は公共財政を大幅に削減しない国家を罰した。そういう国の国債の格付けを下げ、財政破産を逃れようと国が資金調達するのを妨害した。西側の機関が発展途上国を監視し、その行動や権限を制限する術(gatekeeping)は今ではよく知られている。2007年の世界銀行の報告を見ると、2006年末までに「国債格付け会社から格付け対象にされた発展途上国は86か国であった。そのうち15か国は2004年以降は名前も上がっていなかった。格付けの対象になっていない発展途上国はほぼ70か国ある」とある。これを言い換えると、民間格付け会社 ― フィッチ、ムーディーズ、スタンダード&プアーズ ― はこの70か国を無視し、商業銀行から借り入れが出来ない状態にしているのだ。これらの国が借り入れできないのはIMFのマイナス格付けのためである。これらの国のGDPが過小評価されるので(これらの国は貴重商品を輸出しているが、非常に低い価格で輸出され、商品が輸入先帝国圏に入るときに価格が上がる)、国際競争の敗者になるしかない。そればかりか、リスクの高い債務国になるとして他国から毛嫌いされるのだ。これは金融開発の罠である。貧しい国は永遠にその位置に宿命づけられるのだ。国の富の出血を止めるには国の資産を守ることであるが、それが民営化などでどんどん流出していくのである。民営化に売却して得たカネは債務返済と高価なエネルギー購入に充てられる。社会的財産創造のために使用されることはない。これは一種の窃盗である。ノルウェー経済大学の「グローバル金融整合性及び雇用研究センター」の最近の調査によると、2012年に外部から発展途上国に入った総合援助合計、投資、収入は1兆3000億ドル。大きな金額であるが、同調査によると、同じ年に発展途上国から出て行った金額が3兆3000億ドルであった。つまり、発展途上国側は2兆ドルの出血である。1980年以降この出血額が16兆3000億ドルに膨れ上がった。豊かな国が吸血鬼のように貧しい国の富を吸い上げているのだ。植民地時代の話でない。現在のことである。

 発展途上国からの富流出の形を見てみよう。三つの形がある。債務返済の形で4兆2000億ドル(西側からの援助総額の4倍)、外国企業が本国グローバル北へ送還する収益、無規制で不法な資金逃亡(いわゆるブラックマネーばかりでなく、不正請求(trade misinvoicing)や不正価格設定(trade mispricing)など(8)で、本来発展途上国に入るべき税(7000億ドル)の損失がある。第三世界からいくら天然資源輸出があっても、それが社会的発展の資金にならないのである。

 同じように、グローバル北でも社会的発展資金不足がある。国家が自らのネオリベラル政策に縛られ、社会的発展が営利の民間部門に委ねられる。実際、グローバル北のネオリベラル政策はどんどん世界に拡散している。金持ち減税、企業の海外利益を税制に応じて本国に納入する義務を緩和するなどの措置のため、北の国家予算も縮小せざるを得ない。そのうえ、国家安全保障や軍事関係の予算が増大して予算全体を締め付けている。だから、教育やヘルスケアなどの基本的社会サービスへ資金が回らないのだ。そのため、本来社会的機能であるべきものにアクセスするために個々人が自分の金を払わなければならなかった。国民は教育を受けたり治療を受けるたびに、借金を増やしていった。若い人や失業した中年労働者は借金をして教育を受けなければならない。学生にとっても再就職を望む失業者にとっても、教育こそが世の中で喰っていくために必要な手段となっているからだ。

 米国の学生ローン負債は現在1兆3000億ドル、英国では5000億ドル。こういう社会財の民営化は世界各国に輸出されている。中国、南アフリカ、インド、メキシコなどで学生ローン負債が増加している。ヘルスケアについては、米国民の85%が何らかの健康保険に入っているものの、例えば2012年には米国人はヘルスケアで2兆7000億ドルを自腹を切って支払っている。2010年のある調査では、医療費支払いに困窮した人は米国人の40%であった。米国の個人破産の一番大きな原因は医療負債である。この米国モデルは世界的に広がっている。世界銀行とWHOの研究によると、2011年インドで医療費のために貧窮化した人は5250万人。そのうち「極度に貧窮化」した人は1000万人。もし「極貧」定義を日収9ドル90セント以下から3ドル10セント以下へと引き上げると、その数は年間1億8000万人になる。

 世界的に大学教育無償 ― 社会民主主義の成果の一つ ― が徐々に減少している。学費ローンの影響の一つとして、新しい思想を勉強・実験する積極的エネルギーが学生の間で窒息している。そんなことより、卒業後に良い仕事に就ける技能を高める勉強ばかりする。この20年間急増している無給インターン制度で大企業で実習する学生が多いのも、その影響の一つだ。就職に有利になる言語能力を高めてくれる「指導的」クラスを探したり、高価な一流私立大学院へ入るための特別授業などを求め、そういうものへのローンによる投資が卒業後良い仕事につけることを可能にすると、見込みのない希望を持ち続けているのだ。社会体制を批判する授業とか独創的思考を養育するコースは魅力を失っていく。大学は人間を育てる社会機関でなくなり、個人的出世のための跳躍台となる ― それも大金持ちになるという野心というより、借金のために消極的になった自己保存衝動に駆られて。これは知的生活全般に深刻な影響を及ぼす。ダルエスサラーム大学のイッサ・ジブジ教授は「かつて大学は議論の中心の場であることを誇りにしていた。しかし今や卓越性の中心(名門校)になりたがっている。議論では卓越性は得られない」と語っている。言い換えると、「名門校的卓越性」ディスコースは新しい考えをするエネルギー、とりわけ労働者、農民、失業者の生活経験を基盤とする反権力主義的な考え方をするエネルギーを枯渇させる。

 経済はいかに成長させるべきだったか。ネオリベラル政策は借金漬けの消費主義という動物的本能の解き放ちに賭けた。新しい技術や資産がどんどん作り出され、それによって経済成長が促進され、そこから社会財生産に回される社会的富が生まれるとした。しかし、そうならなかった。それどころか、消費主義と新技術は借金を増大させ、資産の暴騰によって世界経済が大混乱した。詐欺と盗みの上に築かれた文明、即ち金融派生文明社会となった。経済成長のために庶民に借金させなければならなかった。負債は経済成長計画の一部で、過剰生産物を消費者に借金をして買わせる必要があった。人々の周りは欲望を誘い出す広告がいっぱい。企業は複雑な市場細分化理論を開発して、人間の欲望をきめ細かく分類して、消費のサブカルチュアを作り出した。それをターゲットにする販売戦略を用いた。基本的に重要でないモノ、不必要なモノ、前からある製品の新版(新型電話機とか新型自動車)への購買欲を人為的に作り上げた。商品を計画的に旧式化して同種の新モデルを買わせる戦術で、飽和した市場を膨らませた。そのために世界中がゴミだらけとなった。世界銀行の研究によると、世界の年間のゴミは13億トン、1日につき110万トンになる。購入商品の99%が半年以内に捨てられるという。世界銀行の研究は2025年までに1日のゴミ廃棄量は3倍増、2100年までには年間の廃棄量は40億トンを超えると予測している。1950年以降世界は90億トンのプラスチックの廃棄物を出した ― そのうちリサイクルされたのは僅か9%である。市場を膨らませる計画的旧式化の鏡像は、海底に堆積するゴミの山や、焼却場やゴミ廃棄場から排出して飲料水や土地を汚染する有毒ガスである。ゴミ生産と自然破壊は、資本主義が描く進歩という涅槃の夢物語をも次第に侵食している。

 ネオリベラリズムは経済政策である以上に文化政策としても機能する。ネオリベラル政策が商品世界の夢をばら撒く。その夢の背後にあるのは、人間としてではなく企業マンとして生きる現実である。しかし、企業文化的感性あるいは企業家精神文化が様々な経歴や背景の人々を惹きつけているのは事実だ。けれども、多くの心理学的研究が指摘しているように、その影響は一様ではない。いくら自己改善や自発性が強調されても、資源の少ない人は期待通りの活動はできない。出身階層と幸運が成功条件である世界では、それを欠く人は自主独立した個人として活動することが困難である。個人的才能と背景的資源に基づいてドン・キホーテのように物質的成功を目指して努力することが基準とされる社会では、むしろ低迷と不安が支配的になる。落ちこぼれは個人が背負うコストとなる。社会学者クリストナ・シャルフが言ったように、ネオリベラリズムの精神生活は社会ばかりでなく、人格をも傷つける。消費文化や個人主義文化を支援し、協力や連帯の文化を軽視するからだ。不安が拡散し、社会的一体性が失われる。WHOの調査では、過去45年間で自殺率が60%も増加した。15歳から44歳の人々の三大死因の一つが自殺である。いくら魅力的に見えても、ネオリベラル・イデオロギーは不平等社会をいっそう不平等にし、とりわけ若者に厳しい影響を与える。

 貧困に関するデータを見よう。貧困のために死亡する子どもの数は1日につき2万2千人。10秒間に一人が餓死している。世界人口の約半分が1日2ドル50セント以下で生活している。さらに、多くの国で家計の借金率が上昇している ― これは、中産階級が借金依存の消費生活パターンに追い込まれたことを表している。こういうデータが物語っているのは、社会的労働の搾取によって蓄積されるグローバル富がごく少数の人間によって押収され、圧倒的多数の苦難を緩和する試みに使われることは単発的で、しかも不十分であるということだ。このスラムの惑星の状態を本当に知るためには、今や社会科学が破棄したカテゴリー ― 例えば屈辱、フラストレーション、孤独、疎外、怒りなど ― を復活させることが必要だろう。各国政府は税金ストライキと闘うよりは、あの手この手 ― 麻薬戦争とかテロとの戦争など ― を使って国民大衆を囲い込むことに熱心だ。その際に使われる言葉は新しい支配メカニズムが発動していることを示している ― 安全保障、監視、リスク緩和、感度解析、ハザード等々。本来なら貧困克服に使われるべき社会的富は安全保障武器庫建設に使われる。経済平和研究所の2016年報告は、暴力の総費用は年間13兆4000億ドルで、その半分(6兆6000億ドル)が軍事支出、4分の1(3兆5000億ドル)が国内保安に使われている。暴力の総費用は世界GDPの13.3%になる。第三世界援助として政府開発援助(ODA)公約があるが、それはGDPの0.7%にすぎない。援助と暴力の間のこのような巨大な差は、市場の失敗を表している。ネオリベラル政策は基本的に国の政策の社会面を軽視し、軍事面を重視するものであるから、拡大する格差や世界の人々を襲っている絶望感に対応できない。銃は人々を威嚇するだけで、未来への希望を提供しない。

 

ネオファシズム

  

  貧乏人は(私の閣僚には)要らない。

    ― ドナルド・トランプ

 

 ドナルド・トランプは生まれながらの本能で動く病的執着心がある。彼は、フィリピンのロドリゴ・ドゥテルテ、インドのナレンドラ・モディ、トルコのレジェップ・タイイップ・エルドアンなどの権力者の長い列の中で、最も喧嘩早いタイプである。彼が担当しているのは途方もない軍事力を持ち、世界の金融界と外交界に莫大な影響力を持つ大国であるから、始末が悪い。

 トランプ ― そして欧州のネオファシストたち ― はネオリベラリズムに対して、言葉による、あまり目立たない反発を示している。直接的にネオリベラル政策に反対することはない。彼らも経済成長を促進するとされる政策や賃金や社会的賃金を削減する政策に依存しているからである。具体的政策次元でグローバリゼーションを大々的に批判することはなく、あくまで言葉と政治屋的パフォーマンスの中だけである。支持基盤に向かっての演説中で経済権力に関するジェスチュアを行い、雇用喪失や通商政策に不平を言う。しかし、ネオリベラルたちと同じように、グローバリゼーションがもたらす問題に対する解決策を持っていない。彼らもグローバリゼーションの物質的矛盾の中で身動きがとれないのだ。一方で多国籍企業の巨大な収益がある程度財政を支えてくれる、他方それに対応して、社会的富を生産したのにそれに対する権利を何ら持たないグローバル庶民の悲惨さが拡大する。

 ネオファシズムはネオリベラリズム精神文化の逆数である。ネオリベラリズムの文化的雰囲気の中から、成功は個人の人生行路の中で、個人の自己決定と才能によって達成されるものという態度が生まれる。小説家で思想家アイン・ランドが『水源』(Fountainhead,1943)において主人公として描いたハーワード・ロークの独立独歩の天才の態度である(9)ハーワード・ロークは、自分のように才能と意欲のある人間が業績を構築できるように「セコハン人間」を排除すべきと考えている。

 しかし、「業績を構築できない」者、「成功できない」者、自分が望む生活水準をできない者は、どうすればよいのだろう。ネオファシストは失敗や敗北を個人的責任に帰したり、社会構造的に考えたりもしない。人間が生存競争で敗者になるのは、その人の欠陥とか社会システムの矛盾のためでなく、他者のせいでとする ― つまり、身代わりの羊を作るのである。アイン・ランドの尺度からこぼれた人々は、不安の思いに駆られ、自己の失敗の責任を擦り付ける他者を探す。エルンスト・ブロッホ(10)が1世紀前に書いたように、それは「達成感詐欺」である。本当に人間的な社会に代わって残酷で偽りの社会が代置される。ネオリベラリズムが「失敗」を自己責任とするのに対し、ネオファシズムはいけにえに責任を負わせる。

 ネオファシストが民衆に約束するものは、国民国家を基盤にした経済主権や労働者階級を基盤にした経済主権よりも、はるかに弱く、頼りない。彼らの演説の中には経済的民族主義が散らばっているが、実際には彼らの政策内容は文化的民族主義の境界線上で缶詰状態になっているだけだ。彼らは文化的同質性という幻想に執着する ― ミナレットやヒジャーブのないヨーロッパ、ムスリムのいないインド、メキシコ人のいない米合衆国を夢想する。彼らの民族主義哲学は単なる反移民感情である。貿易は交換原理の事象ではなく、レイシズムとなる。西側世界の生産性向上が雇用喪失を招いているのではないかといった真面目な議論はなく、すべて移民が仕事を奪うという説明で片づける。実際には、移民や貿易はホワイトカラーの雇用喪失とはほとんど関連性はない。まっとうな経済議論が棚上げされ、庶民の生活苦への解毒剤として「国境壁建設」「ムスリム入国禁止」「牛肉輸入禁止」「麻薬密売人、強盗、怠け者との戦争」が声高に叫ばれる。実際に移民や麻薬から被害を受けた人には意味があるかもしれないが、経済的不安定に悩む人々にとっては何の意味もないスローガンである。これがネオファシズムの残酷さ、現代の支配的政治形態なのである。

 アイン・ランドの子どもたち ― 「成功した」と思っている人たち ― が現在世の中を動かしている。彼らは、ウォール街、ドイツの金融センター(Finanzplatz)、インドのダラル街、ロンドンのシティの浮力となっている。これからも金持ち減税が続き、金融流動性が高まってもっと富が創造されるという感覚が漂っている。トランプ政権が打ち出す「税制」改革は、生活苦に喘ぐ大衆よりはアイン・ランドの子どもたちをえこひいきするものである。だから金持ちはネオファシズムに、その文化的奇異さに少し当惑するだけで、基本的に安心している。金持ちと企業の「税金ストライキ」は神域に置かれているし、企業の「投資ストライキ」も同じである。金持ちや企業はネオファシストの「民族主義」に脅威を感じていない。ネオファシストの敵対的注意は持てる者でなく持たざる者へ向けられていることを知っているからである。

 ネオファシストは好戦性を隠す必要を感じていない。「人道的介入」とか「安全保障」などの婉曲語法の陰に隠れる必要も感じていない。彼らは暴力を信仰しており、支配を維持するためにそれを使いたがっている。再植民地主義を求める声と天然資源略奪の声が並んでいる。彼らの戦争 ― 対外的及び対内的 ― は文化的同質性幻想が破れるのを防ぐ予防薬である。文化的同質世界を作ることができないので、外国人と見られる人々、よそ者と見られる人々、下位人間と見られる人々を威嚇するために暴力を使うのである。

 

帝国主義

  

  帝国主義は弱さを覚えるとき、残忍な力に頼るのだ。

   -ウゴ・チャベス

 ネオリベラリズムもネオファシズムもグローバリゼーションが作り出す矛盾を解決しようとして人間的政策を立てることはない。ゲート付き居住地区の人が社会の上に立っていると思うように、大衆を可処分材料と見るだけである。

 新生産編成は外交的・法律的強制ばかりでなく、軍事的威嚇で維持されていると見るべきである。北の多国籍企業に有利な制度的枠組みに同意しない国があったり、企業財産に不利な政治を行う動きが見られると、北の企業メディアと軍隊が合同で動き出す。ベネズエラ、イラン、北朝鮮にかけられている圧力が帝国主義 ― 超独占的アームズレングス資本主義時代にあって大国が使う経済外的力の証拠である。その帝国主義体制を守る憲兵が米国である。NATO諸国をたばねる中心で、さらにサウジアラビア、インド、コロンビア等の地域同盟国をまとめている。米国とヨーロッパの同盟国は、いつ崩れるかも分からなない矛盾の群れを押しとどめなければならないのだ。米国は他国が米国の推定上のヘゲモニーに挑戦するのを好まない。中国とロシアが挑戦する国だ。世界経済フォーラムの推定では、2017年の最大経済規模は米国(18兆ドル、世界経済規模の24%強)だったが、2番手に中国(11兆ドル、世界経済の14.84%)が迫っている。IMFのデータでは、2016年の米国経済成長率が1.6%だったのに対し、中国のそれは6.7%だった。世界最大のプロフェッショナル・サービス会社プライスウォターハウスクーパーは、中国が2050年までに世界最大の経済国になると断定している。中国にはその準備が整っているということだ。中国の経済ダイナミズムはもはや低賃金依拠ではなく、テクノロジー主導の生産性向上である。世界知的所有権機関の2016年報告を見ると、2015年中国の特許出願数は世界第一で、米国の2倍であった。実際同年の中国の特許出願数は世界全体の3分の1であった。これが意味するのは、米など西側の知的財産権主導のアームズレングズ・アウトソーシング蓄積戦略による世界支配が中国によって脅かされているということだ。中国とロシアが世界大国として目立つようになれば、西側に有利な分節型生産システムとグローバル蓄積を支える3本柱 ― アームズレングズ・アウトソーシング、知的財産権、軍事暴力 ― への挑戦となるであろう。実際、すでに3本柱、少なくとも前二者が挑戦を受け、少し弱くなっているのは事実だ。もっとも、米が完全劣勢化するのにはまだ数十年かかるであろう。

 第三の柱 ― 軍事力 ― を揺るがすのはかなり困難である。2016年の米国の軍事費は、高軍事費諸国の8か国 ― 中国、ロシア、サウジアラビア、インド、フランス、英国、日本、ドイツ ― の軍事費を合計した額よりも大きかった。米国の軍事費6112億ドルは二番手の中国2157億ドルの影を薄くしている。トランプ大統領の軍事費増強案が通れば、3番手のロシアの692億ドル以上の増額になるであろう。そのうえ米国は世界70か国にわたり800の基地を展開している。英国、フランス、ロシアが外国に展開している基地は3か国合わせて30である。中国の外国基地は一つだけ、米国の巨大基地と同じジプチにある。ロシアの外国基地が旧ソ連邦だった中央アジアにあり、それ以外の地にあるのは二つ、シリアとベトナムである。中国とロシアと合わせても米国の軍事力に適わない。せいぜい、例えばシリアで見られるように、米の他国の政権交替を狙う侵略行為を抑える程度である。

 軍事的に劣っているといっても、中国とロシアを屈服させることは容易ではない。あまり圧力をかけすぎると、これらの国は西側の制度的枠組みの外側で資本蓄積のネットワークを形成する方向へ向かうだろう。すでに中国は一帯一路構想やアフリカへの投資や独自の知的財産開発を通して、生産と蓄積の構造体を形成しようとしている。それが西側企業にとって有利な分節型生産システムを蝕むかもしれない。また、あまり圧力をかけすぎると、中国やロシアは西側の銀行システムから撤退し、余剰金を他の銀行に移すかもしれないし、生産物の販売を西側市場に依存しないようになるかもしれない。ライバル国を抑えつけることと、それらが西側が作った世界から離れないようにすることとの間の矛盾が、現代帝国主義にとっての難題となっている。NATOの東方への膨張と中国包囲が、経済目的のために軍事力を利用する西側の魂胆が明白に表れている。ウクライナや北朝鮮におけるホットな対立や東シナ海でもコールドな対立が、その帰結としての両陣営の争いである。

 中国もロシアも西側に経済的有利さを与えるつもりはない。米国にとって中国は鞍の下の茨で、中国の対米貿易黒字で米国は苛々している。この点で、中国と日本の対応の比較は示唆的であろう。1980年代と1990年代、日本の対米貿易黒字は米国を苛々させた。米の政治的圧力で日本政府は2度にわたり円を切り上げてドルを有利にした(1985年のプラザ合意と1995年の逆プラザ合意)。また、沖縄の米軍基地撤去と米国よりアジアを重視する構想を提唱した鳩山政権を日本国民が選挙で成立させたとき、ヒラリー・クリントン国務長官が内政干渉して鳩山辞任を引き起こした。このようなことは中国に対してできない。通貨の元を切り上げることや、米の思い通りに中国内政を動かすことはできない。だから、中国のシーレーン利用を非難したり、軍事基地で中国を包囲し、上空飛行嫌がらせを続けているのだ。ロシアに関しては、NATOの東方への膨張で武力をちらつかせる威嚇を行う。統一ドイツのNATO加入もその一例だ。ドイツ共和国外相ハンス=ディートリッヒ・ゲンシャーはソ連外相エドゥアルド・シェワルナゼに「統一ドイツがNATOに加盟すれば複雑な問題が生じることは承知しています。我々がはっきり言えることは、NATOが東方に拡張することはないということです」と言った。しかし、NATOは膨張した。ミサイル防衛網も東方へ移動、ロシアの安全を脅かしている。ウクライナ危機がNATOが東欧へ膨張していった帰結の一つである。ロシアの外周の国々を保護するためと言っているが、要するにそれらの国々がロシアや中国でなく西側の政治経済圏に確実に留まらせることが狙いである。軍事力はグローバリゼーションというビロードの手袋の中に隠れている鉄拳である。

 世界の主人たち ― G7の国々 ― は、世界的金融危機にもかかわらず、詐欺行為を続けている。国際的制度の枠組みを通じて自分たち以外の国の政策空間を制約する。自分たちは企業補助金に関して自由裁量を行いながら、グローバル南の自由を認めない。グローバル南の食糧安全保障の主張に圧力をかけるのはその一つだ。また、米国とEUと「本当に良き友人」(欧米が寄せ集めた国家集団に対する奇妙な専門用語)が推し進めるTISA(新サービス貿易協定)(11)もその一つである。TISA交渉に参加している「本当の良き友人」はほとんど高所得の国々だが、どういうわけか低所得国が二つ(パキスタンとパラグアイ)が紛れ込んでいる。TISAは公共サービスの民営化や大企業の各種データ収集・管理を推し進める協定である。TISAアジェンダは、昔からある開発計画を破棄してその代わりに貧困を減らす「電子商取引」(e-commerce)を利用せよと主張する。スイスの銀行UBSの報告書は、電子商取引は貧困を減らすどころか反対により悪化させる恐れがあることを示唆している。同報告書は、電子商取引によってグローバル南の国々は「第四産業革命の脅威に直面し、極端なオートメーション化によって未熟練労働雇用が激減するが、接続性の加速化を通じて再分配される可能性がある相対的利得を得るテクノロジー能力がない」と書いている。これが意味しているのは、「デジタル植民地主義」によって一握りの企業 ― フェースブック、アマゾン、ネットフリックス、グーグル ― が世界中のサービス業を独占支配し、それを通じてあらゆる情報を収集して資本を利する効率向上(efficiency gains)を得るが、労働者や社会にはマイナス影響を与えるということだ。

 TISAと並んで、西側がユーラシア大陸の両側で推し進める貿易体制 ― TTIP(大西洋横断貿易投資パートナーシップ協定)とTPP(環太平洋パートナーシップ協定)がある。どちらも国々を西側の貿易ヘゲモニー・ネットワークに縛り付け、一般国家をロシアや中国の影響の外に置こうとするものだ。どちらも厳格な秘密交渉 ― 時々リークがあるが ― で、一般社会は中身が分からない仕組みになっている。TTIPとTTPで決められたルール(グローバル北が提起するルール)は国内法より優先される。米国が知的財産問題に関する多様な意見を抑えようとして関係諸国に大きな圧力をかけたことがリークされた。また、投資に関する議論で、「米国は自説を強引に押し通し、一切柔軟性を示さなかった」というリークもあった。だから、「交渉」の結果はいつも西側の勝利に終る。西側の圧力は圧倒的で、グローバル南の経済を西側の利益になる仕組みの中に従属させるのだ。レント利潤で腹を太らせる西側独占企業を支える知的財産体制に挑戦するような提案が出されたりすると、大国指導者は猛然と喧嘩腰になるであろう。帝国主義が貿易協定で狙っているのは自分たちの企業の利益だけで、交渉というより恫喝と圧力がその手段である。

 トランプ大統領はTPP破棄の大統領命令に署名した。これを米の方針転換と見るのは間違いである。TPPの核心は貿易ルール云々ではなく、中国排除、いや中国だけでなく貿易ルールの書き換えやグローバル生産・蓄積ネットワークに新規のネットワークを代置しようとする競争相手を排除することである。2015年10月5日、オバマ大統領は「中国のような国に世界経済のルールを書き換えさせてはならない」と言った。この発言に見られるように、TPPそのものが問題ではなく、中国を孤立させること、世界体制のルールを書き換えるような競争相手の出現を阻止することが、事の核心であった。トランプはオバマよりきつい言い方をするが、意図は同じである。世界第二の経済を持つ主権国家中国を「グローバル経済のルール」を決める交渉テーブルにつかせてはならないのだ。これが帝国主義の基本で、ルールを決めるのは帝国主義でなければならない。

 現在の帝国主義は二つの軸で展開する。ひとつは制度・機構面で、グローバル北はWTOなどの機構を作って、貿易と開発の問題を議論する唯一のフォーラムとした。同時に、国連など古くからある機構を従属化し、暴力行使のときに利用した。もう一つはイデオロギー面で、グローバル北はネオリベラリズム的政策に対抗する提案を潰す議論を展開した。民間部門の利益を促進する民間部門主導の成長が経済発展の唯一の道筋だという議論を展開した。これが新帝国主義である ー ネオリベラル政策がグローバル化した諸制度・諸機構の総体である。ネオファシストはそれが自分たちの文化にとって脅威になると不平を言いながら、事実として肯定して従うグローバル・ネオリベラリズムである。

 2000年代には国家間レベルで新帝国主義に対する挑戦があった。2003年の米国のイラク戦争拡大に対して国連で多くの国が反対した。またカンクンのWTO会議では新興発展諸国がグローバル北の知的財産権アジェンダに反対した。この二つの出来事(他にもいろいろあるが)がBRICS(ブラジル、ロシア、インド、中国、南アフリカ)構想誕生の基盤となった。しかし、誕生したBRICSは反帝国主義プラットフォームではなかった。反帝国主義プラットフォームで会ったなら、制度・機構面でもイデオロギー面でも、もっと帝国主義に闘いを挑んでいたはずである。それは「単極性」に対する制度・機構面での挑戦、つまり多元的世界を作る動きであった。確かにBRICSはグローバル北の制度・機構に対抗する新制度・機構を作った ― 世界銀行に対して新開発銀行、IMFに対して緊急的外貨準備基金、BRICS国家の国連安保理常任理事入り要求など。フィッチ、ムーディ、スタンダード&プアーズに対抗する南の格付け会社を作る話、ドル以外の貿易決済通貨を作る話などがあった。しかし、BRICS諸国(とりわけブラジルとインド)の支配階級の性格から見て、帝国主義に対抗するイデオロギーを期待することは無理であった。BRICS諸国の国内政策は南の特徴を持つネオリベラル政策 ― 輸出と低賃金に依存する経済政策が主であった。国民が貧困で喘いでいるのに、リサイクルした余剰金を北の国への融資にまわしたり、かつて同じ第三世界ブロックの一部であった弱小国家を食い物にする市場を新設するネオリベラル政策を行った。食糧主権を守る議論、富の貯め込みに反対してまともな雇用を創出する方向に投資する議論、銀行の横暴と闘う議論などは、BRICS内部でほとんどなかった。BRICSが作った新機構もIMFやドル体制と結合している ― オールタナティブな貿易や開発を推進する新しいプラットフォームになる気配はない。緊急的外貨準備基金は融資を行うときに、それが適正な融資になるかどうかを知る手段としてIMF情報に依存する。だからドルの遍在性は変わらない。BRICS諸国は西側の市場に依存して経済成長をはかり、自国の大衆の必死の必要は政策の動力とはならないのだ。

 最後に、BRICSは米国やNATOの軍事力に対抗する力を持たない。国連がリビアに関して、「加盟国は必要と思う手段を行使してよい」」という1973号安保理決議を行ったとき、BRICS諸国は実質的に大西洋強国の武力行使を完全承認したのだった。そういう国連決議に地域的影響を与える独自の対抗提案をしなかった。ロシアの2014年クリミア侵攻や2015年のシリアへの軍派遣が、米国の一極的支配を終わらせるまではいかなかったとしても、少なくともある程度弱めることができたという証拠があるのに。とはいえ、米国は世界中に基地を持ち、どこでも攻撃できる力を持ったグローバル軍事大国である。紛争を収め和平をもたらす地域的メカニズムがあったとしても、NATOや米軍によってその力の発揮が弱められている。その圧倒的軍事力が政治権力を支えているのだ。BRICSにはまだそれに対抗する力はない。

 ロシアと中国がユーラシア大陸で安全保障と経済に関する同盟を結んでも、西側帝国主義へのオールタナティブとはならないであろう。単に帝国主義の攻撃性に対抗する守りのシンボルにすぎない。経済制裁に苦しむロシアが経済的余剰を持つ中国に助けを求め、慎重すぎる中国はかなり積極的なロシアの姿勢に励まされるのだ。2017年の米朝膠着状態のときに、ロシアと中国が海軍合同演習を行ったこと、中国の支持を受けてロシア軍が西アジアへ入ったことは、米国の一極支配を許さないという両国の決意の表現となる。それは主権擁護と影響領域を守ろうとする行為であって、米帝国主義と世界支配ヘゲモニーを争うためではない。

 現在我々が見ているのは、帝国主義間対立ではなく資本家間対立である。BRICS諸国家(とりわけ中国)が世界市場を求めて弱まりつつある西側経済ブロックを押し退けている。トランプが「アメリカ、ファースト」政策を打ち出したため、それと1990年以降巨大な労働遊軍に依存して発展してきた政治・経済体制の間に緊張関係が発生、その資本家間危機が国家間危機となっている。かつて中国(及びその他の国)の余剰が融資という形で西側の金融秩序崩壊を救ったことがあったので、10年前から西側には「中国の支配」という幻想的恐怖感が徘徊している。しかし、それは言葉で表現されるだけで政策として表れたことはなかった。現在の危機はその恐怖感が政策化し、現体制を混乱させていることだ。2017年のダボス会議で習近平首相は「貿易戦争では勝者はいない」と言った。彼が言いたかったのは単に貿易戦争だけでなく、大混乱を招く国家間対立のことである。資本家間対立が国家間対立 ― そして、やがては帝国主義間対立 ― になると、かなり物騒な事態となる。

 帝国主義は世界を構造化し続けている ― もはやむき出しの植民地主義や20世紀中葉の新植民地主義の形態ではなく、もっと複雑な形で。以下に21世紀帝国主義の輪郭を6つ述べる。

  • 米国をハブ中心としてそれに追従する同盟国(英国、フランス、ドイツ、日本など)を車輪のスポークとする同盟システムの維持。スポークの外側にさらに従属的同盟国、例えばコロンビア、インド、イスラエル、サウジアラビアなどが置かれている。これら追従諸国や従属諸国との同盟関係は米国の世界的影響力維持にとって基本的に重要である。これら同盟国に敵対したり反対する勢力が生じると、米軍やNATO軍の直接介入か、従属同盟国に軍装備を送り、その国の軍隊を指導・訓練する。

  • この同盟システムに敵対する恐れとなるものを一切許さない。冷戦終了(ソ連邦崩壊)でこの同盟システムへの大きな脅威はなくなったが、BRICSやロシア、中国、アラブやラテンアメリカの反乱などがあり、抵抗がゼロになったわけではない。米国と同盟国は自分たちの支配体制維持に腐心した。米軍基地のグローバル配置、NATOの東方膨張、米軍艦の環太平洋地域展開で、ロシアと中国を封じ込め、圧力をかけてきた。ラテンアメリカで対抗的勢力が民主主義的選挙で政権を獲得すると、昔ながらのクーデター(例えばホンジュラス)やポスト・モダン的クーデター(例えばブラジル)を策動して潰した。BRICSやALBAなど対抗的権力基盤になる試みを解体に追い込もうと全力を発揮した。イランやシリアに政権交替させようと圧力をかけているのもそうである。

(3)ハブの中心である米国の威信高揚・維持。第一次湾岸戦争とき、G.H.Wブッシュ大統領は「ベトナム症候群を克服した」と言った。今や米国は世界舞台で活動する自信を取り戻した、軍事力を恐れることなく全面展開できる、と言うのだ。1980年代にやらせた代理戦争はもう不必要で、敵に対しては直接米軍が攻撃する。2003年のイラク戦争の後「再びアメリカの世紀」という声が鳴り響いた ― ただ、イラク侵攻については同盟国内部に意見の不一致があった。これは潰さなければならなかった。米国が親分 ― マデレーン・オルブライト国務長官の言葉を借りれば「なくてはならない強力な国家」 ― である。そういう米国像を内外に再確立しなければならない。イランや北朝鮮への恫喝はこの大言壮語を見える形にしたものだ。

(4)グローバル商品連鎖(GCC)を守ること。グローバル商品連鎖は産業生産の基礎で、その利益はすべてグローバル北の多国籍企業が吸い上げる。生産地の細分化(工場を世界各地に分散)や厳格な知的財産権制度のおかげで、多国籍企業は工場がある国の政府や労働者組織よりも大きい支配力をグローバル商品連鎖に対して持っている。工場がある国で国有化とか知的コモンズの主張があると、グローバル北の同盟システムが外交攻勢や軍事的威嚇でそれを潰す。苛酷な労働条件が社会関係を悪化させるにもかかわらず、工場で労働者が高い倫理性を発揮して真面目に働くのは、グローバル北の企業が社会関係に毒を流し込む苛酷な労働条件に基づいて暴利を貪っているにもかかわらず善人面をしておられるのは、労働管理までも下請けに完全委託しているメカニズムのおかげである。

(5)鉱山や油田から抽出した天然資源を、それの正式な後見人と言える地元住民に支払って然るべき金額よりもはるかに低い費用で安全に運び出す仕組みの維持。環境を破壊し、労働者に苛酷で有害な採掘作業は、人目が届かない森の中や砂漠で行われる。これに異議を唱える抗議は、テロとの戦争とか麻薬戦争とか何かもっともらしい名称をつけた弾圧の対象となり、環境破壊と資源強奪が妨害されないようにする。グローバル北の従属的パートナーやBRICSの新興発展国は原材料の輸出に依拠して経済発展をはかる。ハブの中心の企業が直接採掘を管理しているわけではないので、暗闇で行われている環境破壊や労働者酷使の責任を逃れる ― 手を汚さないのだ。

(6)グローバル北、例えばサウジアラビア王家を保護して、そこのオイルマネーが北の銀行へフローすることを確保するとか、あるいは貧困国へ融資したローンの元利を容赦なく取り立てるなどして、財力を蓄積し、擁護する。大西洋世界が金融危機に襲われたとき、アジアの大国(中国、インド、インドネシア)に融資を頼み込んだ。その返礼としてG7という特権的機関を廃止して、代わってG20を設立して仲間に入れると約束した。しかし、北の銀行が危機を脱して回復すると、その約束は忘れられた。財力が回復した。大切なのはそのことだけであったのだ。

 今ではBRICSの挑戦は弱くなった。主として内部矛盾のためだ。ブラジルでは極右が政権を握り、南アフリカも右傾化。そのうえ商品価格の低下がBRICSの気力を削いでいる。今ではBRICSに世界体制の平衡化の力を期待できない。BRICSのうち2国、ロシアと中国だけが西側帝国主義に控えめな挑戦を続けているだけだ。米の圧倒的軍事戦略、イランや北朝鮮に対する制裁、クリミア介入に対するロシアへの制裁等に追い詰められたロシアと中国は、経済や軍事戦略関連の協定を結んだ。経済関連の協定 ― 特にエネルギー販売 ― は小規模である。北朝鮮沿岸沖での中・ロ海軍合同演習や、中国軍艦が地中海入りしてロシア船舶と合流したことは、世界を西側の思い通りにはさせないという意思表示と言える。しかし、それはあくまで守勢の防衛的性格のもので、世界秩序へのオールタナティブとか世界秩序のバランスを作り変えるものではない。それに、このネオファシズム時代に入った今、中国とロシアがその防衛的姿勢を維持できるどうかも分からない。両国の軍用機がテヘランや平壌に着陸して、米が画策する政権交代を防ぐ働きをするだろうか?

 

 歴史主体の分解

 

将軍閣下殿、あなたの戦車は強力です。森を押し潰し、多くの人間を踏み潰します。しかし欠陥が一つあります。運転する人間が要ることです。

  ― ベルトルト・ブレヒト

 

 我々には何がのこっているのだろう。世界各地で人々の運動がある ― 労働争議や反差別闘争、天然資源の権利保護の闘い、健康を守る闘い等々。すべて権力への抵抗である。

 一世紀以上にわたって資本は、生産性向上と管理強化のために、大勢の労働者を一か所、つまり工場やオフィスへ集めてきた。よく深い資本は巨大工場やオフィスを作る方が得と考えたのだ。生産規模が大きいほど利益も大きかった ― 膨大な商品を効率良く製造し、量の利点を活用して材料費を大幅に値切って、市場を商品で溢れさせた。小規模企業は消えていった。労働者は永遠に回り続けるラインの前に立って単純作業を繰り返す。手で工芸品を作る作業はなくなった。断片的に分化され、心を消耗する作業を繰り返すだけ。その労働者にとって意味を失った断片的作業の集計として商品が出来上がるが、その工程も商品も労働者のコントロールの外側にあった。自分の自発的労働や創意工夫で製品を作り出すのでないのだ。マルクスが書いたように、労働者は「機械の付属品」になる。職人の技術が組み立てラインや機械に取って代わられるので、労働者への知的要請はなくなる。労働者階級の生活は工場に従属、「資本の絶対的力の車輪に引き込まれ」てしまうのだ。

 その資本にとっての利点がやがて不利になった。工場にたくさんの労働者が集結しているということは、彼らの交流と会話を許していることである。悩みや問題を話し合い、自分たちの人間的尊厳がないがしろにされている原因を探り合う機会を与えることになる。それが近代労働組合運動発展の基盤となった。労働者がかたまって存在する工場が彼らのセンターであった。工場は資本にとって罠となった ― 大金を注込んで工場を建設したので、工場で労働者が一秒でも無駄に過ごせば経営者の損失になる。換言すれば、労働者が意図的に労働を放棄(ストライキ)すれば、資本に大きな圧力をかけることになる。当時は、先進工業国英国でも、すべての労働者が工場で働いているわけではなかった。女中やお手伝いという家事労働者が多かった。家事労働者は、工場労働者のようにストで経営者に圧力をかけるという利点を行使できない。個別勤務なので、抵抗すると解雇されて終わりとなる。大勢で同時に働く工場では全員解雇すれば工場がやっていけないので、不可能である。そういうことから工場が労働組合運動の中心となり、マルクス主義者や社会主義者が労働組合を未来の社会主義建設のい中心となると見たのである。同時に、労働組合運動内で性差別が再生産された。労働者階級の多くは有産階級の家庭で孤立して働く女性で、彼女らは労働階級組織化ヘゲモニーの外に置かれた。

 労働組合運動が活発となってから1世紀経過した20世紀中葉、資本は新しい搾取方法を採用していた。分節型生産システムの時代に入っていたのである。世界中に分散された小さな工場では、大工場のような労働者の集結がないので、団結による脅威はない。国境をまたいで商品生産されるので、資本は国より有利な立場に立つ ― 左寄りの政権ができても工場の国有化を防ぐことができるからだ。生産連鎖の一部を国有化しても意味がない。商品連鎖は国有化戦略を無意味にする。分節型生産システムのもとでは労働組合運動も下火になる。一つの工場でストが起きれば、その工場を閉鎖して生産を他へ移せばいいからだ。投資しても資本は以前のように罠にはまることはない。何故なら、生産は外国の小資本家の工場にアウトソーシングしているから、都合が悪くなればその小資本家、つまり供給者を代えればよいのだ。独占企業は供給業者を取り換え可能な部品ぐらいにしか思っていない。言い方を変えると、新生産方式は労働組合にとって不利な作用をしている。また、これら小工場では女性が主要な働き手でとなっている ― 10代半ばで職場へ連れて来られ、苛酷な労働で心身を擦り減らされ、用なしとなれば元の田舎へ送り返される消耗品労働力である。

 労働者は、不安定な就労でも仕事を求めるので、労働時間は長くなり、私的時間が、ゼロとうわけではないが、非常に短くなるので、労働者階級(及び農民階級)を守る組織作りを議論する余裕がない。それに通勤時間が長くて、組合どころか地域活動のための時間もない。時間は、経営者ばかりでなく、不安定な雇用形態や歪なパートタイム勤務によって奪われるので、家庭生活を含む社会生活がボロボロになる。実際に仕事をするより、仕事探しに費やす時間の方が大きい。

 組合文化よりも商品文化の方が強くなる。人々はメディアが流す情報、広告会社がばら撒く宣伝、教育機関が教え込む知識などで変質していく。職場に関連してアイデンティティが形成されるのでなく、消費生活に関連して形成される。モールや広告や商品が人々を惹きつけ、何か特別な人間になったような幻想を注入する。同じような働きを宗教が、お寺、モスク、教会を通じて行う。宗教がまたもや下隅の非正規労働者に慰めを提供するようになった。疲れ果てた心と体が信仰によって癒される。ラテンアメリカではペンテコステ派、中国ではプロテスタント派が、かつては組合や社会主義文化があった場所で活動している。商品への欲望の周囲、そして信仰の周囲にコミュニティが形成されている。

 その意味で、労働組合や農民組合はアナクロニズム扱いされている。主流メディアはそれを昨日の文化、モールや広告がなかった時代を思い出させるスローガンをまだ掲げている時代錯誤者と描く。そればかりではない。労働組合意識よりももっと一般的な感情 ― 例えば民族主義や愛国主義 ― も侵食されている。もはや意味ある文化でなく、一種のスタイルとなっている。民族を形成する具体的民衆に何ら奉仕しないで民族主義者を名乗るのである。そういう民族主義が社会矛盾を摘発する人々に鋭い刃を突きつけている。異端を追放しろという扇動が現代の風潮になっている。学生、ジャーナリスト、労働者、農民、女性、その他ナショナル・「コンセンサス」を問題視する人々を非国民、非民族とするのだ。この民族主義は憎しみと無思慮で社会を結合し、社会建設などは視野になく、ただ暴力と反社会的行動で人々を繋ぐのだ。

 構造的失業とインフォーマル・セクター(非公式経済部門)の拡大によって、不満が職場から街頭へと移動した。街頭で生き延びる活動の中には不法と見做されるもの ― 麻薬密売、売春、武器密売、怪しげな物々交換 - があり、国家に住民弾圧の口実を提供している。国家の性格は福祉から治安へ、保護から取締りへと変質していった。小さい国を主張するイデオロギー(ネオリベラリズム)と治安国家とは両立する。支配エリートは、絶望と革命の関係を知っていた。アメリカ銀行のトーマス・クラウセンの言葉がそれを典型的に表している ― 「民衆が絶望して死に物狂いになると、革命へ走る。民衆をそういう状態に追い込むことは我々の利益にならないのははっきりしている。病人は死なせては治療できない。」支配エリートにとって革命を防ぐ方法は二つ、ネオリベラル政策がもたらす最悪の影響を防ぐこと(リベラル派)と、革命の兆候を未然に潰すこと(ファシズム)である。しかし、実際には、現在は一つの道しかない。ネオリベラリズムとネオファシズムが共通の利害を見出す道、即ち治安警察による弾圧である。「自由貿易」の力と「人道的介入」の間の距離、世界を包み込む商品連鎖と国家を破壊してカオスに追い込む政権交替の間の距離は、どんどん縮まっている。マルクスが1867年に書いたように、「軍事力はそれ自体経済力である」のだ。

 

 歴史主体の再組成

 

  彼らは私たちを恐れている。何故なら私たちが彼らを恐れないからだ。

     ― ベルタ・カセレス(ホンジュラスの先住民レンカ族出身の環境活動家)

 

 左翼運動は、分節型生産システム、消費文化、治安国家を前にして、どうすべきだろう。本質的問題だが、簡単な答えはない。労働者文化の復活がなければ労働組合の力の復活もない。分節的生産システムを認め、その現実認識に基づいて運動しなかれば、労働組合の復活もないだろう。工場での組織化にこだわらず、労働者が生活する場で労働者の力を強くする方向で、組合復活の道を探るべきだろう。今は大きな社会的・経済的変化が足元で起きている時代である。これが労働者の中に不満と怒りを引き起こす。この不満と怒りの波の高まりという客観的条件が抗議という主観的爆発への発展に対応するのが、労働者たちの歩哨である組合や政党の役割である。それ故に労働組合は労働者の力を建設することを目指すべきである。労働者の力の強化は工場や農場に組合を作ることではない。もちろん、働く人々の組織化は重要である。しかし、輸出加工地や在宅勤務に見られるように、小さな工場でバラバラで働くという労働形態があるので、旧来の職場中心の組織作りは困難である。他にもっと創造的な方法を開発しなければならない。例えば、労働者が生活する場、彼らが家族を守る闘いをしている場、生活必需品の値上げに反対し、安全な水を求めて闘っている場で労働者を組織する道があり、実際それは世界各地で起きている。飲料水の安全で安定した供給を守る闘い、公共空間の民営化に反対する闘いは労働者や農民を活気づけ、「コミュニティ」や「地域」という概念が発達した。この言葉は、表面的には、階級的意味を含んでいないように見えるが、唯物論的見地から見ると、階級的意味があるのは明らかである。「水戦争」」のときコチャバンバ(ボリビア)の労働者が、労組の支援を受けて、守った「コミュニティ」は、決して抽象的な概念ではなく、民営化によってバラバラにされる生活を強いられる労働者が生活する具体的なコミュニティである。彼らはコミュニティが生活の中で手に触れ肌で感じる具体的事実であること、水道民営化と闘うのに必要な連帯の場、際限ない闘いを続けるうえでしがみつき、絶えず再建する必要がある社会的絆であることを知っていた。南アのアバフラリ・バセムジョンド(12)や、ブラジルの土地なき農民運動、インド民主青年同盟(DYFI)や全インド民主的女性連合(AIDWA)の活動などは、生活の場で労働者と農民の力を創ることの有効性を表している。スラムは国の支援が最小の過密地区だが、現代の労働者のホームである。国連人間居住計画は世界労働者の4分の1がスラムに住んでいると言っている。グローバル南では住民の半分がスラムで暮らしている都市がいくつかある。粗末な住宅、汚れた水、貧弱な衛生管理、低い医療や教育提供の地区に。国際機関があげるスラム人口は過小数字である。例えばケープタウン(南ア)のスラム地区カエリチャの人口は40万だとされているが、スラムの活動家によると、その3倍の人口だという。ムンバイ(インド)のダラウィ地区の人口は100万~150万人、メキシコシティのネツァワルコヨトル地区の人口は100万人。世界最大のスラムはカラチ(パキスタン)のオランギ・タウンと言われているが、その人口は250万人以上。スラム住民はインフォーマル・セクターで働いている ― 労働人口のほとんどがインフォーマル・セクター労働者である(例えばインドでは労働人口の90%)国々もある。彼らは国が法律で定める社会的規制の外側にあり、多くの場合労働組合ネットワークの外側にある。

 スラムには社会的富はトリクルダウンしてこない。国が見せる良い面はここに届かない。そのためこの地区の労働者は(a)自らの力と結束による活動か、(b)暴力団か宗教団体かNGO等慈善団体の力か、(c)労働者の中の女性の見えざる心使いや家庭の結束を守る必死の努力に依存する。(a)の実践は社会主義への可能性を表し、生活協同組合や労働者階級による労働者階級のための自助組織を形成していく。(b)は非常に厄介な障害である。宗教団体やマフィアが労働者の生活の中に深く入り込んでいるからである。マフィア・ギャングや宗教団体 ― NGOも含む ― は左翼の成長を阻む障害である。しかし、左翼はそういうものと正面的に衝突するだけでは成長できないことを経験から学び取っているはずだ。グローバル南での経験は、社会的再生産次元で自らのイニシアティブを発揮して、マフィアや宗教団体や慈善団体の力より有効であることを証明するべきだと、左翼に教えている。左翼は飲料水、電気、住宅、ストリート・サービス、学校、ヘルスケアの面で、労働者階級を助けるプラットフォームを整えている。それと同時に、それらのサービスを労働者の自主的な形態で提供する実践も始めている。この実践活動は危険を伴う活動である。ギャングや宗教団体やNGOの領域に闘いを挑むことになるから。しかし、左翼がこの領域に踏み込むことは、これまで主として女性が私事として担ってきた社会的再生産を社会化する効果がある。(c)を社会化する機構を労働者や農民の間に作り出すためには大変な努力が必要になるだろう。知識人もそのやり方を研究し、女性大衆のエネルギーが産み出した各種業績や経験について書き、広くシェアする仕事も必要になる。

 そのうえ、労働者階級を強くするためには、性別や宗教やその他の差別やヒエラルキーによる社会的分断の克服が必要である。マルクス主義者はよく社会的ヒエラルキーによる差別・分断が労働者階級の統一を「遮断する」かもしれないと心配したものだった。実際、差別が労働者階級の中に染み込んで統一や団結を妨げているのに、その問題に取り組むことを先送りばかりして、不統一や相互不信を悪化させてきた。労働者や農民による人間的尊厳を実現する反差別闘争は階級闘争の外側にあるのではない。それどこか、それは我々を抑圧と搾取から解き放ち、全面的人間として我々を蘇らせる階級的政治の本質である。労働者・農民は団結しないと力を発揮できない。2016年9月に、労働組合の旗のもとでストに突入した1億8千万人のインド労働者は、スト・アジェンダの中に社会的分断の解消という政治問題が入っていたので、ストに参加したのだった。フォーマル・セクターの組合員労働者とインフォーマル・セクターの未組織労働者(その多くは公衆衛生部門や幼児教育部門で働く女性)の間の分断を取り上げたストであったからだ。スト労働者たちは、社会的ヒエラルキー、宗派主義、女性差別に反対する闘いこそが労働者階級と農民の力を構築する上で中心となることを示した。

 労働者の力の発達を妨害するのが、人々を消費者としか扱わないブルジョア的商品文化の圧倒的拡散である。この文化は企業メディアと広告会社によって促進され、歴史と集団性という概念を破壊する ― 歴史は商品販売用マークか、人民の集団的闘いの産物よりは個人的英雄の記録とされる。そういう考え方はメディアやアカデミーの世界にしっかり根付いてしまった。メディアや学界は、民衆が歴史形成に重要な役割を果たしたことを認めず、社会の大変革は望ましくないし、そもそも不可能だという論調である。このメディアや学界の支配的ディスコースが我々にとって意味しているのは、左翼の豊かな歴史を掘り起こし、労働者・農民の世界史形成への貢献に光を当てる文化闘争が必要だということである。今は、若者が左翼に関して学習して元気づくことがなくなった時代である。それだからこそ、左翼の歴史と労働者・農民の歴史を若い人々に注入し、彼らの想像力を掻き立てる文化闘争が絶対に必要である。そのためにも心ある知識人が大衆運動と結びつくことが絶対に必要である。

 言い換えれば、希望と可能性を追求する運動の最前線は思想に関する議論である。企業メディアは、西側が第三世界諸国を爆撃したり、貿易政策を通じてそれらの国の農業を破壊しているのに、西側が慈悲深いとする一面的な決めつけに基づいて報道活動を行っている。アフガニスタンやソマリアにおける米軍の民間人殺害を事故と報道する。問題あるとされる政府が自国民を殺害すると、民族的性格の表れと論評する。西側主導の貿易政策のせいでマリの綿花生産が破壊されると、それを自然な法則から生じる必然的結果と説明する。問題とされる国の政府が一度でも経済政策で失敗すると、欠陥体制の結果だとする。メディア報道を支配するのは歴史すらも支配して書き換える支配権力である。視野が狭く、動脈硬化症にかかった企業メディア ― CNNやグローボなど ― の報道は、例えば西側が画策する気に入らない国の政権交代戦争を善いもの、 西側が強引に進める貿易政策を当然そうすべきものと持ち上げるだけ。こういう西側メディアの制度的管理とそのイデオロギー的枠組みに抵抗すること、及び解放へ向けての対抗的情報ネットワークを作り出すことが重要である。

 人民の政治的・社会的運動と並行して、社会主義的知識人がやるべきことは何であろうか。以前なら、知識人は運動から学び、運動が提起しているオルタナティブを見抜き、それに基づいてしっかりした未来社会を展望する理論を構築することだと、すぐに答えることができたであろう。しかし、今は知識人の立場はそんなにはっきりしていない。現在は社会主義的知識人も運動から離れた位置にいる。それには多くの理由があるだろう。知識人一般(とりわけメディア用知識人や大学など学界知識人)のブルジョア化、労働組合運動など既成運動の腐敗、世の中が大変革することなんかあり得ないという考え方を受け入れたこと、このポストモダン時代にあってもはや根拠もなく不確かだとされる古い左翼的価値観の提唱者になることへの躊躇等々。しかし、そういう時代変化に左右されずに、大衆運動と繋がって、その中で重要な役割を担っている知識人は、世界中に何百万人も存在する。私が所属している「トリコンティネンタル ― 社会研究協会」(Tricontinental: Institute for Social Research)の仕事の一つは、世界中からそういう知識人を集めて、解放を目指して活動する社会的・政治的運動と繋がって企画するプロジェクトに参加するように、多くの人々を刺激する研究活動や言論活動をしてもらうことである。

 運動を詳しく見ると、運動がマクロ経済政策を民主的管理下に置くこと、社会的賃金を上げること、人々の必要に応じるインフラを建設すること、企業や富豪の税金ストライキを止めること、銀行を民間経営から公共事業へ変えること、すべての人の住宅を安定供給し、安全と安定した生活を保障することなどを望んでいることが見える。それは未来社会の要素である。これらの要素を取り上げ、それに関する議論を刺激し拡大することが知識人の仕事である。運動実践から対抗的な社会・文化・経済・政治の秩序のプラットフォームを引き出して育てることが大切である。

 また、ブルジョア的イデオロギーの大攻勢で破壊された二つの思想 ― 人間に関する社会主義的思想と、未来に関する社会主義的思想 ― を復活させるのも、同じように大切である。商品文化と人間を消費者に縮小する思想が人間にかんする思想を後退させた。ボリビアの社会主義者たちは自分たちの伝統を深く見つめ直して、資本主義的社会基準に呑み込まれていない人間性や人間的社会を語る語彙を開発した。米州ボリバル同盟(ALBA)のダビッド・チョケワンカ事務局長は「カパック・ニャン」(善き生活への道)について語り、消費者や所有者でなく「イヤンバイ」(主人を持たない自由人)を創造することが必要だと説いた。主人を持たない人間とは未来、つまり善き生活への道を求める人のことである、とチョケワンカ。人間に関する思想の復活 ― 人間的コミュニティ創造の必要を説く思想の復活 ― を行うためには大きな努力、人間の意思決定を複式簿記の帳簿の論理に貶める支配的風潮に抵抗する大衆運動に見られる努力をいっそう大きく発展させなければならない。

 社会主義的知識人としては、現在が永遠に続くものでなく、変革は可能であるという思想を回復させなければならない。変革可能とは未来思想に他ならない。未来を語ることはある。明日はやってくるし、来週も来月も、来年もある。しかしそれは単なる時間の流れとしての未来で、いわば現在の延長にすぎない。それは未来に関する議論、未来思想ではない。未来に関する常識的思想はあるが、それは技術発展に囚われた議論である。人間主義的思想でなく、テクノロジー賛美の未来思想である。技術開発が現代社会の危機を解決する ― グリーン・テクノロジー開発が気候変動問題を解決する、デジタル・テクノロジーやナノ・テクノロジーの開発が経済停滞から我々を救いだす、という想像である。技術決定論は、人類の夢を妨害している諸問題は政治・社会的な性格のものではなく、技術発展で克服できる性質のものだとする。これは歴史と未来に関する非常に狭い見方である。もちろんより良い世界のために技術発展が必要であるのは言うまでもないが、技術そのものが歴史を形成するのではない。技術発展がヒエラルキー上層部だけに富と権力をもたらすのを防ぎ、人類全体に良い社会的結果をもたらすようにするためには、そのヒエラルキー上層部との闘いがなければならない。現在が永遠に続くものでなく、変革が可能であることを理解しなければならない。現在直面している問題に対して新しい解決法が必要であること、その方向を示唆する新しい水平線の構築の必要性を理解しなければならない。新しい解決法は、現社会体制が民衆の希望や夢にとって不十分であることを直感的に知っている人民から生まれてくるであろう。人民の運動の中に水平線の指標を見出せるであろう。知識人としては、物事を否定的に捉えるシニシズムに陥った社会科学を救い出すことだ。民衆に食べ物を拒否し、貧しい国に武器を売りつける現代の残虐性を、社会科学は非難しない。シニシズムとニヒリズムが現代の風潮だ。このため人間主義的思想、人間的自由を創造しようとする思想に無感覚な態度が生まれている。かつて存在した人間尊重の思想伝統が蝕まれている。民主主義、平和、文化というような概念が擦り切れたようになっている。そういう概念は脆弱な外皮で、それを破って何か恐ろしい強力な思想が生まれてきそうに見えることさえある。何か大切なものがこの世から消えつつあるのは明らかである。明らかでないのは古いものに代わって何が生まれてくるかである。

 現在餓死との境界線を彷徨っている人は3千万人いる。彼らは食物を求め、あるいは干ばつや森林火事や戦争を逃れて移動したがっている。しかし、自国では生活できず、移民を拒否されている貧民たちは、犯罪を犯したわけでもないのに、酷い罰で苦しんでいる。いったいどんな罪を犯したというのか? 何の悪いこともしていないのに、何故こんな苦しい目にあわされるのか?

  訳注

(1)1846~1921.パキスタンの詩人。戻る

(2)広島平和記念資料館に彼女の絵と文「道端で苦しむ人々」が展示されている。戻る

(3)1940~2015.ウルグアイのジャーナリスト。主著『収奪された大地ラテンアメリカ500年』戻る

(4)米国のインフレ対策としてポール・ヴォルカー連邦準備理事長が行った利上げで、国内インフレは収まったが、経済成長低下、失業率増加、資産価値低下を招き、外国に大きなマイナス影響を与えた。戻る

(5)ブルキナファンは西アフリカにある国で、サンカラは第5代大統領。アフリカのチェ・ゲバラと言われた人物。戻る

(6)arms-length outsourcing.「つかす離れずの下請け契約」程度の意味。戻る

​(7)米連邦準備制度理事会長のアラン・グリーンスパンが資産価格高騰を維持するために行った金融緩和政策。現在日銀がアベノミクス相場の株価を維持するためにカネを放出しているのと同じもの。戻る

(8)貧困国で資源採掘する外国企業が、その鉱物を輸出するとき、まず税率が低いタックスヘイブンの関連会社に低い価格で形だけに「販売」をして、貧困国に支払うべき利益税や関税を逃れる。次にタックスヘイブンから正常価格で実際の顧客である先進国へ「転売」する。現実にはタックスヘイブンを経由することなく、貧困国から直接運送されている。戻る

(9)アイン・ランド(1905~1982)はロシア系米国人。自由放任個人主義的資本主義を支持・賛美した女性。彼女のベストセラー『水源』は映画化され、私は少年時代にゲイリー・クーパー主演の『摩天楼』で観た。クーパー演じるロークは非妥協的天才的独立人間で、完全主義者、「セコハン人間」の凡人と闘う英雄的個人であった。戻る

(10)1885~1977。ドイツのマルクス主義哲学者。戻る

(11)全産業の70%を占める金融、電気通信、流通、運送、教育、観光、公共サービス等の自由化を求める協定。戻る

(12)2015年南アでワールドカップ開催に伴い貧民居住地区の住民を追い出すキャンペーンや警官の攻撃が行われた。それに対する掘っ立て小屋居住者の運動。戻る

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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