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新左翼運動から農民運動へー田中正治さん(ネットワーク農縁)への聞き取り報告

​取材日時、場所:2018年1月12日、田中さんのご自宅にて

​聞き手:田中一弘、大賀英二

 プロフィール

1942年 京都生まれ。農家の6男。子供時代はお祭りなど生き生きとして遊んですごす。

1945年 大阪大空襲のかすかな記憶。夕焼けとは違う真っ赤な空を覚えている。

1954年 桃山中学、同志社高校時代は卓球にあけくれる。高校3年生から哲学に目覚め猛勉強。

1960年 同志社大学経済学部に入学。自治会活動に参加。ほどなく共産主義者同盟(ブント)に加盟する。

1962年 京都府学連書記長

1966年 大学卒業。私鉄労連関西地連に書記として就職する。

1968年 チェ・ゲバラの死に衝撃を受け退職しブントの活動に専念する。

1971年 共産主義者同盟RG派結成、参加。

1976年 警視庁公安一課によって一斉逮捕。持病の腎臓病を悪化させる。

1978年 釈放後、同盟を脱退する。

1984~86 年 フィリピンで英語の勉強をする。

1988年~90年 カラバオの会で外国人出稼ぎ労働者支援

1990年 イギリスで語学留学

1993年 藤本敏夫の選挙運動を手伝う。これがきっかけで農民運動に関わるようになる。

1995年 ネットワーク農縁設立、東京事務局。新庄水田トラストなどさまざまな活動を展開。

1998年 鴨川自然王国の事務局を担当。

2004年 鴨川市平塚に移住、コミュニティーネットワーク創成に係わる。現在に至る。

主な著書・論文

『循環型コミュニティーにトライ!~鴨川から』(kindle版、虹の天使プロジェクト発行、2013年)

 田中さんによる自己紹介

1.少年時代

 僕は1942年の生まれで、生まれた所は京都南部の山城平野の田園地帯。農家の7人兄弟姉妹の6男だった。男はあのガラの悪い河内弁を、女はしとやかな京都弁をしゃべっていた。1960年ごろまでは村落共同体がしっかり生きていて、月一回くらいイベントがあり、子ども達は好き放題に遊びまくっていた。お正月、春祭り、お盆、地蔵盆、秋祭り、青空映画会と、楽しい少年時代を過ごした。塾は無いし、夏は唇が紫色になるまで、一日中川で泳ぎまくっていた。農家は米と野菜栽培が基本でほとんどのものが自給自足。家を建てるのも共同作業だった。貨幣経済はサブで、供出したお米の収入で年間のお金は足りていた。生家は米と京野菜、梨や桃を栽培する中農で、犬,猫、山羊、ウサギ、ニワトリ、豚、牛を飼っていた。村には医者、寺、神社、産婆、精米所、農協、雑貨店があり事足りていた。 村落共同体は自給自足経済が基礎になっていた。親父が農協組合長をやっていた1950年代当時、農協は本当に農民の組合だったと親父は言っていた。

 

 なにより自然環境が素晴らしく、そこには日本の原風景があった。琵琶湖と淀川の水系にあって、1930年代に巨大な巨椋池を干拓したが、1960年までその一部が残っていて、船を漕いでいくと白蓮の花が咲き乱れ桃源郷の様に美しかった。夕方になると魚が虫を取るために飛び川面一面が銀色に輝く。夏には川べりに何千と蛍が乱舞して一斉に輝く様は幻想的で見ほれていた。空を見上げると満天下の星が宇宙いっぱいに輝き、いつまで眺めていても飽きることがなかった。

 

 だが、1960年、耕運機と農薬と化学肥料が入ってくると農村は一変した。牛はいなくなった。

牛買いが来る前日から牛は悲しげに泣き続ける。思い出すと悲しみと共に、牛はどうして別れねばならないことを知っていたのだろうか、と今も不思議だ。牛が村からいなくなる頃、長男以外は都会へ出て行かなければならなかった。高度成長の足音が聞こえていた。川の水は汚れ、川遊びをする子どもの元気な歓声は聞こえなくなった。

貨幣経済は急速に農村に浸透した。3ちゃん農業(じいちゃん、ばあちゃん、かあちゃん)を支える農機具、農薬、化学肥料を買うお金はかせがなければならない。

 

 いまは、中小企業工場が多くでき、住宅も建ち、川も汚れたまま。以前久しぶりに実家に帰ったとき、あまりの風景の変わりように、ここがどこかわからなくなり、道に迷ってしまった。以前の風景を思い出したとたん、バリバリという大きな音が体の内側から聞こえてきて、くらくらした記憶がある。悲しかった。

 

 戦争中の記憶はかすかにある。4歳前位だった。大阪大空襲、その時、空全面が真っ赤に染まっていたのを思い出す。それと防空壕に入るのがいやで、息苦しかった体感が今もかすかに残る。村の近くに飛行場があったので、夜は灯火管制があったようだ。窓を黒い布で覆っていた。京都は当初、原爆投下リストにはいっていたらしい。戦後、子ども達で焚き火をしていたとき、誰かが銃弾を火に投げ込み、それが破裂して一人が死んだ。

 

2.大学入学まで

 小学校の入学は1949年で7歳のとき。4~5年生のころ朝鮮戦争だった。時の政府は、先生が教壇から戦争反対の話をすることを恐れ、「教員の政治活動防止法案」を国会に上程した。担任の東谷先生は戦争の話をよくしてくれていた。”もしこの法律がとおっても私は、君たちに戦争の話をし続ける”と言った意味のことを毅然としておっしゃった。その姿を終生忘れることはない。その記憶が、政治運動や社会運動に僕が向き合うことになった原点だったように思う。先生は25歳くらいの戦場帰りだった。男の先生はほとんど戦場帰りだったのかも知れない。京都は当時、恐らく共産党の影響が強く、そうした先生が多かったのではないかと思う。

 

 親父は1900年生まれで、日本が戦争に負け知らずの時代に育ち、息子達が誰一人戦死しなかったせいか、帝国主義者ぽかった。若い時大杉栄に会ったといっていた。大杉栄は田んぼの畦に座って小作農とよく話をしていたが、親父は感化されなかったそうだ。”田中正造は偉い人だった”ともいっていた。親父は小言は一切言わず、人生の節目にだけ2人で向かい合って話すことが何度かあった。お袋は働き者で、岩石のような節くれだったひび割れた手をしていて、その手を見たら誰も何もいえなかった。夫婦は仲がよく、相思相愛の感じだった。

長男は戦争当時、近衛師団の伍長で、陸軍の鬼才・石原莞爾の信奉者だったが、侵略戦争を反省していた。僕の活動を陰に陽に支援してくれ、”世の中ガラガラポンが必要だ”とよく言っていて、警察から僕を守ってくれた。次男は戦時中は、国家社会主義者で東条内閣打倒を画策した中野正剛の演説に夢中だったらしい。みな軍国少年、軍国青年だったのだろう。

 

 三男は朝鮮戦争の頃失業していたが、突然カネ回りがよくなったので聞いてみると、大阪の枚方にある小松製作所の工場に勤め口を見付けていて、どうやら戦車を修理しているらしかった。朝鮮特需というやつだ。僕もその頃小遣い稼ぎにアカ(銅のこと)拾いをしていた。そこらにあるアカを取って来て、売り払うと金になった。小っちゃい朝鮮特需だ。

 

 中学・高校時代、僕は卓球ばかりしていた。桃山中学卓球部、同志社高校卓球部。高校3年夏京都の大会で準優勝して、つき物が落ちた。そしてなぜか哲学にのめりこんだ。ニーチェの「ツアラストラかく語りき」など夢中に読んだ記憶がある。”人生どうあるべきか?”肉体と精神が青春でうごめいていた。

 1959年当時、学生運動は夏、帰省運動をしていた。田舎で高校生をオルグしようというわけ。帰省した大学生が小学校に高校生を集め、安保条約などの話をして戦線を広げようとしていたのだろう。小学校に行って参加した。その後、近所の大学生から”遊びに来いよ”と誘われ行ってみると、社会主義やマルクスの話等もしてくれた。彼の家にはよく通った。

 最初に読んだマルクスの本は「ルイ・ボナパルトのブリュメール18日」で、歴史物語のように、面白い、それが第一印象だった。

 

3.学生運動

 60年4月に同志社大学に入学、経済学を専攻した。当初は哲学科に行きたかったが、進路指導の先生に”哲学では飯食えんぞ”といわれ結局経済学を選考。数学はからっきしダメだったので、数学が特に必要でないマルクス経済学を選んだ。ええ加減な話だ。

1960年4月は、すでに安保闘争の高揚期。そんなこととは知らず、”さすが大学だ!”と感激し何十枚と渡されるチラシを受け取っていた。学生集会のとき発言したら、”発言した人は、この後、自治会室に来てください。話しませんか”と呼びかけられ、”よし行こう”と思ったのが”運のツキ”だった(笑い)。もう次の日から運動の渦に入り、自治会室に泊り込み、活動と論争に明け暮れていた。5・19安保改定強行採決、6・4ゼネスト、6・15全学連の国会突入、樺美智子さんの死。その頃だったか、BUND(共産主義者同盟)に加盟した。1年生の同盟員はすでに10人ほどいた。人は一晩で変わりうるものなのだ。

 

 大学の授業はほとんど出席しなかった。所属していた経済学研究会での議論や、どぶろく飲みながら論争していた。論争して負けたらそいつに従わなければならないというなにか不文律みたいなものがあって、相手の議論がおかしいと思えば勉強してやり返す。「理論は行動のための指針だ」という考えが肉体化していった。

 

 60年安保闘争の敗北後、BUND(共産主義者同盟)の分派闘争が始まった。

BUNDは東京では、プロレタリア通信派、革命の通達派、戦旗派に分裂したが、関西地方委員会は無傷のまま残り、1961年、関西共産主義者同盟が結成された。京大のリーダーだった小川は革命的共産主義者同盟に行ったので、同志社のリ-ダーだった飛鳥浩二郎が関西BUND全体を牽引していた。だが、彼は60年安保闘争の関西BUNDとしての総括を書くのに苦心惨憺していて、結局かけなかったのではないかという印象が残っている。でも、関西の学生運動をリードしていた京都府学連はユニークな安保闘争の総括をした。いわゆる「政治過程論」で「大戦術、小戦術」をキーワードに大衆運動のダイナミズムを捉えた。草案の執筆は同志社法学部の山本氏だったと記憶する。飛鳥浩二郎も深く係わっていたはずだ。

 

 関西BUNDとしての「総括」が出せなかった(と思う)結果、「政治過程論」が一人歩きしだして、関西BUNDの安保闘争の「総括」は「政治過程論」だ、と誰もが思うようになっていった。

京大では、共産党の白川真澄などとの党派間論争や思想的論争は結構活発だった印象だが、同志社では、共産党系派あまりにも小さくしょぼく、BUNDの影響が圧倒的だったので、党派間論争や思想闘争は無風。右派・体育会と対峙しながら、大衆運動を盛り上げるのに全力投球していた。「政治過程論」は大衆運動を盛り上げるのにぴったりの理論だった。

関西という土地のせいか、東京のような理論先行型ではなく、行動先行型で、関西BUNDは自由なネットワークという感じだった。問題意識の党というか一人一党というところがあり面白かった。

 

 後の話だが、この「政治過程論」がベースになって、「過渡期世界論」「攻撃的階級闘争」「前段階蜂起」論と「深化」させた赤軍派が生まれることになる。​「安保闘争の政治理論としての総括」(いわゆる「政治過程論」と呼ばれている)

(なお、この文書が収録されているBUNDの書籍『政治過程論』は次のリンク先で読める。ー編集者注)http://www.geocities.jp/liberationsya/seizikatei.pdf

 

 1961年「グラムシ選集」を本屋で見て「新君主論」等を読んだ。マルクスやレーニンと異質な感じだったので、「イタリア社会運動史」(山崎 功著)も読んでみた。印象に残ったのは、工場占拠し製品の生産や流通を労働者が管理運営する工場占拠運動が拡大している隙に、ムッソリーニーが武装蜂起・ローマ進軍によって国家権力を奪取してしまい、逆に工場占拠を武力で粉砕してしまったことだった。労働者と共産党はやはりムッソリーニより先に武装蜂起してローマ進軍をすべきではなかったのか?という疑問がわいた。

確か共産党の主流派・ボルディーガ派は、レーニン派というかロシア革命・永久革命的な考えだったと記憶する。僕はボルディーガ派のほうが正しいのではないかと思った。

それで構造改革派に対する批判をこめて「ジャコバンとイタリア」(社会主義学生同盟機関誌「戦士」2・3合併号)を書いた。http://www.geocities.jp/liberationsya/sensi-no2-3.pdf

 

 1959年、共産党からBUNDが分裂・独立する過程でも、同志社大学では深刻な論争はなかったようで、ほぼ共産党細胞がそのままBUNDに寝返った。共産党に残ったのは1人だったと聞いた。その人は風采の上がらない人だったので、僕は共産党には何の魅力も感じなかった。BUNDが共産党から分離・独立する過程でも深刻な論争はなかったことは、BUND関西地方委員会が安保闘争を、BUNDとして「総括」が出来なかったことと無関係ではなかったはずだ。

 

 京大では主体性論争などが人気があったようだが、同志社では巨大な学友会(自治会、学術団、文化団体連盟などを統括)を運営していたせいか、特に運動の「構造や運営」に関心があり、BUNDとはいえちょっと民主主義者ぽい、構造改革派ぽい感じもあった。

当時僕達のリーダーだった中嶋鎮夫(田原 芳)は、そうした傾向に批判的で、戦術主義的大衆運動主義的な「政治過程論」にも批判的だった。戦略や党の組織活動に注意を喚起していた。その延長に1960年代末、彼は「プロレタリア独裁への道」を書くことになる。

政治過程論に批判的だった背景には、おそらく彼の出自が影響していたのではないか。終戦のとき彼は7歳。満州だった。中国のゲリラ兵が屋根の上で悠々と銃撃戦をしていた姿、親しかった近所のおじさんが実は中国共産党の秘密党員だったこと、ソ連軍が”ダバイ、ダバイ(女)”と叫んでいたこと、などを繰り返し話していた。つまり戦術主義や大衆運動主義ではダメで、革命党は戦略的に組織や計画的に闘争を指導しなければならん、と考えていたのだろう。

 

 立命館大学では共産党の影響も強かったが、構造改革派(フロント)が主導権をとっていて、京都府学連では一緒にやっていた。京都の学生運動は、安保闘争後もデモの人数は3000人くらいで、3大学(京大、同志社、立命館)でトントンだったと思う。

 

 大阪の運動とは大阪市大のBUNDと連携していた。、当時大阪市大は小野義彦の思想的影響が強く共産主義労働党が主流派だった。後に大管法闘争の後の自治会選挙を京都からも支援に行ったが、BUND系がからくも勝利。柳田健や藤本(旭凡太郎)がBUNDの中心にいた。

 

 東京に行ったときは、いつも独立社会主義学生同盟系の味岡(三上 治)と社青同解放派系の山本浩司(彼は隠れ関西BUNDとうわさされていた)のところに転がり込んで飯を食わせてもらったり、寝させてもらったりしていた。

大管法闘争の高揚を背景に全学連再建のため、1964年東京に上京し、全国自治会代表者会議を開催。そのとき議長をした。BUND系、社青同解放派系、中核派系、共労党系、革マル派系が集まったが、結局、全学連再建は失敗。共労党系、革マル派系は始めからぶっ潰すために来ていたと感じた。1966年、次の世代の塩見孝也、高原、八木、堂山、蒲池、藤本敏夫達が再び全学連再建に動く。今度は共労党系や革マル派系をのどき、 BUND系、社青同解放派系、中核派系で全学連再建に成功。いわゆる「三派全学連」http://zenkyoto196075.blog.fc2.com/blog-entry-5.htmlの結成だ。藤本敏夫が委員長になった。彼は同志社の頃は鶴見俊輔のゼミを選考していて、鶴見俊輔に多大な影響を受けたはずだ。同志社の文学部の活動家は「鶴見社学同(社会主義学生同盟)」などといわれていた。吉本隆明の思想的影響も僕らは強く受けていた。

 

4.労働運動

 1965年大学を卒業した後、中嶋鎮夫の紹介で大阪の千里山生協で働いたが、なんか面白くなく、労組の書記の話があったので、すぐ私鉄労連関西地蓮の書記に就職した。

 当時は、大学を卒業したら”労組書記になれ”というのが関西BUNDの方針で、仲間はそれぞれ国鉄、教組、私鉄、繊維、金属、地区労、大阪府地連本部などの書記になった。

 今では考えられないが、私鉄の労組も3日間72時間ストライキを年に2回くらいは打った。国労などと共闘すれば全国交通網をマヒさせる実力があった。労組のリーダーたちも戦争経験世代で、時代の激動の中で資本と闘って育っていたのだろう、バンカラで戦闘力の有る人が多かった。僕は南海電車と阪急電車の労組の若手活動家と連絡をとっていた。

 

 1967年10月ボリビア山中でゲバラが殺された。激震が世界を走った。僕も衝撃を受けた。 ”こんなことをしていられない”と心の中で叫んだ。ゲバラは僕達の英雄だった。1968年3月私鉄労連関西地連を退職。BUNDの大阪事務所がある近くのアパートに引越し、BUNDの活動に専念。1日15のことをすると決めて、猛烈に活動した。”猛烈”の時代だった。

ゲバラが殺された同時期、10月8日佐藤訪米阻止の羽田闘で警官隊との闘争の中で”学生が1人殺され、ゲバ棒”が登場。時代を画する戦いの報告を興奮と共に聞いた記憶がある。

 ゲバラは殺されたがゲバラの叫び”二つ、三つ、……数多くのベトナムをつくれ これが合言葉だ”は世界の若者に凛として鳴り響いていた。僕にとってもベトナム反戦とゲバラのメッセージは、地区の反戦グループを作り、デモや集会、学習会や討論会を組織する時のキーワードだった。中卒や高卒の労働者が地区反戦青年委員会にどんどん集まってきた。時代はどこかに向かって沸騰していた。

 

 1968年、ベトナムでのテト攻勢、北ベトナム人民軍と南の解放民族戦線の一斉蜂起、米国本土での黒人暴動、ブラックパンサーや白人急進派の登場による内乱かと思わせる情況、パリ5月革命、中国文化大革命、途上国での民族解放軍のゲリラ戦争の高揚。

日本でもベトナム反戦運動は野火のように広がり、10月21日国際反戦でーでは、大阪御堂筋はフランスデモで埋め尽くされた。東京では米国のブラックパンサー党やSDS、ドイツSDSなどが参加した国際連帯集会が開催された。大学では全共闘が結成され、大学占拠が始まっていた。”ひょっとしたら革命がおこるかも?”といった雰囲気の高揚感の中に僕もいた。

今当時の情況を冷静に見つめてみると、過去の社会や価値観は大きな再編期にあり、その結果、世界的な若者の反乱が起こったが、少なくとも先進資本主義国では、資本主義経済は高度成長期にあった。国家権力は揺らいでいたが、資本主義社会の土台は揺らいではいなかったのだ。つまり革命勃発の条件である、「社会の上層がもうこれ以上やっていけない。社会の下層ももうこれ以上やっていけない情況」ではなかった。

 

 ではなぜ”ひょっとしたら革命がおこるかも?”と僕は思ったのだろうか。それは、国家権力が揺らげば、社会は一気に流動化するはずだとの思いが強かった。国家権力を揺るがせ、社会に大きな亀裂をつくり拡大していけば、権力奪取の可能性も生まれると思われた。

だが資本主義経済の高度成長は、大多数の人々の物質的生活を急速に豊かにしていたのだ。

 

5.革命運動

 1968年後半から、BUND内で赤軍派結成の動きが始まった。塩見たちを中心に、京大、同志社、大阪市大の学生、東京の労働者・学生が結集していた。塩見が主張した、過渡期世界論、攻撃型階級闘争論、前段階決戦(蜂起)論は急進的な活動家達の時代気分を代表していた。全共闘の活動家や高校全共闘の活動家たちの強い共感を呼んだと思う。http://www.geocities.jp/liberationsya/raf-a.html

 

 だが、労働運動や地区党活動を経験した労働者や地区の党員にとっては、赤軍派に対する違和感があった。学生の思考と労働者の思考の相違といってもいいかもしれない。労働者は労働生活に密着した思考をする。そこから世界を見る思考がある。論争の焦点は、政治と軍事、党と軍の関係にあった。僕らは党による軍の建設・指導を重視し、従って政治による軍事の統御という考えが基本的態度で、戦術は「恒常的武装闘争」(長期のゲリラ戦)だった。

 赤軍派も当初は党による軍の指導・統御、政治による軍事の指導・統御を基本としていたと思われるが、従来のBUND系以外の全共闘系や急進的な高校生の参加が、その関係を逆転させていったのではないだろうか。その背景には1969年1月東大全共闘安田講堂の陥落が大きかったのではないか。本格的な武装闘争なしにはこの局面を突破できないと言う気分が活動家達の中で蔓延していた。赤軍派はその気分に応えようとしたと思う。

 キューバ革命・7・26運動とキューバ革命軍のイメージからカルロス・マリゲラの「都市ゲリラ教程」に導かれるように、「前段蜂起」(大菩薩峠事件)から「国際根拠地建設」(北朝鮮とアラブへのハイジャック)そして「都市ゲリラ」(銀行襲撃)から「山岳ゲリラ」(浅間山荘事件)へと、赤軍派は疾走した。

 

 僕達の運動の結節点は12・18路線(1970年12月)だった。塩見の過渡期世界論を継承しながら、革命戦争、権力奪取、プロレタリア階級独裁を目指すためには、その目的である社会革命について、共産主義について構想しなければ、「共産主義的団結」を実現できない。そのような思想的結晶なしに革命戦争や革命軍ををリードする革命党派建設できないのではないかと思われた。

資本主義批判、プロレタリア階級独裁論、共産主義論の深化において榎原 均の理論的成果は12・18路線にとって決定的に重要な役割を果たした。僕自身はRG建設に直接携わっていた。映画「アルジェの戦い」を何度も見た記憶がある。ゲリラ組織のリーダーがいった言葉「まず隠れ家を作り・・」は印象的で、大衆運動しか知らない者にとって異質であり驚きだった。

 「テロリスト群像」(現代思潮社)を何度も読んだ。社会革命党戦闘団の歴史なのだが、そこには非合法活動の技術が詳しく書かれていたような記憶がある。レーニンはお兄さんが処刑されたあと、社会革命党戦闘団のところへ行って、非合法活動の技術を教えてもらったとどこかで読んだのが引っかかっていた。毛沢東の「持久戦論」やチトーのユーゴスラビア人民解放軍・パルチザンの歴史を読んだりして何とか党と軍(RG)の関係のイメージを作り上げようとしていた。

https://www.youtube.com/watch?v=Qy7rBNyQrfs 映画「アルジェの戦い」

 

 少し話を戻そう。

 1969年1月東大安田講堂が権力によって落とされた後も、地方で全共闘運動は続いた。全共闘運動は学生のソヴィエト運動といってもよい。関西BUND内では労働者ソヴィエト運動が志向されていた。最大の拠点電通大阪中電でのマッセンストが出来ないか、BUND労対部中心に論議が進められていた。1969年10月21日国際反戦デーには、中核派は、新宿占拠、BUNDは防衛庁突入を計画。大阪でも御堂筋占拠と呼応して中電占拠を企てた。

 全電通大阪中電は1959年共産党細胞がBUNDに寝返り、社会主義青年同盟の数人もBUND同盟員やシンパになっていた。この若い労働者によって占拠闘争は行われた。大阪中心部はデモ隊や群集であふれ返り一時占拠したが、中電占拠闘争は象徴的な意味を超えることは出来なかった。

 

 全共闘運動の行詰まり感と共に、「大衆的武装闘争」のみの限界が感じられた。活動家の間で「本格的な武装闘争」についての論議は始まっていた。「本格的な武装闘争」を焦点にBUND内でも従来の分派間の対立が顕在化した。「本格的な武装闘争」に反対だった「荒派」と「情況派」に対する内ゲバに発展。僕は軍事委員としてRGを指導する位置にいて、直接、「荒派」と「情況派」に対する内ゲバ(襲撃)を指揮し実行した。おろかだった。

 

 分派間の武装をめぐる論争が理性的に行われることはなかったし、出来なかった。一旦分派が出来てしまうと、理性的論争は行われず、純化と排除の力学が働いてしまう。なぜなのだろう。西欧では内ゲバはなかったと聞く。「真理に従う」(神に従う)という思考の伝統、そして対立物を止揚する[弁証法の思考]の伝統が身についているからなのか。60年世代の僕達はそれ(「真理に従う」[弁証法の思考])を目指したのではないのか。それが出来ずに内ゲバになってしまった。なぜか?日本人の中では「真理は属人的」だからなのではないのか。だから論争に行き詰れば、殴り合いになってしまうのではないのか。としたら、日本人にそれ(「真理に従う」[弁証法の思考])は可能なのだろうか。訓練した知識人には可能だろうし、そうでなければならないのだろう。そうでないと、世界の論争では通用しないのだから。だが一般の民衆の間では困難だ。互いの共通項を拡大して、相違を脇にやる。互いに傷つけあわないように反応を瞬時に計算して発言する。若い世代を含めて、というか若い世代ほど「村社会的」なコミュニケーションをしているのではないか。「根回し→たたき台→すり合わせ」といった「村社会的」コミュニケーションが依然として一般的だ。「個人主義」でも「集団主義」でもない「間人主義」の研究が必要か。

 1970年から80年まで10年間続いた殺人を含む新左翼系の内ゲバは、革命運動に壊滅的な影響を与えた。僕自身もその一翼を担ったものとして、責任をつよく感じている。

 

 

6.ブント赤報派(RG)

 1970年12月18日、BUND大会の前夜、活動中、交通事故を起こした。といっても僕は助手席にいたが、目の前が星一杯になり強烈なムチウチに見舞われた。頚椎と背骨が前後左右脱臼。1年後後遺症が出て腎臓病が発症した。真冬なのに全身びっしょり寝汗をかき、氷の上に寝ているような状態で、歩くのもままならないような状態になった。

交通事故の少し前に共同生活を始めていた阿部文子の献身的な支えと看護がなければどうなっていたかわからない。健康や病気に関する本を片っ端から読んだ。彼女の勧めで、玄米菜食や友人の勧めで漢方療法をはじめ、少しずつ歩く練習を始めた。彼女は終生の伴侶となってくれたが、絶望的と思える情況でも愚痴や泣き言を彼女の口から聞いたことがない。戦争中に父親を失い、戦後、母親は女手ひとつで6人の子どもを養った。食うや食わずのときもあったそうな。彼女はその母親をとても愛し、尊敬していた。彼女はかけがえのない僕の終生の伴侶であり、親友であり、同志でもある。

 

 分派闘争を経て、赤報(RG)派を結成。坂井、榎原と僕が中心で政治局=軍事委員会を構成し、RGを政治軍隊と位置づけた。各々のチームは公然活動をしている支持者と連絡をとっていた。僕の中では、映画「アルジェの戦い」で見たアルジェリアの民族解放戦線の地下組織のイメージがあった。民衆に支持され、民衆の海の中で活動し、ゲリラ戦を展開するイメージだった。

 RGもゲリラ戦を始めていた。1972年「連合赤軍事件」がTVで放映された。衝撃的だった。

 赤軍派もわれわれも関西BUNDの「政治過程論」で育ってきたためか、赤軍派の行動の必然性は痛いほどわかる気がした。また「共産主義化」による「共産主義的人間形成」も、程度の差はあれ共通の主体的実践だったからだ。従ってその結果としての「連合赤軍事件」をリアル感を持ってみた。「政治過程論」と「共産主義的人間形成」論の結果を見るようだった。

 

 その後しばらくして、榎原均が「あらゆる事態に対応できる党建設」を主張した。ある種の路線転換だったと思う。地下活動、理論活動、機関紙による宣伝、支持者拡大などの活動の中でも理論活動に重点が置かれた。此の「路線転換」は客観的に見れば、革命戦争路線からレーニンの武装蜂起を準備する党への転換で、ある種のソフトランディングだったと思う。

 

 地下活動をしながら、僕はスターリン組織観を批判した「革命戦争派の組織問題」を書いたが、完成することは出来なかった。その理由を思い出せないが、1970年代を現在から俯瞰してみると、ベトナム戦争終結と先進国での「豊かな社会」の出現によって革命戦争(武装闘争)の社会的基盤が失われていった。そのことが「理由」の背景にあったと思う。

「革命戦争派の組織問題」

http://www.geocities.jp/liberationsya/rh8.pdf http://www.geocities.jp/liberationsya/rh9.pdf http://www.geocities.jp/liberationsya/rh11.pdf

http://www.geocities.jp/liberationsya/rh15.pdf

 

 1960年代の革命運動は、敗北した。だが、それは1970年以降の新しい社会運動へのビッグバンであった。武力闘争を衰退させた原因である資本の高度成長的発展、豊かな社会、階級の成熟そのものが、同時に「新しい社会運動」登場の原因になっていたのである。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E3%81%97%E3%81%84%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E9%81%8B%E5%8B%95 (新しい社会運動)

 1970年代に、市民運動・NG0、消費者協同組合運動、フェミニズム、カウンターカルチャー運動、有機農業運動、マイノリティーの運動、環境・エコロジー運動、反原発・反核運動、障害者運動、パンク・ロック・・・資本と国家に対抗的なオルタナティブな運動が、左翼の政治権力奪取を目標とした政治運動とは別に、社会的権力に対する革命の要求(いまここから革命を!)を掲げて登場してきていた。

 

 1976年10月警視庁公安一課によって、赤報派の中心は逮捕された。200箇所にガサが入ったと後で弁護士に聞いた。僕は獄中で持病の腎臓病が再発。激痛の中、7日間尿が出ず断食した。

 7日目に血尿が大量にでて命を取り留めた。爆発物取締法では起訴されず窃盗罪で起訴されたが、確か罰金刑だった。東京拘置所に移管され、数ヶ月を過ごした後、京都拘置所に移送。7年ほど前京都府警から凶器準備集合罪で指名手配されていたので。裁判では起訴猶予。釈放後すぐ地下に潜行したが、体はぼろぼろ、寝ていることが多く、組織再建の活動が出来ず、もはやここまでかと思い、政治局員辞任と党からの脱退を政治局に通知した。人生のひとつの結節が終わったと感じた。

 

 悶々としながら体を直すためにいろんな健康法を始めた。玄米菜食だけでなくヨガ、気功法、野口整体など。東京・神田にあった道場ではこの3つを組み合わせていた。指導員には早稲田の全共闘の津村喬もいた。全共闘世代とは感性や肌合いや価値観の違ったやわらかい世代の若者達が集まっていて、時代の変化を強く感じた。気のエネルギーというかパワーのすごさを体感した。僕の体にはヨガ、気功法、太極拳、野口整体はあっていたようだ。急速に体は回復していった。

 1980年韓国・光州で武装蜂起が起こった。衝撃的だった。単なる群集の決起ではない。市街戦の様子は蜂起者の多くが軍隊経験者であることは明らかだった。僕と阿部は,日韓連帯運動のグループと連絡をとり、支援活動をした。飯が食えなくなっていたので、新聞配達から掃除夫、TV組立工などの労働で食いつないだ。

 塾で塾生を募集・勧誘する営業もやった。結構きつかったが6ヶ月で50万円ほど貯まった。さてどうするか。塾で英語を教えようと思いつき、とにかく海外語学留学を目指した。渡航費を払うと欧米では50万円は2ヶ月も持たない。そうだフィリピンだと思い、フィリピンへ渡航。

 

7.フィリピンへ

 1984年の末だったか、ガタピシと震えるパキスタン航空でマニラ空港に着いた。空港の外には客待のタクシーの運ちゃん達が黒山になって迫ってくる。なんとか切り抜けてマラテペンションに到着。そこは世界を旅するユダヤ人の常宿だった。フィリピン在住の西本神父から一人の先生を紹介してもらった。先生はケンブリッジ大学卒のプロフェッサーでクリスチャン、マルコス支持の熱烈な愛国主義者のフィリピン人(オーベン先生)だった。

 

 午前中3時間の授業が終わると、僕は毎日英字新聞を読み、反マルコス派の集会やデモがあれば参加した。首都マニラは戒厳令下にあったが、人々は気にしていない様子で数万の集会やデモをしていた。地方では共産党(新人民軍)の影響力が強かったようだが、マニラではアキノ派の方が人気があった。

 マニラの中心にあるルネタ公園で開催された数万のアキノ派の集会に行くと労働者だけでなく乞食の家族なども参加している。ジョークが入った気の利いたスピーチが3分、ジョークが決まれば笑いが地鳴りのように沸き起こる。続いてミュージシャンが10分演奏、それを延々と続ける。エンタテイメントだ。暗殺されたアキノの娘が歌った「HERO(英雄)」は圧巻で民衆の心をつかんだ。集会の最後は「アン・バヤンコ(我が祖国)」。全員がこぶしを天に上げ、静かにかみ締めるように歌い、帰路に着く。

 

 このアキノ派の集会に比べると、左派・共産党系の集会は紋切り型でエンターテイメントはなく古典的。メーデーの前夜にはマニラ市街を数百台の戦車が轟音を立てて一晩中走りまくり左派を威嚇していた。でも。人々はそんなことにはなれっこらしく、平気で数万のデモを繰り出していく。

 1980年代の中ごろには新人民軍(フィリピン共産党系の武装組織)が昼間は全土の25%ほどを、夜間は50%を支配下においていたと言われていた。ある新聞のトップページには、高校の卒業式の直後、50名ほどの卒業生がその足で山に入った(新人民軍に参加)と報じていて、ほ~と感心もし、共産党の底力を感じた。

 

 左翼のリーダーは、フィリピン大学卒等のエリートが多い。彼らには民族に対する希望がない。自分たちが国家を再建するしかないという自負があってか、単なる反対運動ではなく、本気で国家と社会を再興しようと思っているのだと感じた。だからか運動の組み立て方も緻密だった。リーダー達は表に出ないで、若者達がデモ指揮をする。僕はフィリピン人はおおらかで「ざる」だと思っていたが、反省。見直した。

 

 フィリピンの支配構造は、上にアメリカの軍と資本、そのすぐ下に日本資本、流通は華僑やスペインが握っている。元々のフィリピン人は農村やマニラで、スープのガラだけ与えられている、という感じだった。数百年間、スペイン人が血を絶やさずに支配を続けていた。フィリピン人は労働者や農民や乞食がめだった。僕にもフィリピン人の友人はいたが、10名以上の家族で助け合って暮らしていた。家族は一人の給料で皆が食う。

 

 一方、国家は税金を集めて国を運営することができず、IMFや世界銀行から借金していた。国の税金は、3%の支配階級しか払っていないという。だから、福祉はゼロ。家族や血縁の福祉に頼る社会で、近代国家以前の社会とおなじだった。共同体としての相互扶助で生き延びているのだ。だから、友だちの家に行っても、勝手に冷蔵庫を開けて、そこの食料を食べる。助けるときも100%、頼る時も100%。社会構造や意識が日本とは違う。それがフィリピンの相互扶助社会だ。トラブルは起こらない、それで生き延びてきたという感じだ。友人の家に2週間ほど滞在した時も金銭のお礼を決して受取ってくれなかった。

 

 フィリピン人の95%はカソリック教徒で、神父やシスターは人々の尊敬を集めていてその政治的影響も大きかった。マルコス政権打倒・「アキノ革命」のときの決定打は、カソリックのシン枢機卿が、カソリック系のラジオで激を発したことだった。アキノ支持・マルコス打倒の激によって神父やシスターは100万人の集会とデモの先頭に立った。兵士は神父やシスターを銃撃できない。国軍がアキノ支持を表明したとき「革命」が起こった。僕の常宿だったマラテペンションのオーナーも全力でデモを支持。食糧や資金を援助したといっていた。

 

 その後、ある市民団体と親しくなり、フィリピン北部の運動のネットワークに手紙(紹介状)を書いてもらった。その手紙一本でさまざまなグループと接触できた。共産党の地下組織が接触している合法組織のネットワーキングを感じた。長い間に「民衆の地下帝国」を全土に作り上げていたのだろう。革命の前に、民衆の権力や社会的基盤を十分に備えておくことが、革命成功の不可欠の条件なのだと痛感した。

 

 帰国後。僕はフィリピン共産党内に分派闘争が起こったことを新聞で知った。「農村から都市へ」という毛沢東路線に忠実な党首・ホセ・マリア・シソン派と都市革命派(マニラ中心の)との対立だったのではないかと推測した。両派共武装し地下組織を持っているので、分派闘争は武装闘争・内ゲバに発展してしまい、知的エリートや労働者・貧農の圧倒的支持を集め人気を博していた共産党・新人民軍は、急速に民衆の支持を失っていった。あの頃知り合った活動家達は元気なのだろうか。

1970年代の日本の新左翼の内ゲバを思い出す。

 

 1988年、学習塾で主に英語と社会を担当しながら、僕は海外から来る出稼ぎ労働者の支援活動を始めた。フィリピンでは強盗や窃盗にあい嫌な思いもしたが、随分助けられもしお世話になった。フィリピン人が大勢日本に押し寄せてきたとき、少しは恩返しができるかなと思った。結成直後の「カラバオ(水牛)の会」(横浜の寿町)に参加した。バブル景気で世間は浮き足立っていた。日本人がやらない3K労働を観光ビザで入国したフィリピン人やパキスタン人、バングラデッシュ人などが担っていた。すぐにビザは切れ不法滞在者になるので、賃金未払い、労働災害、解雇が頻発していた。カラバオの会は、日本語教室を開きながら、こうした労働問題解決のために行動していた。

 

8.カラバオの会  http://kalabaw.world.coocan.jp/

 ある日、不法滞在になっているパキスタン人、バングラデッシュ人、フィリピン人が「労働組合を結成」。東京で記者会見を行った。記者会見直後、代表のパキスタン人に寄り添って僕は彼と潜行した。警察が彼を逮捕するかもしれなかったからだ。

パキスタンやバングラデッシュの労働者はほとんどが大学卒の若者。各々イスラム教の宗派や地域ごとで日本に来ていて、各グループには知恵と人望があるリーダーがいた。円陣を組んで話し合いをする。そして最後にはそのリーダーの判断に従う。「長老」のような役割を果たしていた。イスラム社会の意志決定の方法を見た思いがした。アメリカ先住民の「長老」、日本の江戸時代農村での「長老」も似たような役割を果たしていたのかもしれない。

 

 職場で仲間が苦しい目に会えばお互いに助けあい、上司と交渉する。仲間が解雇されそうになれば、自分達の給料を下げていいから解雇しないでくれと交渉する。彼らの強い相互扶助の絆を感じた。病気をすれば、神(アッラー)の前に自らを戒め、食や生活を正す。彼らの姿は同世代の日本人に比べ、はるかに存在感があった。

 

 自分達の運動を整理するために、カラバオの会スタッフで、「仲間じゃないか外国人労働者」(明石書店)を出版。僕は10章・11章を担当した。グローバリゼーションと世界の移民の状況と排外主義潮流、産業構造の変化に伴う外国人労働者の経済的地位、といったことを書いた。これはヨーロッパで移民労働者と話をするときのベースになった。

 「仲間じゃないか外国人労働者」(10,11章)(明石書店)http://www.akashi.co.jp/book/b63526.html

 塾と家庭教師で500万円くらいの金が貯まったので、1991年初頭、僕は英会話を学び、ついでに移民労働者の実情を知るためにイギリスへ行くことにした。冬のヨーロッパはいやだったので、フィリピンで寒い時期を避けていた。突然湾岸戦争が始まった。常宿にしていたマラテペンションはユダヤ人の溜り場だったので、みんなTVに釘付け。イスラエルも参戦するかもしれない。

イスラエルには徴兵制がひかれていて若者は徴兵を済ませた後、世界旅行をするのが一般的だとのこと。ユダヤ人は際限なく議論をする。沈黙することがない。”日本人とは対極だね”、とあるユダヤ人は笑っていた。

 

 一人のユダヤ人と親しくなった。彼の先祖はドイツで迫害に会い、イスラエルに逃れてきたのだが、その歴史をこと細かく語る。ユダヤ人は民族の歴史を克明に子々孫々に語り継いでいるのだ。彼は物語を語る途中から涙を浮かべ、自分が体験した歴史かのように語った。

 

9.ヨーロッパ

 1991年3月、ウイーンからハンガリーに入り、ハンガリーからチェコ、ポーランド、ベルリンへと回った。1989年東欧での政変直後で、その第一印象は、”東欧の人たちは純朴だ。資本主義は人間を悪くする”、第二印象は”官僚主義”だった。日常的に人々に接していると、とても親切で感動してしまうほどなのだが、いざ鉄道の切符とか許認可の書類をもらいに行くと、恐ろしく官僚的で非効率。”これが東欧社会主義の実態なのか”と思わされた。

 

 ポーランドのワルシャワの中心・旧市街地広場では高校生らしい若者のデモにぶつかった。朝10ごろから3時ごろまで警察の装甲車と投石でやりあい、最後には建物の窓ガラスを片っ端から壊しまっくって去っていった。ポーランド人は激しい。3度まで祖国をロシアとドイツに奪われ(消滅)、敗北覚悟の抵抗を繰り返した「ポーランドロマンチシズム」のなせる業か。

 

 西ベルリンで梶村 太一郎さん(日独平和フォーラム)に会い、東ドイツ崩壊の話を聞くことが出来た。印象に残った話だけ覚えている。東ドイツでは、朝工場へ行くと、原材料が来ていないことがよくあり、その間労働者は買い物に行ったりする。労働生産性は西ドイツの25%くらいで、機械も1950年代の代物。これでは資本主義に太刀打ちできない。定年前の5年間、労働者は昼は工場で働き、夜はアルバイトをする、そうすると定年後は両方の賃金が加算され、その80%が年金として支給される。だから”国家が労働者を搾取しているのではなく、逆に労働者が国家を搾取していたのだ”と彼は言う。

 一人の労働者を配置転換する場合にも、上司が1年くらいかけて何度も何度も説得していて、ゆったりした労働環境だったらしい。

肉体労働者や工場労働者などを政権の基盤にしていたせいか、道路工事の肉体労働者の賃金の方が医師など知的労働者の賃金より高く、技術的に停滞していた。TVの時代だから欧米からの情報を東側市民はひそかに見聞きしていて、ソ連優位の神話はすでに崩れていたようだ。

 

 他方で、反体制派に対する秘密警察の監視がすごい。例えば、要注意人物の妻をスパイに勧誘して、ドイツ人的勤勉さで夫婦の寝物語まで綿密に記録してしまう。その秘密ファイルを夫が読めば気が変になってしまうような赤裸々なものだとのことである。東ドイツ反体制派「憲章21」の秘密会議議事録も、なぜか次の日には権力側に筒抜けになっていた。スパイ網が張り巡らされていたのだ。

民衆にとっては、東欧社会主義社会は、言論、出版、結社、職業選択の自由が著しく制限され、自己決定権を共産党官僚に独占された退屈で、くそ面白くない社会だったようだ。

 

10.ロンドン

 1991年3月末、ロンドン・アールズコートの安ペンションに到着。夜ふけになるとオーストラリア人出稼ぎ労働者の酔っ払い達が街頭に繰り出す。コックニーなまりの英語が飛び交っていた。”俺達は、犯罪者か売春婦か政治犯の末裔だ”といきまき、庶民的で義理人情に厚い感じの人達だった。英会話学校の先生もオーストラリア人でQeens Englishを話す人が多く、たぶん先祖は支配者としてオーストラリアに送り込まれたエリートの末裔達かもしれない。

 

 情報誌には集会やデモの情報が出ていて出来るだけ参加した。顔見知りになった人はLiving Marxismという第4インターに属していて、その人に英語の家庭教師(女性)を紹介してもらった。彼女はLiving Marxismという機関紙の編集者で、髪は5分刈りでパキッとした感じ。質問に対して10秒以内にYes,Noを言わないと”Yes or No!"と詰め寄る。とにかく万事簡潔にはっきりクッキリさせる。あいまいは気持ちが悪いのだろうね。

 

 アイルランド人との連帯デーがあって、その日は左翼の労働組合や党派が勢ぞろいする感じ。5000人くらいのデモの先頭は「アイルランド共和国軍」(北アイルランド独立を目指す武装グループ)の「制服」を着た軍楽隊が行進。この「制服」をイギリス政府は許せないのだ。騎馬警官で蹴散らそうとする。「軍楽隊」を防衛するのがイギリスの屈強な若者が数百名。デモ参加者は身分証明書などは一切持たず、番号が書かれた紙切れを渡される。逮捕された時、その番号を大声で叫べというわけ。What do you want? →Troops out now! Call and responseだ。英国はイラクに出兵、戦時下だった。この日のデモは荒れた。

 第4インターはイギリスでは3派に別れていて、Living Marxism、トニー・クリフ派のインターナショナル・ソシアリスツ、ゲリー・ヒーリー派の社会主義労働同盟がそれぞれ3000名くらいのデモをする力あったようだ。

 

 ある夜パブに先生といった。2階だったが10名ほどのイギリス人と5名ほどのアイルランド人が集まった。話の途中からイギリス人に対するアイルランド人の告発の場になった。”北アイルランドではイギリスの武力支配が行われているのに、なぜ君たちは銃を取って闘わないのか?!”イギリス人はただ沈黙しているばかりだった。

 

 夏になるとロンドン大学にLiving Marxismの活動家達が全国から集まる。地方の活動家達はロンドンの活動家の家に宿泊する。10日間ほどの集会はいろんな分科会に分かれて行われる。例えば50人の分科会でも全員発言する。とにかく発言しないと存在しないとみなされるのだ。最終日に全体集会が行われた。印象的だったのは、リーダーは50歳くらいだったが、若い世代が圧倒的多数だったこと。つまり世代間コミュにケーションが継続・継承されているとみた。ヨーロッパでは内ゲバはほとんど起こらなかったと聞く。その秘密はたぶんこのコミュニケーション力のせいじゃないのか。

 

 特に第4インター系で内ゲバがないのはソ連でのスターリン支配下で流刑、暗殺されたトロツキーの遺訓だったのか。倫理の強烈な一線が引かれていたのではないか。

 日本では「倫理」なんていうと、なんか”うさんくさい、抹香くさい”と受け取られてしまいそうだが、キリスト教の伝統の中では、個人主義の内面を支える核なのかもしれない。

 

 秋、阿部がヨーロッパに来た。神奈川シティーユニオンで彼女も海外からの出稼ぎ労働者支援をしていたので、まずパリに行った。パリでは、「多文化共生」という日本人グループのお宅に宿泊。朝起きるとイスラムのアザーン(礼拝への呼びかけ)が聞こえてくる。アルジェリア人などイスラムの人たちが周りに沢山住んでいるようだ。

 アフリカからの移民グループ(マリだったかな)を訪問、交流。オクラのような粘っこい野菜料理をご馳走になった。

 パリではもう一組の日本人宅にも宿泊。中学生の息子がいて、ある日その息子が”H電話サービス”を楽しんでいるのをおやじが発見。何時間も延々と強烈に問い詰める。僕は”もういいじゃないの、あやまってるんだし”と言うと、彼は、”こいつは、ここフランスで生きていかなければならんのだ。日本じゃないんだ”と言い返されてしまった。なあなあ、まあまあでは生きてなどいけんのだ、ここフランスは戦いの場なんだ、と言うわけ。日本人のぬるま湯を痛感させられた。

 

 「多文化共生」から紹介状をもらって西ベルリンに行った。紹介された人達はアントニオ・ネグリ達の流れを汲むアウトノミア(自律運動)系のドイツ人だった。彼らの一人に巨万の遺産が転がり込んできたとのことで、1ブロック全部のビルを所有していた。本屋、保育所、バー、自転車屋、cafeラウンジ ,会議室、集会場・・があった。

cafeラウンジには情報誌や新聞などが置かれていて、思い思いに読んだり、情報交換をしている。何月何日どこどこで集会やデモがあるよ、となれば出かけるんだといっていた。つまり自前のオルタナティブなコミュニティーをすでに作っていたのだ!

http://www.arsvi.com/d/autonomia.htm (アウトノミア)

 

 東ベルリンで宿泊した。アウトノミアの人たちが空家占拠(5階建てくらいの日本で言えばマンションの2階以上を占拠)しているところで、1階は老人達の溜り場で福祉施設。2階への階段には鉄板の門が入り、許可なしでは登れない。3階にとめてもらったが、電気、ガス、水道はSTOPしていない。責任者ぽい人が、どこかとそのことで交渉している様子。そのドイツ人と話をして気がついたことだが、ここはお互い一致しましたね、でもここは違いますねと整理していく。そして相違点について話をし、またここは一致しましたね、でもここは違いますねと整理していく。これ納得!クリア!ドイツ人もはっきりくっきりしないと気がすまないのにちがいない。でも、日本人もこの方法なら、ひょっとしたら出来そうな気がするが、どうだろう。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%B3%E3%83%83%E3%82%BF%E3%83%BC (空家占拠・スコッター)

 トルコ系移民のオフィスを訪問。イギリスでもフランスでもドイツでもそうだが、移民は立派なオフィスを持っている。ロンドンでは、パキスタン、バングラデシュ、インド、カシミール、ジャマイカ系移民が数1000名規模でデモやパレードをしているのを時々見かけた。入国管理の厳しい英国でも、旧植民地からの移民を優先的に受け入れているのだ。日本の閉鎖性を実感させられた。

 

11.帰国・Sさんのこと

 1990年年末に帰国。でも、問題は左足首の強烈捻挫でまともに歩けない。原因は、ハンガリーを旅行中、毎晩うまくて超安いワイン(日本では有名らしい)を飲んで、15kgほどのバックパックを担いで石畳の道を歩き、昔の捻挫がぶり返してしまったこと。さあどうする?友人に相談したら、ある人に診てもらえという。

 Sさんという女性で、僕が歩けない状況を説明していても、僕の左肩の上辺りを見てぼーと話を聴いている。変な人だなと言う感じ。後で話してくれたのだが、僕の左肩に”「守護霊」が乗っていた”と言う。”へー、どんなかっこうしているんですか?”と聴くと、絵を書いてくれた。死んだ親父にそっくり、その横に魚の絵も書かれている。モロコだなと思った。

”とにかく4回ほど来てください。”ということで4回行くと、普通に歩けるようになった。感激!足の指先から頭の方向に体のゆがみを直し、気を入れる全く独自の整体のようなもので、全身の気の通りがすっきりする。その結果、左足首捻挫にかかっていた負担が軽くなったのかもしれない。体調が悪いときは時々Sさんに診てもらっていた。         

 

 話は飛ぶが2002年鴨川に終いの住まいを入手したとき、遊びに来たSさんが”田中さんここ大変よ。すごく感じる”と言う。納屋の奥で、髪を振り乱したおばあさんが、鎌を振りかざして立っているのが見えるという。近所の人に聞くと、この家は裁判所の競売物件で、両親が亡くなった後、一人息子がパブでフィリピン女性に入れあげ、破産して夜逃げしたとのこと。”ひょっとしたらその後、母親がこの家を守っていたのかもしれないね”、という。さもありなん。

 数日後お礼の電話するとSさんは、弱弱しいか細い声で、”霊をひきうけちゃったみたい”という。心配で再度数日後電話すると、彼女は元気になっていた。”銀色の人の姿のような3つ光が体から出て行ったので楽になった”のだと。

 人生に悩み苦しんでいた30歳台のある日、突然、Sさんは全身天からシャワーのようなパワーを浴びた。それから”見える”ようになってしまったそうで、もうかれこれ25年お付き合いしているが、さまざまな場面での彼女の透視能力を僕は否定できない。いろんな話を伝えたいのだが、話せば話すほど眉唾ものと思われることも知っているので、この辺でやめておく。

 

 ただひとつ思うことは、人類は長きにわたる文化と文明の発達の中で左脳を著しく発達させた結果、右脳の自由な発達を抑圧してきたこと、時々その「抑圧」から自由な人がいるということだ。イエス・キリストの「奇跡」、マホメットの「神の声」、仏陀の座禅による「悟り」等も右脳の「解放」の結果だったように思える。彼らのような歴史的人物でなくとも、世の中には意外と「見える」人はいるようだ。

 Sさんは言う”本当は誰でもそういう潜在能力があると思うけど”。ということは言語によるコミュニケーション以前には人類は、何10万年もの間、テレパシーのような非言語的能力のみでコミュニケーションをしていたことになる。

 現在、シリコンバレーでは、脳科学、ナノテクノロジー、GM技術、コンピューターサイエンスを使って、非言語的コミュニケーション技術をマジで人工的に実現しようとしている。http://www.intershift.jp/book_cho.html (「超人類へ!」河出書房新社)

 

12.藤本選挙とカウンターカルチャ

 話を戻すと、1991年年末帰国した後、再び塾の講師で食いつなぎ、カラバオの会で活動を再開。1992年には藤本敏夫の参議院選挙に係わった。”やめとけ”といったが夜中まで話し込まれ根負け。”じゃー、当選を目標にしないでならいいよ”と返事し、渋谷東急近くの選挙本部に通い詰めた。ひとつのビル全体を誰かが”使ってくれ”といってくれたらしい。この辺は藤本の並はずれた人脈だね。エコロジストとカウンターカルチャーと新左翼、それに藤本ファンの中小企業経営者の混成部隊だった。エコロジーの本をむさぼり読み、カウンタカルチャー(平たく言えば「ヒッピー」)の発想の面白さにガツンとやられた感じ。

とにかく左翼の固定的な観念や発想は破壊され、パラダイムチェンジの波に襲われたようだった。

 

 カウンタカルチャー「3巨頭」の「お祭りポン太」、「旅の澤」、信州の「大江」も来た。特に「旅の澤」は10数名と寝泊りしていた。彼は確か16年間だったかなインドを無銭放浪、アフリカやイタリアでも放浪、カウンターカルチャーの「聖地」アムステルダムで「空家占拠」して住み着いていた。無銭旅行の名人のような男だった。

 

 選挙事務所では、飯は玄米と納豆のみで、2・30人が一緒に食べる。定番の選挙運動は全くやらず、街角でのパフォーマンス一本という感じで、みんなめっちゃ自己流で楽しみながらやった。結果は15万票。100万票がボーダーラインだったから、惨敗。たぶん1億近い借金が残った。これは加藤登紀子と藤本が全国でイベントやトークショーをして返済してくれた。

 

 1993年、藤本選挙に係わった数名である日グリーンピースのシンポジュームに行って、びっくり。地球温暖化と共にオゾン層が薄くなり、オゾンホールが拡大、オーストラリアでは皮膚がんが増加している。原因はCO2だけでなく、フロン。CO₂の15倍のオゾン層破壊力がある。ヤバイ!人類が危ない!みんな唖然として沈黙してしまった。

 

 フロンを使っているのは冷蔵庫、車の冷却装置。そんな時、東京の青梅でフロン回収装置を自前で買って、冷蔵庫のフロンを回収さしてもらい、500円を払っている!青年がいるという記事を新聞で見つけた。う~ん、よし、フロンを回収するぞということになり、貧乏人がカネを出し合って100万円でフロン回収装置を購入。廃棄冷蔵庫を市が収集していた施設に侵入し、フロンを回収。「オゾン層保護プロジェクト(フロンバスターズ)」と命名。メンバーは、過激な詩を書くヒッピー「旅の澤」、アニマルライツの代表、日の出町ごみ焼却場STOPの事務局長、先祖は秀吉の参謀とかの藤沢市市会議員、三菱電機社員で宇宙衛星を飛ばしている技術者(制御)、食と環境の女性ジャーナリスト、環境問題に目覚めたお坊さん(元やくざの親分)、フロン回収を自前でやっている青年、そして外国人出稼ぎ労働者支援の阿部と僕。

 

 会議は明け方まで激論もしばしば。お坊さんは、最初はお上品だが熱くなると、やくざの親分に早変わり。指が4本ほど無かったな。時々、通産省に乗り込んで、官僚を脅かしたりする強力なメンバー。僕らは神奈川県の10数の市役所に乗り込んで、”貧乏人でもできるのに、何でフロン回収やらんのだ”と談判をした。その結果かどうかわからないが、いろんな市でフロン排出規制条例のようなものが出来た。とにかく、めっちゃ面白かった。そうそう、フロンバスターズは、あのHな「PLAY BOY」誌の裏表紙に、でっかく写真が載ったこともあったな(笑)。

 

13.農民連合とネットワーク農縁

 1993年冷害で稲作は不作、平成の米騒動だ。政府はタイ米を輸入。だが、タイ米はまずいといってドブに捨てられた記事が新聞をにぎわす。政府はガットウルグアイラウンドで米の輸入を受け入れた。これに危機感を持った農民・石川県の宮本重吾が動き出した。一向一揆最後の砦・鳥越村出身を誇る彼は10年以上、冬農閑期になると全国行脚。有機農業研究会の会員や心ある農民や農民グループと話を続けていた。

”泥つき百姓を国会へ!”約1000名の百姓たちが「農民連合」結成に動いた。僕も呼びかけられ参加を表明。というのは、他方で山形・新庄の農家との米の産直グループ・「ネットワーク農縁」立ち上げ準備をしていたのを誰かが聞きつけたからだった。「農民連合」と「ネットワーク農縁」この両輪で走った。

 僕は「農民連合」が1995年の参議院選挙にかけるのには反対した。藤本選挙の経験があったので、にわか作りで国政選挙に打って出ても当選は無理、破産する、じっくり組織かためをやるべきだと主張した。受け入れられず選挙に突入。果たせるかな藤本と同じ15万票で、惨敗。「農民連合」は解散した。

 

 一方「農民連合」に係わった人と以前から産直をやっていた都市のメンバーがネットワーク農縁東京のグループを結成。山形の農家と会議を重ね、1995年3月ネットワーク農縁の設立にこぎつけた。失業中の僕が東京側事務局を担当。”都市耕作隊”と称して、東京周辺のマンションを、農家とスタッフが戸別訪問したりして手探りしながら進んだ。

http://nouen.wp.xdomain.jp  (ネットワーク農縁)

 

 1996年「遺伝子組み換え大豆が輸入」のニュースが飛び込んできた。日本消費者連盟に駆け込んで話を聴いてみると、なんだか危ないらしい。日本消費者連盟に支援されて「遺伝子組み換え食品いらない!キャンペーン」が結成されていたので、ネットワーク農縁の女性スタッフ3人が、「キャンペーン」に遺伝子組み換えNO!の「大豆畑トラスト」をやろうと話を持ち込んだ。その年、一気に全国で50数グループが、遺伝子組み換えNO!の大豆畑トラストの作付けを開始。

 

 翌1997年2月豪雪の中、200数10名が熱い思いで山形県新庄に結集、「大豆畑トラスト全国集会」を開催した。これで僕らの大きな方向性が少しわかった感じがした。遺伝子組み換えの米や大豆はNO!米や大豆のトラスト運動で在来種を守り広げる。単なる産直ではなく、生産者と消費者との相互支援・提携、互いに人の顔が見える関係を広げた。

「種子は誰のものか?」http://www.k-sizenohkoku.com/tt/tt_anguro/tt_anguro_syusi.htm

 

14.鴨川へ移住 

 1997年秋、体調を崩した僕は、低周波振動と電磁波障害に苦しめられ始めた。冷蔵庫の低周波振動音と電磁波、浄化槽に空気を送るモーターの振動音、電柱のトランスの振動音。小田急沿線から相模湖周辺へ、そして三浦半島の畑の一軒家から海岸べりへ。一時は海岸の洞窟で寝泊りして転々と移住を繰り返した。頭痛、不眠で神経が異常になってくる。

 本当におかしくなる前に、何か書き残しておこうとして「農の21世紀システム」を書いた。

後になって考えてみると、そのときは頭の中構想にすぎなかったものが、電磁波と低周波振動症候群の極限状態を機に、1998年僕を千葉・鴨川の山中に移住させたのかも知れない。

「電磁波ジプシー顛末記」http://www.k-sizenohkoku.com/tt/tt_ronbun_tanaka/tt_tanaka_denjiha_j.htm

「農の21世紀システム」http://www.k-sizenohkoku.com/tt/tt_ronbun_tanaka/tt_tanaka_nou21.html

鴨川に移住してからのことは、「循環型コミュニティーにトライー鴨川から」(2013年)をご覧ください。

 質問と回答

――「呼びかけ」を読まれての感想をお願いします。

 

田中:第一に、もう少しわかりやすいものにしてほしい。この文章を読んでも、実践・行動のイメージが湧かない。何をやるのだろうかを読み手が深く考えなさい、と言っている文章になっている。多少なりとも境さんと交流のある人であれば、協同組合社会的な方向性を考えているのかな、というのは感じるけど、境さんのことをよく知らない人にとってはよく理解できないのではないだろうか。

 

第二に、シュタイナーの人智学協会の手法と似ているな、と感じた。シュタイナーは人智学協会をベースに、教育、有機農業、建築、芸術、医療、銀行などのプロジェクトを作り、全世界的なネットワークを築いた。

 

第三に、カウンターカルチャーの資本主義批判版という感じがした。これまでのカウンターカルチャーには文化的な批判はあるが、資本主義批判はなく、なし崩し的に資本主義を変えようというもの。パソコンやリナックス、地域通貨、パーマカルチャーの運動などがカウンターカルチャーの例として考えられる。いつの間にかカウンターの側が力をもっている、というような方法なのかな、と感じた。

 

――科学知についてはどのように考えられますか?

 

田中:資本主義というのは、科学知を中心に進んできたと思う。特に20世紀は圧倒的に科学の時代だった。基礎理論の発展があり、さらに応用科学によって産業・経済を創出してきた。そのようにして100年間進んできた文明が行き詰っているような現象がたくさん起こってきている。科学は自らの実証を実験室でやり、それを社会的に応用している。その方法の弊害や限界が噴出している。公害がそのいい例だ。科学は自然を絶対的に認識できるのかという問題がある。実験室で実証したものを、複雑な社会に応用できるのか、という問題もある。

 

境さんが文化知と言っているのは、科学における実証の方法の限界、あるいはそれの適用では社会を認識できない、だからそれを乗り越える方法を提起しなければならない、ということではないか。このまま科学が突っ走っていけば、人類は滅亡するのではないか。ただ、もし天才が現われてわれわれが想像もできないような理論を出し、それを応用した技術・産業が生まれたら、資本主義は生きのびる可能性があるのではないかと、僕は考えている。ニュートン力学が18世紀イギリス産業革命の基礎理論となり、相対性原理や量子力学が20世紀アメリカ産業革命の基礎理論となったように。

 

現在の科学の根本には原爆の問題があると思う。第二次大戦が終わったときに、原爆開発に従事した科学者が失業した。彼らが別の分野に移動した。理論物理学や高等数学を駆使した原子力工学、遺伝子工学、情報工学、金融工学などへ優秀な研究者が流れた。その結果、諸科学が変質した。

 

たとえば、生物学では分子生物学が登場した。物理学の論理で生物学をやっている。それが遺伝子組み換えであり、ゲノム編集だ。最近は合成生物学というのが出てきてサイボーグを作ろうとしている。生命を大事にする生物学ではなくなっている。 金融工学では高等数学を使ってやっている。それがリーマンショックを引き起こした。コンピュータバクチ経済をつくり上げたのは原爆開発に携わった研究者だった。

 

21世紀の科学には二つのテーマしかない。一つは人工知能であり、もうひとつはバイオ。ゲノム編集というのは、遺伝子組み換えよりも簡単で安くできる。高校生でもできる技術だ。あと、生命を作っていこうという合成生物学。これらを産業の基礎におこうとしている。第4次産業革命の基盤となって、世界を席巻している。安倍政権になって日本でも始まっている。左翼はこれを理解していない。この動きがどのようになるかは全くわからない。

 

――そのような科学の動きは、やはり資本の論理に支配されているということですか?

 

田中:全くその通りだと思う。研究に対して膨大な資金が投入され、研究者がそれに飛びついている。資金を出す方も出される方もカネ目的でやっている。科学知がそのような専門家に独占され、民衆の生活からかけ離れていっている。もはや民衆の理解できる世界ではない。もともと技術は普段の生活から生まれてきたにもかかわらず、今ではそこから分離してきている。僕はこの新しい科学知は戦争に使われると思っている。人工知能によって作戦が策定され、ロボット兵器と無人機で戦争が行なわれる。

人間のあり方が問われてくると思う。これから人間の労働がどんどんロボットにとってかわられる。人間にとって労働とは何か、あるいはさらにそこから進んで人間とはそもそも何か、という問題が生じてくる。僕らの方でもこの問題を考えて新しい産構造、社会の構想を示さなければならないと思う。左翼は全然考えていないようだから、それではだめだろうと思う。

生活と科学知との関係で言えば、シューマッハーが「身の丈に合った技術」といっているが、そのようなものが要求されているのではないだろうか。生活過程のなかに科学知を埋め込むということが必要だと思う。

 

――新聞の最近の報道で、大学の入試問題で、人間とロボットとの違いは何か、という問題があって、そのひとつの回答として人間は子供を作るが、ロボットはできないというものがあった。人間とロボットとの究極の違いはそこにあると思いますが、どうでしょうか。究極的には人間とは何か、という問題だと思いますが。

 

田中: ロボットに人工知能を埋め込んでプログラムを組んでそのような意欲を持つようにすることは出来るような気がする。ただ、「人間とは何か」、と単独で問題を立てられると、答えるのは難しい。人間にとってロボットはどういう意味をもちますか、などいくつかの問いを重ねていくというのはあると思うが。

 

――自由意志があるかないかが、人間とロボットの違いじゃないでしょうか。

 

田中:人工知能も人間がプログラムした範囲でしか思考できないという意見と、自ら思考することが可能となるという意見と両方ある。シンギュラリティという問題がある。ロボット同士が情報を交換して、「あそこの人間を殺そう」と攻撃してくるようになるかもしれない。

 

――そのような問題を考えるときに、社会とは何かという問題を考えることが必要ではないかと思います。田中さんはどのようなものとして社会を理解されていますか。

 

田中:人々の行動や認識の共通する様式が基礎となっているもので、コミュニティ+アソシエーションだと思っている。コミュニティとは生まれた地域社会、ムラ社会であり、資本主義はそれを破壊してきた。個人として孤立化していって、そこから会社などのアソシエーションが生まれていく。ただ日本では個が確立しているかどうかは微妙だと思う。欧米では産業革命以降確立している。子どものころから甘やかされずに訓練されている。一人前の大人として自立した個人を形成することが親の務めだと思っている。日本人はそれをやっていない。

 

――そのような違いはなぜ存在するのでしょうか。

 

田中:根本的にはキリスト教の伝統でしょう。彼らは何百年も神と向かい合ってきた。神の前に個人として自立するというのが基本。彼らは神の前で懺悔するが、懺悔とは自己批判であり、自分が人間としてあるべき生き方を誓う。そのような個の確立がなければ他人との関係を形成できない。というのは日常が自己主張の闘いの世界だから。そのため、闘って勝てる人間を作っていく。日常生活が闘い。だから国家とも闘う。日本では日常生活で闘うということがない。周りとはできるだけ協調したい。闘う社会になればギスギスすると考える。そういう人の育て方の違いがあると思う。宗教の面からみると、仏教の影響があると思う。

 

それと大きいと思うのは、キリストは男だから、欧米は男社会。財布を男が握っている。日本では伝統的に女が握っている。それは何を意味しているかというと、日本は母系社会というか母親中心の社会だから、子どもが全員平等に可愛い。そのような横並びから出発している。学校教育や企業の人事のあり方(年功序列)がそうだった。企業でもトップダウンの経営ではなく、ボトムアップの経営だった。それでバブル崩壊前は上手くやっていた。このやり方を何百年もやってきて、習性となっている。

 

――アソシエーション社会の形成ということを考えると、個が確立して闘争する欧米社会よりも協調を重んじボトムアップ型の日本の方が、移行しやすいのではないでしょうか?

 

田中:アソシエーションの運営の仕方が違うのではないか。欧米では違いをきちんと論争して運営していく。日本ではまず共通項を確認して違いはだんだん消えていく。どちらがいいかは難しい。

 

60年代世代は欧米型の運営をやろうとした。二つの視点から議論してそれを止揚した解決策を探るんだと言った。ただ日本では真理が属人的だと思う。だから論争が激化すると喧嘩になる。若い人はこの点をわかっているから、やらない。ただ、時代の激動期にはそれではやっていけないのではないか。協調型では危機の時には右にならえ、となって、天皇制ナショナリズムに持っていかれる可能性がある。だから日本型とも欧米型とも違う第三の方法を生み出さなければならない。

 

――田中さんが現在行われている活動には、どんな困難や問題があって、その解決に文化知の方法が役に立つでしょうか?

 

田中:実践に結びつくリアリズムがこの文章から僕は掬い取れない。文化知というのは、価値形態論の方法、形態規定の諭理をもとにした方法論であるというのは理解できるが、実践的ビジョンがない。僕なりに考えれば、自然と人間との関係を考えると、労働を媒介とした物質循環があって、文化知の方法で言えば、そこに循環しているエネルギー、労働が実体になるのかなと思う。つまり農業のあり方が人間および自然を規定する。化学農業ではその循環が破壊される。例えば農薬を使えば田んぼの微生物がころされ、物質循環が損なわれる。それに対して有機農業では物質循環が成立する。だから有機農業の方が優れている。このような結論が価値形態論の方法を応用すれば言える、そこまで落とし込んでイメージできないと、僕には理解できない。

 

――文化知創造ネットワークの形成というのは、今田中さんが展開してくれたようなことをみんなで独自にやっていただきたいということだと思うんですが。

 

田中:そういう観点で言えば、冒頭で言ったようにシュタイナーに手法が似ているな、と思う。一つの理念のもとに、政治、経済、文化などさまざまなプロジェクトを設定し、ネットワークを作ってそれを展開していく。そのような意味であれば、僕はよく理解できる。もちろんシュタイナーとは理念が全然違うけど。でも出てくる実践的方向、ネットワーク形成の方法は似たようなものだと思う。そのように言われたら、いろいろな実践をしている人間はよくわかると思う。この文章のような抽象的な形で言われても、ほとんど理解できないと思う。

 

運動が抱えている困難ということで言えば、モンドラゴンが直面している問題と一緒だ。第一世代から世代を重ねるごとに理念が薄らいでいく。単なる就職口になっていっている。90年代初めにモンドラゴンに行ったことがある。そのとき、モンドラゴンの教育担当の人が、「意識変革を教育でできるのかという問題がある。」と言っていた。

 

ネットワーク農縁の有機農業運動でいうと、今の消費者は旨いか不味いか、安いか高いかという視点が中心になっているようだ。そういう問題に直面している。だから、去年から原点に返って、映画会をやり食事会をやって消費者のレベルアップを図っていこうとしている。

 

原発事故以降、食品の安全性に関心のある消費者は増えているが、今は減農薬の野菜なら普通のスーパーでも売っている。僕らが最初の頃は消費者はほとんど減農薬で無農薬は少なかった。今はほぼ無農薬。減農薬はどこでも買える。だから販売ルートがものすごく拡大し、いままで有機農業運動をやってきた人にとっては、(販売の)市場が狭まってきていて、消費者が他のところにいってしまっている。

 

有機農業運動や産消提携運動をやってきた人は、何十年も文化知運動をやってきたと僕は思う。産消提携運動というは、消費者が農作業を手伝いにきたり、米などの価格を生産者と消費者が協議して決めるとか、あるいは災害に備えて基金を作るなどする。また、生活上の諸問題を共有して考え方をすり合わせていく。だけど、それが伸びて行かない。困難にずうっと直面してきている。

 

若い人は別の方法で解決しているかもしれない。討論するとか理屈で納得させるとかいうことをやらない。僕らは認識させようとするが、若い人は知らない間に刷り込むという方法ではないか。論理的説明ではなく、感覚的な刷り込み。それが一番行動に結びついて持続していく。若い人はそのようなことを感覚的・経験的に理解している。イベントが楽しくてどんどん人が集まる。アースデイとかで何万人レベルで集まる。うまいやり方かもしれないが、僕らはついていけない。若い人と組んで若い人にやってもらうしかない。世代交代が抱えている問題だ。

 

――そういうイベントを通じて有機農業は伸びていっているんですか?

 

田中:たいして伸びていっていない。若い人が作るのは大したものではない。何十年もやっている人は良いものを作って、本物なんです。若い人は宣伝は上手いんだけど、できてくるものはしょぼい。それでは通用しない。60年代世代は本物を作るけど宣伝は下手、というか積極的にはしたくない。いい物を作れば人が買ってくれると思っている。だけど市場経済ではそれだけでは買ってくれない。若い人は生まれたときから市場経済で訓練されているから、それをよく知っている。いかにきれいいに見せるか、楽しく見せるか、がメインで、モノが後からついてくると考えているようだ。

 

――若い人には市場批判・資本主義批判がないということでしょうか?

 

田中:基本的にお金に対する考え方が違う。僕らの世代はお金は必要だけど邪悪なものだという観念がある。今の若い人は、上手く使えばいい、何の問題があるのか、という感覚がある。だからしっかりとるものはいただきますという、市場だからという。その意味では持続性はある。僕らは自腹を切ってでも安く提供しようかと思う。だから持続性がない。でも僕らには資本主義批判がある。

 

――資本主義に乗りつつ批判するという方法があるのでは?

 

田中:カウンターカルチャーは、批判するのではなく、資本主義に乗りつつ、いつの間にか変えていく。というか、資本主義とはちがったものを大きくしていく。たしかに、例えばパソコンは、資本の武器となると同時に民衆の武器ともなっている。そのような方法で社会を実際に変えている。その行きつく先は脱資本主義化かというとそれはよくわからないが、すこしは貢献しているかもしれない。それにたいして左翼は社会をあまり変えていない。左翼は弱いからかもしれないが。カウンターカルチャーの方がはるかに変えてきている。

 

最近の動きではブロック・チンェーというのがあって、インターネットでアマゾンやグーグルなどの大資本とつながらないで、個々人同士でつながっていこうと動きである。ビットコインでも儲けることのないものをやろうとしている。地域通貨のネット版みたいなもの。若い世代がこのようなものをやっている。

 

また、現実のコミュニティともつながっていこうとしている。たとえばブロック・チンェーと有機農業やコミュニティー運動につながっていこうという動きが鴨川でもある。これは資本主義を空洞化させていくかもしれない。こういうのも文化知の一つかもしれない。若い世代と接触して初めてこういう動きがわかる。

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